10月6日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会       レビ記21章「祭司のあり方」     2021.10.6

 神は、イスラエルの人々と契約を結ばれました。神は、イスラエルの人々の神となり、イスラエルの人々は神の民となることでした。神はイスラエルの人々と交わる場として幕屋をつくり、そこに仕える祭司をおかれたのでした。レビ記は、神とイスラエルの人々が結ばれた契約の内容が書かれてあります。神は、イスラエルの人々に聖なる者となれと語ります。それは、神御自身が聖なる者だからです。レビ記21章には、祭司のあり方が書かれてあります。

・レビ記21:1~9、祭司は聖でなければならない。

 祭司は、親族の遺体に触れてはならない、触れて身を汚してはならないと書いています。遺体は汚れたものとされたからです。しかし、血縁関係の深いものは触れることをゆるされていました。父母、息子、娘、兄弟などです。また、頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としてはならないとあります。また、身を傷つけたりしてはならないとあります。また、遊女や離縁された女性と結婚してはいけない。祭司の娘が遊女になった場合は、焼き殺すとなっています。祭司は聖なるものでなければならないのです。

・レビ記21:10~15、大祭司への注意。

 大祭司は、特別に神に祝福された者です。だから、自分の父母の遺体であっても近づいてはならないのです。そして、同じ部族の中で処女をめとることが求められていました。

・レビ記21:16~24、祭司の肉体的条件。

 レビ族の中で、障害のある者は、祭司になることができませんでした。神に食物をささげる務めをすることができないのです。その障害の内容が書かれてあります。目や足の不自由な者、鼻に欠陥がある者、手足の不釣り合いの者、手足の折れた者、背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者などです。障害のある者は、主に燃やしてささげるささげものの務めをしてはならないのです。しかし、神への食物としてささげられたものは、神聖な物も聖なるささげものも食べることが許されていました。繰り返しになりますが、聖所に近づくことはできませんでした。垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいてはならないのです。

・レビ記21章とイエス様の考えの違い。

 善いサマリア人のたとえ(ルカ10:25~37)では、追いはぎに襲われた人を、祭司やレビ人が見ぬふりをして助け出そうとはしませんでした。このレビ記21章にあるように、祭司は倒れた人、つまり死んだ人に触れてはならないことから、無視して行ってしまったのでしょうか。イエス様は、このたとえを通して、祭司やレビ人の行為を批判していると考えます。敵対関係にあったサマリア人が倒れた人を助けたのでした。

 ヨハネ9章には、生まれつき目の見えない人が登場してきます。弟子達は、イエス様に「先生、この人が、生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。両親ですか」と聞いています。障害があるということは罪の結果だという考え方がありました。レビ記21章も、祭司になる条件として、健康体であることが求められていました。障害のある人は、祭司になることができなかったのです。イエス様は、弟子達の問いに「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えています。障害があるということは、罪による結果という否定的な考えを、障害があることは、神の業が現れるためだとして、肯定的に捉えています。レビ記を読みながら、旧約聖書の限界を感じることもあります。聖書は、歴史的な影響も受けて書かれてあります。それを今日、イエス様の福音を重ねて、どのように考えていくのか大きな課題です。

祈り 神さま、祈り時を与えてくださり、ありがとうございます。レビ記を通して、当時のイスラエルの人々にとって何が大切なことなのかを学んでいます。当時の考え方と今日の考え方は変化しています。本当に大切なことは何をしっかりと理解できる知恵を、私たちに与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆さまの祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

コメント