3月27日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、305(1)573(4)です。教会堂の竣工式は4月24日(日)15:00~です。

礼拝説教    マルコ15:53~65「裁きを受ける」(小椋実央牧師)  2022.3.27

受難節、第四主日を迎えました。受難節はイースター直前の40日の期間。日曜日を除いて数えて、その40日間を受難節、レントと呼んでいます。教会歴の成り立ちではっきりしていることは、主イエスがご復活された後すぐに、キリストの復活を祝い始めた、ということです。毎週日曜日、パンと杯とにあずかってキリストのご復活を記念する礼拝を守った。言ってみれば、毎週がイースターのお祝いでした。やがてこのイースターが年に一度、キリストが十字架にかかられたその日、その時を記念するものになった。もちろん毎日曜日の礼拝でキリストのご復活を思い起こすのですけれども、年に一度の時は特にそのことを記念するようになった。そして、やがて1年に1度のイースターを記念すると共に、それに付属するような形で受難節が整えられていきました。キリストがそのお体を割き、尊い血潮を流してくださるがゆえに、私たちに救いが与えられた。キリストの痛み、苦しみなくしてわたしたちの罪の救いはなかったのだ、ということを繰り返し刻み付けるように、教会はこの受難節、レントの期間を大切にして参りました。

特に重んじてきたのは、このレントの期間中、自らの罪を悔い改める期間として、慎み深く過ごしてきたのです。受難節のこの時に改めて確認したいのは、当たり前すぎて確認することもおろそかになってしまいがちなのですが、イースターあってこそのレントであるということです。レントを過ごしているとおまけのようにイースターが後からくっついてくるのではない。すでにキリストが復活された、という輝かしい事実がある。キリストが死の中から、墓の中からおよみがえりになった。誰も変えることのできない真実です。そして、他にたとえようのない、神からいただいた私たちの喜びの源です。この変わらざる恵みがすでにある。誰にも書き換えることのできない歴史がすでに起こっている。すでに起きた出来事にむかって、受難節は進んでいくのです。受難節はどこにむかっているのか、そのことが見えなくなると、受難節そのものの意味がなくなります。何故受難節に悔い改めの祈りをささげるのか、教会によっては受難節に断食をしたり、お祝いごとを避けたりするのはどうしてなのか。目的地にイースターが見えていないと、ただ、なんとなく暗い雰囲気で過ごすだけで終わってしまいます。キリストのご復活という、一回限りの、神が特別に私たちにお与えくださった特別の時にむかって、期待に胸をふくらませながら私たちは受難節の日々を歩んでいきたいのです。

聖書は木曜日の夜、暗闇の中で起きた出来事を記しています。主イエスが捕えられ、そして十字架へと至る道のり、その途中に開かれた裁判の出来事です。祭司長を議長とする71人で構成される最高法院。日頃は律法についての裁判が開かれる司法機関です。当然のことながら、夜中に裁判が開かれるということはありません。ましてや過越祭、祭の最中に開かれることもありません。すべては主イエスを無き者にしたい、闇に消し去ってしまいたいという人々の悪意、妬みから生まれたものであります。そのことは、55節の「不利な証言を求めた」という説明からも分かります。そもそもイスラエルの人々を代表する司法機関が、不利な証言を集めてよいはずがない。ゆるされるはずのないことです。しかし人々の思いも空しく、不利な偽証を集めることはかないませんでした。56節にも59節にも、証言が食い違ったと記されています。イエスさまの罪をでっちあげようとしていたのに、人々の力では実現することが叶わなかったのです。そこで大祭司はとうとうしびれを切らして、個人的に尋問を始めます。最高法院とは名ばかりの、単なるつるし上げの集団に変わり果てて行きます。

本日の聖書箇所をご一緒に聴きまして、あまり心が弾むような箇所ではないことは言うまでもないことですが、その重要性についても、あまりぴんとはこない箇所かもしれません。なんとなく読み飛ばしてしまう。何が起こっているのかはだいたいわかるけれども、それほど重要ではないように思えてしまう。しかしよくよく考えてみると、よく聞いたことのあるキーワードが並んでいるのが本日の箇所です。「神の子」「メシア」そして「人の子」です。61節の祭司の言葉、ほむべき方、というのは賛美される方、つまり神のことをあらわしいます。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」というのは、「あなたは神の子、メシアなのか」と問うているのです。メシアとはキリストをヘブライ語読みした時の言葉です。ギリシャ語ではキリスト、ヘブライ語ではメシアです。メシアはキリストと読み替えることができます。そしてイエスさまご自身は、ご自分のことを62節で「人の子」とも言っておられる。「神の子」も「キリスト」も「人の子」も私たちが信仰をあらわす時に用いる言葉。信仰告白の中に出てくる言葉です。

キリスト教史の中でもっとも古く、もっとも短い信仰告白の言葉は、イエス・キリストだと言われています。イエス・キリスト。私たちがふだんお祈りの中でも何げなく使っている言葉ですけれども、これ自体が信仰告白の言葉になっている。イエスはキリストである。ナザレで生まれたイエスが私たちの救い主である。イエス・キリスト。この短い言葉の中に、私たちの信仰が言いあらわされています。しかし、キリスト教が整ってくるにつれてキリストは人なのか、神なのか、この議論で教会が真っ二つに割れてしまうほどの論争になりました。その論争での着地点が、キリストは神の子であり、人の子でもある、ということです。キリストは神の子の性質を持ち、人の子の性質も持っている。そのことを丁寧に説明しているのが、主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、という使徒信条の一文です。イエスさまは神の子であるから、男性と女性の性交渉によらずに、聖霊によって母マリアの胎内に宿りました。しかし同時に、ヨセフとマリアの子として、人の子としてダビデの系図から生まれました。イエスさまが聖霊によってマリアの胎内に宿ったこととヨセフとマリアの長男として生まれたことと、どちらかが嘘というのではなくて、どちらも兼ね備えている。キリストは神の子の性質を持ち、人の子の性質も持っているお方である。

