祈祷会 士師記4:1~11「士師デボラとバラク」 2024.6.12
士師記には1つの流れがあります。イスラエルの人々は約束の地に入って来ました。そこでも多くの先住民が残っていました。イスラエルの人々は先住民と共に生きることになっていきます。イスラエルの人々は平和の中で先住民と共に仲良く生きようと思ったのです。先住民と交わっていきました。そして先住民の神々を拝むようになっていきます。それは、神の教えに反することでした。神は怒って、イスラエルの人々に敵を送ります。敵は、イスラエルの人々を支配し苦しめます。すると、人々はその敵の支配に苦しみ、神に助けを叫び求めます。人々の声を聞いた神は憐れみ、1人の救助者である士師を送ります。士師が活躍し、敵を追い払います。すると、人々に平和が戻って来ました。人々は喜びます。士師は亡くなっていきます。平和な日々が続いた後で、人々は先住民と平和に生きようとして、交わっていきます。すると先住民の神々をまた拝むようになり、神の怒りをかうことになります。神は敵をイスラエルの人々のもとに送ります。このような流れが続いていくのです。何度も何度も同じことを繰り返していくのです。
士師として、オトニエル、エフド、シャムガルが活躍しました。士師エフドが死んだ後、イスラエルの人々はまたも神の目に悪とされることを行いました。ここではその悪の内容は書かれてありませんが、先住民の神々を拝んだと想像することができます。神は怒り、カナンの王ヤビンにイスラエルの人々を売り渡されたのです。ヤビンの将軍はシセラでした。イスラエルの人々は苦しみ、神に助けを求めて叫びました。ヤビンは鉄の戦車900両を有し、20年に渡ってイスラエルの人々を力ずくで押さえつけたのです。
ここから新しい士師が登場して来ます。ラビドトの妻、女預言者デボラです。ここに女預言者と書かれてあります。モーセの姉ミリアム(出エジプト記15:20)以来ということが分かります。士師の中に女性がいたということです。デボラは士師としてイスラエルの人々を裁いていくのです。デボラはエフライム山地のラマとベテルの間にあるなつめやしの木の下に座を定め、人々はデボラに裁きを求めて上ることにしています。
さて、デボラは人を遣わしてバラクを呼んで来て、イスラエルの神はお命じになりました。「行け。ナフタリ人とゼブルン人1万人を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンとその軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す」と。バラクは「あなたが共に来てくださるなら行きます。もし来てくださらないなら、私は行きません」とデボラにいいました。デボラは「わたしも一緒に行きます。ただし、今回の出陣で、あなたの栄誉を自分のものとすることはできません。神は、女の手にシセラを売り渡されるからです」とバラクに答えています。デボラとバラクは共にケデシュに向かいました。バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに招集しました。1万人がバラクに従って上りました。戦いの準備が整いました。この後は、シセラの軍隊との戦いになっていきます。
今回の学びで注目したいことは、女預言者デボラのことです。デボラも士師として活躍していきます。旧約聖書を読んでいくと、どうしても男性中心の視点で書かれてあります。旧約聖書は紀元前に書かれたものですので、時代的な背景で、そのように男性中心の傾向があることが分かっています。その中でも、女性の役割があるのです。預言者として、士師としての活躍です。また、「神は女の手にシセラを売り渡らせるからである」とも書いてあります。女性の働きを、しっかりと受け止めている姿だと思います。
一方、現代は男性と女性が平等であることがいわれています。また、男性であることと女性であることを巡る視点も変化して来ています。男性と女性の区別を強調しすぎると間違った視点であると考えられています。また、LGBTなどの性に関わることも大きな視点です。
新約聖書のパウロはキリスト教に大きな影響を与えた人です。キリスト教の土台をつくったのはパウロといわれています。しかし、そのパウロには、女性に関する内容が、今日では問題があると私は思います。その箇所の1つが以下のところです。
1テモテ2:9~15
同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
特に、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」とある箇所です。パウロの時代は、今から2000年前ですから、このような考えだったと理解することはできます。しかし、現在の視点から見ると、問題があります。どうしても男性中心の考えになっています。その視点を私たちは克服する必要があります。ただ、聖書の文章として残っているので、このパウロの文章によって、苦しんだ人が多くいたと思います。神の言葉である聖書をいかに、信仰として受け取っていくのか課題があることも知っておくことが大切だと思います。
祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。女預言者デボラのことをみてきました。デボラが士師として用いてくださっていることに感謝します。聖書の言葉をどのように受け止めて、考えていくか課題を考えながら、いつの時代でも、神の言葉として受け止めていくことができる知恵と信仰を与えてくださいますようにと願います。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)
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