3月5日の祈祷会の内容です。

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祈祷会       サムエル記上2:1~17「ハンナの歌」     2025.3.5

 サムエル記上の1章はサムエルの誕生の話から始まります。サムエルの母となるハンナですが、最初はとても厳しい状況にありました。ハンナの夫のエルカナには2人の妻がいたのです。1人はハンナで、もう1人はペニナでした。ペニナには多くの子どもたちが生まれましたが、ハンナには子どもが生まれませんでした。ハンナを敵と見るペニナは、毎年、シロに上り、神を礼拝し、いけにえをささげる時に、ペニナには子どもたちの分を含めて、夫のエルカナから多くの分け前を受け取ることができました。しかし、ハンナは自分の分だけを受け取るのです。子どもができないことで、この時にペニナがハンナをいじめるのです。思い悩ませ、苦しめるのです。毎年、シロに行くたびに、このような苦しい目にハンナは味わうことになり、悲しい思いをしました。ハンナの苦しみを知ったエルカナが慰めますが、ハンナにはそのことがかえって苦しみを増すことになってしまうのです。

 シロに行き、いけにえをささげた後で、ハンナは悩み嘆いて、主に祈り、激しく泣きます。そして誓いを立てて「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」と祈るのです。神は、ハンナの祈りに答えてくださり、身ごもり、月が満ちて、男の子を産みました。主に願って得た子どもなので、その名はサムエル(その名は神)と名付けました。サムエルが乳離れするまで、ハンナは愛情をこめて育てました。乳離れした後で、ハンナはサムエルを連れて、シロの主の家に上って行きます。ハンナは祭司エリに「私はこの子を授かるように祈り、主は私が願ったことを叶えてくださいました。私は、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です」といいます。

・2:1~11、ハンナの祈り
 そこで、ハンナたちは主を礼拝します。その後で、ハンナは主に祈っていいます。このハンナの祈りが、ハンナの歌といわれるものです。「主にあって、わたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う」(1節)、ここでは、ハンナの神への深い信仰をみることができます。ハンナは自分に子どもが生まれないことで、深い悩みと苦しみと悲しみの中にありました。それが、神への思いを深めていったのです。自分の力ではどうすることもできません。できることは神に祈って、自分の願いを適えてくださいと願うことです。神との取引のような祈りになっています。男の子を与えてください、そうしてくださるなら、その子を主にささげたものとしますと、いうのです。神に祈るしかなかったら、そのような神への強い信仰につながっていったのです。「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上った言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神。人の行いを正されずに済むであろうか」(3節)ハンナは、神への祈りの中で、高ぶりを感じていたのでしょうか。それでも、自分の思いを正直に語ることによって、自分の思いへの高ぶりを、主に委ねていったと思います。

 「子のない女は、7人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える」(5節)自分の祈りの結果として、神がそのようにしてくださるという信仰が、このような祈りとなっていったのです。「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ」(6~7節)この祈りをみると、ハンナは、主の力によって、人の命を支えるのも主であり、生きること死ぬことも主の御心の中にあると信じ、語っています。「主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者の闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き、天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし」(9~10節)ハンナは、その人の人生において、神を信じて正しく生きる人に、神は恵みと慈しみを与えられること、反対に、神に逆らう者は、厳しい裁きが与えられることを歌っています。ハンナの祈りは、神への深い信頼の中で語られています。

 このハンナの祈りの後で、エルカナたちは自分の家に帰って行きました。幼子サムエルは、祭司エリのもとにとどまって、主に仕えるのです。

・2:12~17、祭司エリの息子たちの歩み
 祭司エリの息子たちの様子がここで書かれてあります。エリの2人の息子の名前はホフニとピネハスです。(1:3)エリの息子たちはならず者で、主を知ろうとしなかったとあります。どのような内容かといえば、誰かがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に、祭司の下働きが3つまたの肉刺しを手にやって来て、窯や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れます。肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとしました。シロに詣でるイスラエルのすべての人々に対して、このように行ったのです。そればかりでなく、人々が供え物の脂肪を燃やして煙にする前に、やって来て、いえにえをささげる人に「祭司様のために焼く肉をよこしなさい。祭司は煮た肉は受け取らない。生でなければならない」といいました。人々が「いつものように脂肪をすっかり燃やして煙になってから、あなたの思い通りに取ってください」といっても、「今、よこしなさい。さもなければ力ずくで取る」と脅迫します。この祭司の下働きたちの罪は主に対して大きな罪となっていきます。下働きたちが主への供え物を軽んじたからだとあります。

 祭司エリにとって、この息子たちの悪行は、大きなつまずきとなっていきます。どうして、エリの息子たちは神を軽んじるようになってしまったのでしょうか。それに比べて、ハンナは神を信じて、歩むことができたのでしょうか。それは、ハンナには大きな苦しみがあったからでしょうか。そうすると、エリの息子たちには大きな苦しみはなかったということでしょうか。この点は難しい問いとなっています。私たちが神を信じていくためには、苦難が必要なのでしょうか。人生の苦難について、神への信仰とどう関係するのか、問い続けていきたいと思います。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、感謝します。ハンナの歌と祭司エリの息子たちの罪を見てきました。人生の中で味わう苦しみが、神への信頼につながっていくのでしょうか。神を心から信じ、従っていく道をどのように見い出すことができるのでしょうか。今日は、灰の水曜日です。教科暦はこれから受難節に入っていきます。イエス様の受難の歩みを、私たちも味わい、神への信仰を深めていくことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

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