9月2日の祈祷会の内容です。

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祈祷会     サムエル記下22:1~15「ダビデの感謝の歌」   2026.9.2

 サムエル記下22章は、ダビデの感謝の歌です。詩編18編と同じ内容となっています。この歌の背景は、ダビデを主がすべての敵の手から、特にサウルの手から救い出されたことを感謝して、主に感謝の歌をささげています。

・22:1~4、神への信頼と告白

 ダビデは主を「わたしの岩、砦、逃れ場、大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔」とよんでいます。ダビデ自身が絶望的な状況の中で、主こそが、自分を守る確かな存在であったと告白しています。「わたしを逃れさせ、勝利を与え、不法から救ってくださる方。ほむべき方で、主をわたしが呼び求めると敵から救われる」と歌っています。

・22:5~7、苦難と絶望の訴え

 ダビデは困難な状況を「死の波、奈落の激流、陰府の縄、死の網」とよんでいます。その絶望的な状況に直面した時に、主を呼び求め、わたしの神を呼び求めると、その声は神殿に響き、わたしの叫びは神の御耳に届くと歌っています。

・22:8~20、神の壮大な介入と救い

 ダビデの叫びに応えた神が、大地を揺るがし、雲、雷、稲妻などの壮大な自然の力を通して降臨される様子が描かれています。神は高い所から手を伸ばし、ダビデを深い水(大きな苦しみ)から引き揚げ、広い場所へと連れ出してくださいます。神がダビデを愛してくださったからこそ救い出されたのだといいます。 

(22:17~20)

主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。

・22:21~25、義に対する神の報い

 ダビデは自分が神の道を守り、悪に走らず、清潔な手(真実な生き方)を保っていたからこそ、神が正義に従って報いてくださったといっています。「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない」(21~22)とあるように、神がダビデを守ってくださったのは、ダビデ自身が神の道を正しく歩んでいたからだといいます。「主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目の前にわたしは清い」(25)といっている通りです。

 ダビデが王になる前には、大きな罪を犯したということはないようにみえます。ペリシテ人ゴリアトとの戦いの前に、神への信頼があって、大きな敵に立ち向かうことができています。また、最初は、サウル王に大切にされていましたが、ダビデ自身の活躍が大きくなっていくと、イスラエルの人々の関心はサウル王からダビデの方に関心が向いていきました。「サウルは千、ダビデは万を倒した」という人々の声に反応したのです。この時から、サウル王はダビデを敵として見るようになり、命を奪おうとします。ダビデはサウルの手から逃げ、サウルはダビデの命を狙うために、追い続ける構図となっていました。それでも、ダビデは神を恐れて、大きな罪は犯しませんでした。

 やがて、サウルがペリシテ人との戦いに負けて戦死した後に、ダビデは王になっていくのですが、やがて、大きな罪を犯してしまうのです。ダビデとバト・シェバ事件(サムエル記下11章)です。ダビデは、自分の家来であるウリヤの妻バト・シェバと関係を持ち、子を妊娠させてしまいました。何とか自分の罪を隠そうとして、ウリヤを戦場から戻り、バト・シェバの待つ家に帰そうとしましたが、ウリヤ自身帰ろうとはしませんでした。ダビデはウリヤを再び、戦場に戻します。その時に、戦場にいる将軍ヨアブ宛の手紙をウリヤに持たせました。その手紙の内容は、ウリヤを戦場の最前線に出して、1人残して退却させよという内容でした。つまり、ウリヤを殺してしまう計画だったのです。そのダビデの計画は成功して、ウリヤは戦死してしまいました。ウリヤの死から喪があけて、ダビデはバト・シェバを自分の妻としたのです。

 サムエル記下12章には、ダビデと預言者ナタンとのやり取りが書かれてあります。それは、ダビデの罪をはっきりと指摘するものでした。ダビデの罪を誰も見てないとしても、神ご自身がはっきりと見ておられたというものでした。罪の指摘にダビデは素直に「わたしは罪を犯しました」と告白しています。それでも、神はダビデの罪から、次々に厳しい試練を与えられます。特に、アブサロムの反乱は大きな出来事でした。

 私たちがダビデから学ぶことは、ダビデ自身の罪との向き合い方、次々に起る試練の中にあって、真剣に神と向き合っている姿です。人生の中で次々に起って来る数々の試練と苦しみ、ダビデ自身の罪もありますが、それ以外の試練も起って来ます。ダビデは人生の苦しみの中で、神にすべてをかけているのです。神に真剣に向き合い、そこで神に助けを、救いを求めて生きていくのです。ダビデの正しさというのは、ダビデ自身の行為の正しさではなくて、どのような時にも、神と真っすぐに向き合う姿が、ダビデの正しさといえると私は考えます。私たちもダビデのようでありたいと願います。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。ダビデの感謝の歌を見てきました。ダビデの人生の中で、多くの苦難や悲しみがありました。どのような時でも、ダビデは神と向き合うことができました。それはとても難しいことだと思います。自分の罪や弱さを向き合った時に、顔をあげて、神に顔を向けて、自分の素直な思いを祈ることができるようになりたいと願います。これらの願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

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