祈祷会 サムエル記上14:24~37「サウルの歩みから学ぶ」 2025.7.2
イスラエルの最初の王となったのがサウルです。サウルの息子がヨナタンです。ヨナタンは神を信じ、勇気があり、行動力もすごいです。この時代、イスラエルはペリシテ人との戦いにありました。敵の戦力は戦車3万、騎兵6千、兵士は海辺の砂のように多かったのです。イスラエルは3千しかいませんでした。それでも、ヨナタンはたった2人だけで切り立った岩の上にあるペリシテ軍の守備隊を襲うのです。戦う前に、ヨナタンは「主が我々2人のために計ってくださるに違いない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」といって、行動していきます。ヨナタンはペリシテの守備隊の20人を倒します。また、地震が起り、ペリシテ軍は動揺し、右往左往していきます。ペリシテ軍の陣営の動揺はますます大きくなっていきます。それを見たサウルの軍隊は戦いに出て行きます。山に隠れていたイスラエルの兵士もペリシテ軍が逃げ始めたと聞いて戦いに加わっていきます。ペリシテ軍は敗走していくのです。
一方でサウルですが、イスラエルとペリシテの戦いで、自分たちが戦力的に圧倒的に不利の状態にあった時に、イスラエルの人々は洞窟や岩の裂け目、岩陰、穴蔵、井戸などに隠れます。ヨルダン川を渡って逃げていく人々もいました。サウルのもとにいる兵士は、サウルの後ろでおののいていました。兵士はサウルのもとから散り始めていたのです。サウルはサムエルが来るのを7日間待っていましたが、なかなか来ないので、神にさささげものをささげてしまいました。神の力が欲しかったのです。神へのささげものは本来、祭司であるサムエルでなければいけませんでした。サウルはサムエルを待てなかったのです。兵士は逃げて行く、敵は大軍で迫っているという状況でした。サウルは神を信じるというより、目の前に起ることに振り回されています。
イスラエルはヨナタンの働きでペリシテ軍に勝とうとしています。ペリシテ軍を追走していきます。その時に、サウルは大きな失敗をするのです。それは、サウルが兵士たちに「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」といっていました。これは、イスラエル軍がペリシテ軍を敗走する時に、戦利品(家畜など)にとびかかり、食べてしまうことを恐れたためでした。この日に、イスラエルの兵士は飢えていたのです。サウルの呪いの誓いがあったから恐れていました。この地方一帯では、森に入りさえすれば地面に蜜があったといいます。兵士が森に入ると蜜が滴っていましたが、それ手をつけ、口に運ぼうとする者は1人もいませんでした。けれど、ヨナタンは父の誓いを聞いていませんでした。手に持った杖の先端を伸ばしてハチの巣の蜜に浸し、それを手につけ口に入れました。するとヨナタンの目は輝いたのです。兵士の1人がヨナタンの行動を見て、サウル王の呪いの誓いのこと、そのために兵士が疲れていることを伝えました。
ヨナタンは父サウルを批判します。「私の父はこの地に煩いをもたらせた。見るがいい。この蜜をほんの少し味わっただけで私の目は輝いている。今日兵士が、敵から取った戦利品を自由に食べていたなら、ペリシテ軍の損害は更に大きかっただろうに」と。この日、イスラエル軍はペリシテ軍を追撃したので、兵士は非常に疲れていました。兵士は戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べたのです。サウルが誓ったことが逆に、それを破る結果となってしまいました。サウルの呪いの誓いがなければ、このようなことは起らなかったかもしれません。
サウルに「兵士は今、血を含んだまま食べて、主に罪を犯しています」と告げる者がありました。それで、サウルは兵士たちに「お前たちは裏切った。今日中に大きな石を、私のもとに転がして来なさい。各々自分の子牛でも小羊でも私のもとに引いて来て、ここで屠って食べよ。血を含んだまま食べて、主に罪を犯してはならない」と伝えます。兵士は皆、その夜、各々自分の子牛を引いて来て、そこで屠ることになりました。こうして、サウルは主の祭壇を大きな石を使って築きました。これはサウルが主のために築いた最初の祭壇です。
聖書に「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(創世記9:4)とあります。これに、イスラエル軍の兵士は破ったことになるというのです。でも、これはサウルの誓いが間違っていたのです。イスラエル軍がペリシテ軍との戦いで、飢えに苦しんでいたという状況をつくる原因になったことです。兵士は飢えで非常に疲れていました。そのために兵士は飢えに耐え切れずに、戦利品(ペリシテ軍の羊や牛など)に飛びかかって、捕えて地面で屠り、血を含んだまま食べてしまいました。サウル王はまず、兵士たちに心からの謝罪をすべきだったのです。それを主への祭壇をつくって、自分の牛を引いて来て、屠って食べさせるのです。血を含まない状態にしてです。サウルは神に兵士たちに心からの謝罪と悔い改めが必要でした。それができていないのです。
さて、サウルは「夜の間もペリシテ軍を追って下り、明け方まで彼らから奪い取ろう。1人も生き残らせるな」というと、兵士たちは「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください」と答えます。だが、祭司が「神の前に出ましょう」と勧めたので、サウルは神に託宣を求めて「ペリシテ軍を追って下るべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるでしょうか」と聞きます。しかし、この日に、神はサウルに答えられませんでした。サウルの心は神から離れていってしまっていました。そのことを神は知っていて、答えられなかったのです。イスラエルの人々から神に王を求めた時に、神はサウルを王と指名なさいました。その時にサウルは「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンのでも最小の一族の者です」(サムエル記上9:21)のいった言葉が空しく聞こえます。聖書はサウルを通して、人間の弱さを私たちに教えようとしているのです。
祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。サウルの歩みを見てきました。サウルの弱さを見ることができました。さて、サウルと私は違う人なのでしょうか。サウルと私と重なる部分はどこにあるのでしょうか。自分の弱さをしっかりと受け止める思いと神への信仰を与えてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)
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