そのことを私たちは、主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれという言葉で告白をするのです。キリスト、人の子、神の子。教会の信仰を言い表す重要な言葉がここに出て参ります。これまでイエスさまは、かたくなにご自分がメシアであることを隠しておられました。ペトロが「あなたはメシアです」と告白しても、そのことを誰にも言わないようにと厳しく命じておられた。病人のいやしなど、様々な出来事も、言い広めることのないようにと言い含めることを忘れませんでした。しかし、ここで初めてイエスさまはご自分の本当の姿を認めるのです。私はキリストであり、神の子であり、人の子でもあると。皮肉なことに、イエスさまが真実を語ったことによって、イエスさまは死刑を宣告されます。最高法院で嘘の証言を集めて死刑にしようとしたのに、それは叶うことはなく、ご自分が本当の姿を証言することによって、イエスさまの十字架は実現するのです。

イエスさまはご自身が神の子であり、キリストであることを認める時に、このように語っておられます。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」神の右に座る。イエスさまは終わりの時に神と共にあなたがを裁く、と言っているのです。今はあなたがたが私を裁いているけれども、やがてあなた方が裁かれる時が来るであろう、と言っておられる。少し解説になってしまいますが、聖書で裁くという言葉が出てくる場合はたいてい終わりの日の一回限りの審きのことをあらわしていて、その審きは審判の審の字であらわすことが通常です。裁判所の裁という字を使うほうの裁きというのは、いわゆる地上での裁判、「これは正しいか否か」「有罪か無罪か」という裁きの時に裁判所の裁という字をつかいます。本日の箇所であるイエスさまが裁かれている場面は、いわゆる今日でいう裁判に近いものなので、裁判所の裁という字を使うほうの裁きにあたります。必ずしも文字の使い分けが一貫しているわけではありません。終わりの日の審きのことを言っているであろう場面でも、裁判所の裁という字を使うこともあります。なので、今日は裁判所の裁という字で統一しておきたいと思います。ただ知識として、いわゆる正しいかどうかを判断するこの地上での裁きと、神さまが終わりの時になさる審きと二種類ある、ということを心にとめておいていただければと思います。話は戻りますが、イエスさまが終わりの時の裁きのことを語っておられる。その時には神さまだけではなくて自分自身もいっしょにあなたがたのことを裁く。そのような日が来るのだ、と予告しています。これを聞いて大祭司を始め、最高法院のメンバーは憤慨します。神を冒涜する言葉だ。これは死刑にすべきだ。ようやくイエスさまを陥れようとした人々の目論見どおり、イエスさまを死刑にすることが決まって裁判は終わりを迎えます。

私たちはあなたの裁きを受けたくはない。これが最高法院の結論です。あなたはキリストでもなく、人の子でもなく、神の子でもないのだから、私はあなたの裁きを受けいれるつもりはありません。これが最高法院の言葉です。それならば、こうも言い換えることができます。主イエスを信じるとは、主イエスを受けいれるとは、こう言い換えることができる。主イエスの裁きを受け入れること。このお方の裁きを全面的に受け入れることが信仰の言葉になります。信仰を言い表すことになります。あなたはキリストであり、人の子であり、神の子である。だから私たちはあなたの裁きを受け入れます。私があなたを裁くのではなく、あなたが私を裁いてくださることを受け入れます。これが私たちの信仰の言葉となります。から意地を張って、言うのではありません。主イエスの裁きを受ける時、同時に主イエスの執り成しがあることを知っているから、裁きに耐えることできるのです。主イエスが苦しみに耐え、十字架で苦しんでくださったことを知っているから、信じているからこそ、主イエスの裁きを受け入れることができる。主イエスが私たちの罪のために苦しんでくださったことを知っているから、どうぞ私たちを裁いてくださいと言うことができるのです。

最高法院は、イエスさまに死刑を宣告しました。メシアであり、人の子であり、神の子であるお方を裁きました。本来私たちを裁いてくださるはずの主イエスを、立場を入れ替えて裁きました。この裁判を受けるべきは私たちです。メシアであり、人の子であり、神の子であるお方を前にして、私たちが問われている。誰かを裁きたいという欲を捨てて、裁かれる場所に立つ。神をも裁きたいという罪を持ちながら、裁かれる場所に立つ。どうぞ私たちを裁いてください。神の裁きを受け入れることが、私たちの信仰の言葉になります。信じるとは、このお方の裁きを受け入れることです。すべての裁きを放棄して、このお方の裁きに身をゆだねる。私ではなく、あなたが裁いてください。これが私たちの信仰の言葉、教会の信仰告白の言葉となるのです。

受難節を迎えています。イースターにむかって、改めてイエスさまが十字架におかかりになり、復活された意味を繰り返し問い、新しく受け取り直したいと思います。そして神が神であることを改めて知り、新たな思いを持って、2022年のイースターを喜びのうちに迎えたいし、またそのような受難節を過ごしたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま、時をゆるされて、兄弟姉妹共に礼拝にあずかる恵みを心から感謝いたします。イエスさまが裁きを受けておられます。私たちが受けるべきすべての重荷を、イエスさまは担ってくださいます。この事実を知ることができたことを感謝すると共に、あなたの裁きの言葉に耳を傾けることができますように。あなたを受け入れ、人ではなくあなたに裁かれることが恵みであることを知ることができますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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