祈祷会 サムエル記下10章「ダビデから罪を考える」 2026.4.8
ダビデはユダとイスラエルの王となりました。そして、中心の町エルサレムをつくり、王宮を建てて住み、神の箱を設置しました。周辺の民族との戦いが続きますが、勝利を続け、確固たる地位を確保していくのです。この時期に、ダビデは王として充実した時を過していたのです。
今日の聖書の箇所では、アンモン人の王ナハシュの死について書いてあります。サムエル記上11章で、サウルと激しく戦っています。ダビデがサウルから逃亡していた時に、何らかの恵みをいただいていたようです。聖書にはそのことが書いてありませんので、具体的には分かりませんが、文脈から読み取ることができます。ダビデがサムエル記下9章で、サウルの息子だったヨナタンとの友情関係があったことで、ヨナタンの息子メフィボシェトに対する恵みのことがあります。その流れから、ダビデは、アンモン人の王ナハシュが死に、その息子ハヌンが代って王となったのです。ダビデは「ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ」といって、使節を遣わして哀悼の意を表そうとしたのです。ダビデのアンモン人のナハシュとその子ハヌンに対する恵みからそのような行動に出たのです。
ところが、ダビデの家臣たちがアンモン人の領地に入ると、アンモン人の高官たちは主君ハヌンに「ダビデがお父上に敬意を表して弔問の施設を送って来たとお考えてになってはいけません。この町を探り伺い、倒そうとして、家臣を送り込んだに違いありません」といいます。そこでハヌンはダビデの家臣を捕え、ひげを半分そり落とし、衣服も半分、腰から下を切り落として追い返してしまいました。この人たちが甚だしい辱めを受けたという知らせがダビデに届きます。ダビデは人を遣わして迎えさせ、王の伝言として、家臣たちに「ひげが生えそろうまでエリコに留まり、それから帰るように」といわせたのです。
アンモン人は、ダビデの憎しみをかったと思って、アラム人に人を遣わして歩兵2万を傭兵として要請し、マアカの王には兵1000、トブには兵12000を要請しました。これを聞いたダビデはヨアブと全軍を送り出しました。アンモン人は城門の入り口まで戦いに備え、アラム兵及びトブとマアカの兵は野にあって戦いに備えます。ヨアブは戦線が前方と後方にあるのを見て、イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり、アラム軍に向かって戦列を整え、残りの兵を兄弟アブシャイの指揮に委ねて、アンモン人に向かって戦列を整えます。ヨアブは「アラム人がわたしより強ければ、こちらを助けてくれ。アンモン人がお前より強ければ、そちらを助けに行く。我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように」といいます。
ヨアブと兵士たちが戦おうと迫ると、アラム軍はヨアブの前から逃げ去ります。アラム軍が逃げるのを見るとアンモン人も、アビシャイの前から逃げ出し、町の中に入っていきます。ヨアブはアンモン人をそのままにして引き揚げ、エルサレムに帰っていきます。イスラエルの打ち負かされたとみると、アラムは団結します。ハダドエゼルは人を遣わして、ユーフラテスの向こうにいたアラム軍を出動させます。彼らはハダドエゼルの軍の司令官ショバクに率いられてヘラムに着きます。その行動を知ったダビデはイスラエルの全軍を集結させ、ヨルダン川を渡ってヘラムに向かいます。
アラム軍は戦列を整えてダビデを迎え撃ち、戦いましたが、イスラエルの前から逃げ去っていきます。ダビデはアラムの戦車兵700、騎兵4万を殺し、軍の司令官ショバクもその場で打ち殺します。ハダドエゼルに隷属していた王たちは皆、イスラエルに敗北したことを認めて和を請い、イスラエルに隷属します。アラム人は恐れて、二度とアンモン人を支援しませんでした。
この時、ダビデはその生涯の中で絶頂期にありました。イスラエルの王として絶対的な力を持つようになっていたのです。すべてがダビデのためにあるかのようでした。ダビデは自分の思う通りに物事が進んでいくように感じていたと思います。その時です。ダビデはその人生の中で大きな罪を犯していくことになります。それが次の章にあります。ウリヤの妻バト・シェバとの間にある事件が起ります。この事件が、その後のダビデの人生の大きな試練と苦しみにつながっていくことになります。士師記を思い出して欲しいのです。士師記の神学がありました。それは、イスラエルの人々が順調な歩みをして行く時には、神を必要とせず、自分勝手に偶像礼拝に走っていきました。その罪を神は怒り、敵を起ります。例えばペリシテ人などです。その敵に支配され、苦しめられた人々は神に助けを求めます。そこで神は士師を送り、士師によって敵を破り、イスラエルに平和をもたらすのです。人々は平和の中で喜び、楽しい生活を送っていきます。その楽しい平和な生活の中で、神を必要とせずに、神を忘れて、偶像礼拝に走っていくのです。その罪を見た神は怒り、敵を送って人々を苦しめます。人々は苦しみの中で、神に助けを求め、神は士師を送るという流れです。
私たちは人生の歩みの中で、本当に苦しみにある時に、神に助けを求めます。神に祈ります。しかし、人生の歩みが順調である時に、神を求めることが少なくなります。祈ることも形式だけになっています。そして、知らず知らずに、神に従っていると思っている中で、自分自身が神になってしまうのです。そのことに気づかないこともあります。人間の罪の本質とは、神を必要としないこと、自分自身が神になっていることです。私たちは今、どのような歩みをしているでしょうか。
祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時をありがとうございました。ダビデの歩みを見ています。この時に、ダビデは順調な歩みをしていました。ダビデは神に感謝して歩んでいたでしょう。その中で、大きな罪を犯してしまうことになります。人の罪について、ダビデの歩みから学ぶことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


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