12月7日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会      申命記2:24~37「ヘシュボンの王シホンとの戦い」   2022.12.7

 エジプトを出て40年後、イスラエルの人々は約束の地カナンを目の前にする所までやって来ました。ヨルダン川東側のモアブの平原で、モーセはこれから約束の地に入って行くイスラエルの人々に、神の民として生きることの意味を語っています。荒れ野の40年の旅を振り返りながら、神の導きを語るのです。荒れ野に40年間放浪していたイスラエルの人々は、世代交代が終り、神の命令で再び、約束の地を目指して再出発をして行きます。途中通過するエサウの子孫の土地、ロトの子孫の土地であるモアブとアンモン人の土地は通過するだけで、占領することはできないと神はいいます。それは、神がエサウの子孫とロトの子孫に与えた土地だからです。

 しかし、今日の聖書の箇所であるヘシュボンの王アモリ人シホンの土地は違って、戦い、占領するように神は命じます。

・2:24~25

「立ち上がって進み、アルノン川を渡りなさい。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国をあなたの手に渡した。シホンに戦いを挑み、占領を開始せよ。今日わたしは天下の諸国民があなたに脅威と恐れを抱くようにする。彼らはあなたのうわさを聞いて、震えおののくであろう。」

 このように、エサウの子孫とロトの子孫の土地の場合とは違い、戦い占領するように命じています。ただ、すぐに戦いを挑むのではなく、シホンのもとに友好使節を送っています。

・2:27~29

「領内を通過させてください。右にも左にもそれることなく、公道だけを通ります。食物は金を払いますから、売って食べさせ、水も金を払いますから、飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです。セイルに住むエサウの子孫やアルに住むモアブ人が許可してくれたように、ヨルダン川を渡って、わたしたちの神、主が与えてくださる土地に行かせてください。」

 だから、実際には、アモリ人の土地を通過する時に、友好使節を送って、土地の通過の許可をもらうようにしたのでしょう。しかし、アモリ人の王シホンは、イスラエルの人々の通過を許さず、軍隊を送って対応するようにしたのでしょう。だから、イスラエルの人々は、アモリ人と戦うことになったのだと私は思います。アモリ人の王シホンが、イスラエルの人々の通過を許さなかったのは、人々の数の多さに圧倒されたのだと思います。イスラエルの人々の数、少なくても100万人以上の人々が、自国を通過するということになれば、ただでは済まない、何か問題が起ると感じたのでしょう。しかし、アモリ人の王シホンが、自分たちの通過を許さなかった。それは、神である主が働いて、シホンの心を固くにし、強情にしたからだといっています。それは今日、アモリ人をイスラエルの人々の手に渡すためであったとなっています。

 そして、神はモーセを通して、イスラエルの人々に「見よ、わたしはあなたにシホンとその国を与える。それを取るために占領を開始せよ」と命じます。シホンは全軍を率いて出撃し、イスラエルの人々を迎え撃ちました。戦いはイスラエルの人々の勝利で終り、アモリ人の土地をすべて奪い、男も女も子どもたちのすべて滅ぼし尽くしています。家畜だけを略奪しました。家畜だけが戦利品でした。神はアモリ人のすべてをイスラエルの人々の手に渡したのです。そして、3章にはバシャンの王オグとの戦いが待っています。シホンの場合と同じようにしています。このアモリ人の王シホンの場合は、これからイスラエルの人々が約束の地に入って行く時に、することです。先住民に戦いを挑み、追い出し、その土地を自分たちのものにしていくのです。約束の地は、神がイスラエルの人々に与えられた土地だからです。なぜなら、先住民は偶像礼拝をしているからです。そのような理由で、イスラエルの人々はこれから約束の地に入って行き、そのような戦いをすることになります。

 聖書、キリスト教では、真の神はただ1つであり、偶像礼拝を禁じるということが大切なこととしていわれています。特に、旧約聖書では強調されています。私たちが住む日本では、この点をどのように考えたらよいのでしょうか。欧米の宣教師たちによって、キリスト教は日本に伝えられて来ました。宣教師たちの働きを抜きにしては、日本でのキリスト教、教会の歩みはなかったのです。宣教師たちは、まことの神のみを信じることを強調して来ました。もちろん、それは大切なことですが、それまで大切にしてきた宗教や習慣を破ることになります。今までの宗教を捨てて、キリスト教を信じることになるわけです。それは、家族の分断、地域の分断を意味することになっていきました。日本人がキリスト教を信じていくためには、いままでの宗教的な関りを捨てることを意味します。そのことが日本で、キリスト教が浸透していかない1つの理由かもしれません。

 今は、時代が進み、他宗教との共存を大切にして歩むことが求められていると私は感じます。自分が信じるキリスト教は大切なものです。それ以外の人々が信じているもの、家にあるものをその人が大切なものとして尊重していくということです。インドでマザーテレサの働きがありました。彼女は、死を待つ人の家をつくりました。そこでは、キリスト教だけではなく、ヒンズー教徒、イスラム教徒も、それぞれの信じる宗教によって、死の葬りがなされるのです。そのような広い視野が私たちには求められていると私は思います。自分のキリスト教の信仰を大切にしながら、他宗教の人々の信仰も尊重していくという歩みです。これはとても困難な歩みかもしれません。

祈り 神よ、祈りと学びの時をありがとうございます。あなたを信じる時に、本当に何を大切にしていけばよいのか知恵を与えてください。そして、共にある人々と、どのように共に生きていけばよいのか、適切な知恵を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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