6月1日の祈祷会の内容です。

祈祷会
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祈祷会        民数記19章「清めの水」      2022.6.1

 5月29日には、無事に竣工式を行うことができました。教会の工事はまだいくつか残っていますが、完成が近づいていることはうれしいことです。約1年間の歩みを神が守り導いてくださったことに深く感謝したいと思います。新しく完成した教会堂を、これからどのように導いてくださるのか楽しみでもあります。教会の働きは神を礼拝し、讃美し、祈り、伝道することです。この基本を大切にし、歩んでいきたいと願っています。また、29日の礼拝のオンライン配信がうまくいきませんでした。配信を待っておられた方々、大変に申し訳なく思っています。今度は、無事に配信することができますように、お祈りください。

 祈祷会では、民数記の学びを続けています。神の民として選ばれたイスラエルの人々、神の民としてふさわしい歩みを求められていますが、それとは反対の道を歩んでいる姿をみています。エジプトを出たイスラエルの人々、荒れ野の旅を経て、約束の地カナンに行くのです。シナイの荒れ野で、神と契約を結びました。神の教え、幕屋、祭司などが整えられていきました。シナイの荒れ野から、新しい神の民としての歩みが始まっていきました。約束の地を目の前にして、人々は偵察隊を送りました。その結果として、約束の地に入ることを拒否してしまったのです。神の裁きとして、荒れ野の40年の歩みが決まりました。この40年間の歩みの中で、コラの反逆が起りました。

 レビ人のケハト族に属するコラは、自分自身が祭司職を求めて、モーセやアロンに反逆します。その結果として、コラとその仲間は、地にのみ込まれてしまいました。また、コラの反逆に加わった250人も焼かれてしまいました。コラの死の責任は、モーセとアロンにあるとしたイスラエルの人々の共同体は、神の裁きによって、疫病が起り、14700人が亡くなりました。たくさんの人々が亡くなりました。そのために、亡くなった人々に触れた者に対する清めのことが問題になっていました。この民数記19章は、その亡くなった者に触れた者のための清めの水のことが書かれてあります。

・19:1~10、赤い雌牛の灰の作り方

 神はモーセとアロンに命じます。まだ背にくびきを負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来て、祭司エルアザルに引き渡し、宿営の外で屠ります。祭司エルアザルは、指でその血を、取って、それを7度、幕屋の正面に向って振りまきます。それから雌牛を焼きます。皮も肉も血も胃の中味も一緒に焼きます。祭司は、杉の枝、ヒソプ、緋糸を取って、雌牛の焼いている火の中に投げ込みます。祭司は自分の衣服を洗い、体に水を浴びた後、宿営に入ることができます。それから、身の清い人が、雌牛の灰を集め、宿営の外の清い場所に置きます。それは、イスラエルの人々の共同体のために、罪を清める水を作るために保存されます。雌牛の灰を集めた者も自分の衣服を洗います。自分自身を清めるためです。

・11~22、汚れを清める水の使用について

 どのような人の死体であれ、それに触れた人は7日間汚れます。罪の結果としての死であるから、そのように汚れているのです。その人が3日目と7日目に身を清める時に、清くなります。身を清めないと清くなりません。すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、神の幕屋を汚すことになります。その人は、イスラエルの共同体の中から絶たれることになるというのです。人が天幕の中で死んだ時の教えは、次の通りです。その時に天幕に入った者、その中にいた人はすべて7日間汚れることになります。また、ふたをしていなかった空いた容器もすべて汚れることになるのです。野外で、剣で殺された者や死体、人骨や墓に触れた者はすべて、7日間汚れます。その汚れたもののためには、罪の清めのために焼いた雌牛の灰の一部を取って容器に入れ、それに新鮮な水を加えます。

 身の清い人が、ヒソプを取って、その水に浸し、天幕とすべての容器およびそこにいた人々に振りかけます。更に、人骨、殺された者、死体あるいは墓に触れた者に振りかけます。3日目と7日目に、身の清い人が汚れた者に振りかけます。汚れた者は、7日目に身を清め、衣服を洗い、体に水を浴びると、夕方には清くなります。しかし、汚れた者で、身を清めない者は、会衆から絶たれることになります。神の聖所を汚したからです。清めの水が彼の上に振りかけられなかったので、彼は汚れています。清めの水を振りかける人は自分の衣服を洗うことになります。清めの水に触れた者は夕方まで汚れています。汚れた者が触れるものはすべて汚れることになります。またそれに触れる者も夕方まで汚れます。

・ルカ10:25~37「善いサマリア人」のたとえから考える。

 イエス様が話された有名なたとえ話ですが、追いはぎに襲われた人が倒れていました。その道を祭司やレビ人が通りましたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行ったのです。次に来たサマリア人がその人を助けたというものです。ここで、祭司やレビ人が傷つき倒れた人を見捨てて、行ってしまったことが問題とされていると思います。神に仕える者が、どうして傷つき倒れている人を助けなかったのかということです。その通りだと思いますが、祭司やレビ人にすれば、もし傷つき倒れている人が死んだ場合、1週間、祭司やレビ人が汚れることになり、大切な神への奉仕ができないことになるかもしれないと判断して、知らないふりをして行ってしまったのでしょう。私たちはこのイエス様のたとえ話で、悪者にされた祭司やレビ人の事情を知ることも必要だと思いますが、

 でも、イエス様は傷つき倒れている人を助けることができない祭司やレビ人を、当時、イスラエルの人々から嫌われていたサマリア人が助ける話をすることで、批判しているのでしょう。イスラエルの人々が、人の死をどのように受け止めているのか、知ることができました。罪の結果としての死ということなのです。そのために、イエス・キリストが十字架について死ななければならなかったのですから。

祈り 神よ。民数記の学びをありがとうございます。旧約の学びを通して、イエス様の十字架の意味をより深く知ることができます。あなたの御心を正しく知り、受け止めることができるように、あなたからの知恵を与えてください。そして、私たち1人1人が、あなたに従っていく喜びを深くすることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                      」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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