祈祷会 サムエル記上16:1~13「主は心によって見る」 2025.7.30
サムエル記はイスラエルの新しい王の誕生を書いています。最初の王として選ばれたのがサウルでした。サウルは少数のベニヤミン族出身でした。しかし、背が誰よりも高く、美男子でした。外見上、王として選ばれるにふさわしい人物だったと思われます。サウルを王として選ばれたのが神ご自身でした。神の選びによって選ばれたサウル王、間違いのないような歩みをするかと思えば、そうではなく、神の命令を聞かず、自分の思いを優先していきます。そのことによって神はサウルを王として退けるといいました。神である主はサムエルに「いつまであなたはサウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出掛けなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見い出した」(16:1)といいます。
サウルの罪によって、サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆きました。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられました。神はサウルを王として退けようとしていきます。しかし、サウルがイスラエルの王であることを退けようというのではなくて、サウルは自分が死ぬ日まで、イスラエルの王であり続けるのです。神の意図はどこにあるのでしょうか。私は分かりません。今日の聖書の箇所は、新しい王としてダビデが選ばれ、サムエルから油を注がれることが書かれてあります。それは公のことではなくて、個人的な油注ぎのようです。ダビデが公式に、油を注がれてイスラエルの王となるのはサムエル記下からです。(サムエル記下5:3)
神はサムエルにベツレヘムのエッサイの家に行き、新しい王のために油を注ぐようにといわれます。しかし、サムエルは神に「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」といって断ろうとします。サムエルはサウルが怖いのです。神はサムエルに「若い雌牛を引いて行き、主へのいけにえをささげるために来たというように」とアドバイスをします。「いけにえをささげる時にエッサイを招きなさい。その後のことは、わたしがその時に知らせる」といいます。サムエルは神が命じられたとおりにしました。
サムエルがベツレヘムに着くと、町の長老たちは不安げに出迎えます。長老たちは「おいでくださったのは平和なことのためでしょうか」と尋ねます。サムエルは「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒にきてください」と答えます。サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に招きました。エッサイと息子たちがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油注がれる者だと思ったのでした。しかし、主はサムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」といわれるのです。
主はサムエルにいわれます。「容姿や背の高さに目を向けるな」と。それは、サウルが王として選ばれた時に、サウルの容姿に人々は心を奪われたのでしょうか。背が高く、美男子だったからです。主は「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」といわれます。主がいう人の心とはどのようなことでしょうか。それはこれからイスラエルの新しい王として選ばれるダビデとサウルの違いということになるでしょう。サウルは、外見上は王としてふさわしいものがありました。背が高く、美男子だったということです。サウルの心を見ると、神への思いより、自分への思いが強くあって、神に対しての信仰がなくなり、自分の思いを優先し、神に捨てられていくということになってしまいました。そのようにならないために、心を見るということなのでしょう。心を見るということは、神への思い、信仰心が見られているということになります。後のダビデの行動でそのことが分かってきます。
エッサイの子エリアブを主は選ばないということでした。次にエッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせました。サムエルは「この者をも主はお選びにならない」といいました。エッサイは次に、シャンマを通らせました。サムエルは「この者をも主はお選びにならない」といいました。エッサイは7人の息子にサムエルの前を通らせましたが、サムエルは「主はこれらの者をお選びにならない」と伝えました。サムエルはエッサイに「あなたの息子はこれだけですか」と聞きますと、エッサイは「末の子が残っていますが、今は、羊の番をしています」と答えると、サムエルは「人をやって、彼を連れて来てください。その子がここに来ないうちは、食卓に着きません」といいます。ダビデは、父エッサイの目にはその数に入っていないことが分かります。エッサイは人をやって、その子を連れて来ました。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であったのです。主は「立って彼に油を注ぎなさい、これがその人だ」といいます。サムエルは、油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で、ダビデに油を注ぎます。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになります。
主はサムエルを通してダビデに油を注いで、新しいイスラエルの王にします。でも、実際にはいまだにイスラエルの王はサウルのままです。ダビデはサウルのもとで、苦難を味わうことになっていきます。サウルの死後に、いくつかの困難を乗り越えて、ダビデはイスラエル全体の王となっていきます。主によって心を見られたダビデはどのような歩みをしていくのでしょうか。サウルとの違いはどこになるのでしょう。
祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。ダビデが主の目に適った者として選ばれていきます。「主は心によって見る」といわれました。その意味を私たちが理解できますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


コメント