10月22日の祈祷会の内容です。

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祈祷会       サムエル記上24章「神に委ねるダビデ」    2025.10.22

 イスラエルの最初の王サウルは、自分の地位を守るためにダビデの命を狙い続けます。ダビデはサウルに命を狙われて逃げ続けるのです。ある日、ダビデはアラバのマオンの荒れ野にいました。そのことを知ったサウルはその兵と共にダビデを狙って出て行きました。サウルは山の片側に行き、ダビデとその兵は反対側にいました。サウルとのその兵がダビデとその兵に迫って来ました。その時に、使者がサウルのもとに来て「急いでお帰り下さい。ペリシテ人が国に侵入しました」と伝えました。サウルはダビデを追うことをやめて、ペリシテ人の方に向かって行きました。間一髪、ダビデは助かったのです。神の導きでしょうか。ヒヤヒヤする事態でした。このようなことが何度もダビデは味わっていくのです。

 そして、今日の聖書の箇所になります。ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に留まりました。ペリシテ人を追い払って帰還したサウルに、ダビデの居場所を伝える者がいました。サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった3000の兵を率い、ダビデを追って行きます。そこには山羊の岩がありました。ダビデが逃げるにはふさわしい場所だったのです。途中、羊の囲い場があって、そこには洞窟がありました。サウルは用を足すために入りましたが、その奥にはダビデとその兵が座っていたのです。逃げているダビデのもとにサウルは1人でやって来たということです。サウルを殺すチャンスです。サウルを殺せば、もうサウルから追われることもなくなるからです。ダビデの兵は「主があなたに、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思い通りにするがよいと約束されたのは、この時です」とダビデに告げました。

 ダビデの家来のいう通りです。しかし、ダビデはそうはしませんでした。ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取りました。しかし、ダビデはサウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」というのです。ダビデはこういって兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかったのです。

 サウルは洞窟を出て先に進んで行きます。ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけて「わが主君よ。王よ」といいます。ダビデは顔を地に伏せ、礼をしてサウルに「ダビデがあなたに危害を加えようとしているとうわさになぜ耳を貸されるのですか。主が洞窟であなたのわたしの手に渡されました。その時、あなたを殺せという者もいましたが、あなたをかばって、わたしの主人に手をかけるようなことはしない。主が油を注がれた方だといい聞かせました。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すまではしませんでした。ご覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪をおかしませんでした。それにも関わらず、あなたはわたしの命を奪おうとして追い回されるのです。わたしは手を下しません。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹のノミではありませんか」といいます。

 その声を聞いたサウルは「わが子ダビデよ、これはお前の声か」といい、声をあげて泣き、「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意を持って対し、わたしはお前に悪を持って対した。お前はわたしに善意を尽くしてくれたことを今日示してくれた。主はわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今、わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。主によって、わたしに誓ってくれ。わたしの後にわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない」と。ダビデはサウルに誓います。サウルには自分の館に帰って行き、ダビデとのその兵は要害に上って行きました。ダビデはサウルの言葉を信じることはできないのです。だから要害に行きました。

 この個所で問題になるのは、ダビデがサウルを殺すチャンスがあったにも関わらずに、そうしなかったことです。その理由が、ダビデにとってサウルは、主が油を注がれた方だという理解です。ダビデにとってサウルが自分の命を狙っているので、それを解決するためには、ダビデ自身でサウルを殺すことによって、その危機を逃れることができることになるはずでした。しかし、ダビデは自分でチャンスがあったにも関わらずに、そうしなかったこと、つまり、このことを神に委ねたということです。ダビデが問題にしていることは、サウルとの人間的な関りではなくて、神との関りになるということです。サウルは主が油を注がれた方である、その時に問題は、サウルではなくて、サウルに油を注がれた方、神ご自身だということです。復讐は自分がすることではなくて、神にその復讐を委ねるという考え方です。そのことは新約聖書に次のような考えを示すことになっていきます。

ローマ12:17~21

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 敵に対する復讐を自分自身で行うのではなく、神ご自身に委ねていくことが書かれてあります。ダビデはすべてがそのような考え方かというと違うのです。サウルに対してはそうでしたが、次の25章では、敵となるナバルに対しては、直接復讐することにしています。ナバルの妻アブガイルの働きでそうはならなかったのですが、ダビデにすれば、サウルに対しては神ご自身がサウルに油を注がれたことが、そのように受け止めていったのでしょう。私たちは、この点をどのように考えたらいいのでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。ダビデはサウルに命を狙われているのに、サウルが主に油を注がれた方だと受け止めて、サウルを殺すチャンスがあったのに関わらず、そうしませんでした。ダビデは神の御心がどこにあるのかといつも考えて行動していくことが分かります。ダビデの行動から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。神の導きを求めていきたいと思います。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

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