4月2日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会       サムエル記上5章「神の箱の働き」      2025.4.2

 2025年度が始まりました。最初の祈祷会となります。新たな思いで、祈祷会を行っていきたいと願っています。このサムエル記の時代、イスラエルの人々にとって幕屋がいつも中心にありました。幕屋の中心に神の箱(契約の箱)がありました。イスラエルの人々がエジプトを出た時に、荒れ野の旅を経て、約束の地に向かおうとした時に、神はモーセに幕屋を造ることを命じました。幕屋は、神とイスラエルの人々が出会う場所でした。神の箱の中には、十戒の書かれた2枚の石の板、マナの入った壺、アロンの杖が入っていたといわれています。

 神の箱が活躍した場面がヨシュア記に書かれてあります。1つは、ヨルダン川を渡る時です。イスラエルの人々はヨルダン川を渡って、約束の地に入っていこうとしています。その時にヨルダン川は水があふれて渡ることができませんでした。その時に、神の箱を担いだ祭司たちが、ヨルダン川に入っていくと、川の流れが止まり、渇いた場所が現れて、そこを渡ることができました。神の箱によって、ヨルダン川の流れが止まって、川の底を渡ることができたのです。(ヨシュア記3章)次に、イスラエルの人々はヨルダン川を渡ってから、エリコの町を攻撃しようとしました。エリコの町は城壁に囲まれて、イスラエルの人々はエリコに入ることはできませんでした。その時に、神の箱を担いだ祭司が、エリコの町の城壁の周りを歩くのです。1週間続けて歩きました。そして、7日目にラッパの音と共に城壁は壊れて、イスラエルの人々はエリコの町に入り、占領することができたのです。この時も神の箱が活躍しました。(ヨシュア記6章)

 このような神の箱の活躍があり、イスラエルの人々は、神の箱があることは、神が共にいてくださると信じていました。前回のサムエル記上4章で、イスラエルとペリシテの戦いがありました。最初、イスラエルはペリシテの前で、4000の兵士が討ち死にしたのです。この時に、イスラエルの人々は神の箱がなかったから自分たちは敗北したと思い、次の戦いで、自分たちに神の箱があれば、必ず勝利すると信じて、神の箱を戦いの場所に移動して来ました。神の箱が自分たちの場所に到着すると、イスラエルの全軍が大歓声を上げました。ペリシテとの戦いで勝利を確信したからです。実際に戦いになりましたが、神の箱は何の役にも立ちませんでした。イスラエルは3万人の歩兵が倒れてしまったのです。大敗北をしてしまったのです。この時には、祭司エリとその息子たちの罪があり、神の裁きが預言されていました。預言の成就ということだったのです。エリの2人の息子の戦死と神の箱がペリシテに奪われてしまいました。その敗戦の報告を聞いたエリは、自分が座っていた席から仰向けに落ち、首を折って死んでしまいました。

 次が、今日の聖書の箇所です。ペリシテ人は神の箱を奪い、アシュドドへ運んで来ました。神の箱が自分たちに役立つと思ったのかも知れません。ペリシテ人は、神の箱を取って、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンの側に置きました。ダゴンとはペリシテ人の神で、上が人間の形、下が魚の形をしていて、豊作をもたらす神として崇めていたということです。翌朝、アシュドドの人々が早く起きて見ると、神の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていました。人々はダゴンを持ち上げて、元の場所に据えました。その翌朝も、人々が早く起きて見ると、ダゴンはまた神の箱の前の地面にうつ伏せで倒れていました。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居の所にあり、胴体だけが残されていたのです。

 そして、主の御手が、アシュドドの人々に重くのしかかって、災害をもたらしました。神は、アシュドドとその周辺の住民を打って、腫れ物を生じさせました。これを見て、アシュドドの人々は「イスラエルの神の箱を我々の内にとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災害をもたらす」といいました。彼らはペリシテの領主を、全員集めて「イスラエルの神の箱をどのようにしたらいいか」と尋ねました。領主たちは「イスラエルの神の箱をガドへ運ぼう」といい、そこに移されました。

 神の箱がガドへ移されて来ると、主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こしました。ガドの町の住民は小さい者から大きい者まで打たれ、腫れ物が彼らの間に広がっていきました。ガドの町の人々は、神の箱をエクロンに移しました。神の箱がエクロンに着くと、住民は大声で叫んで「イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか」といいました。エクロンの町の人々は領主たち全員を集めて、「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の場所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は、殺されはしないだろう」といいます。実際に、町全体が死の恐怖に包まれて、神の御手はそこに重くのしかかっていました。死を免れた人々も腫れ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達していました。

 神の箱の働きについて見てきました。神の箱はイスラエルの人々にとって、神が共にいる証しでした。ヨルダン川を渡る時も、エリコの町の城壁を攻撃する時も、神の箱はいて、それを実現してくださいました。イスラエルの手を離れてペリシテの人々の手にあっても、神が共にあれば、その働きを発揮するのです。サムエル記上4章で、イスラエル対ペリシテの戦いの時に、イスラエルの手に神の箱はありました。しかし、イスラエルは敗北したのです。それは、神の箱があっても神は共にいてくださらなかったからです。祭司エリとその息子たちに対する裁きがあったからでした。

 私たちはここから、神の御心がどこあるのかということを注意深く知る必要があります。今、私たちは受難節を歩んでいます。神の御心は、私たちを愛し、私たちの罪を赦し、救いために働いているということです。そのために、神の子イエス・キリストが、この世界に送られ、十字架の道を目指して歩んでくださったのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。新しい2025年度の歩みが始まりました。この祈祷会を祝福してください。祈りの友を増やしてくださいますように、祈祷会の輪を広げていくことができますように守り導いてください。あなたの御心を慕い求めることができますように、この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

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