4月10日の礼拝の内容です。

close up photography of green moss on rock 礼拝
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讃美歌は、315(1)444(1)です。教会総会が4月24日になります。

礼拝説教       マタイ23:29~36「神の愛を知る」    2022.4.10

 4月の第2日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の導きによって、よりよい1週間の歩みをしていきたいと思います。教会暦はシュロの主日です。イエス様が十字架につけられる1週間の歩みをしていきます。そして、今度の日曜日は、イエス様が復活されたイースターを祝うのです。

 神を信じること、イエス・キリストを信じて歩むということはどのようなことでしょうか。それは、自分が頑張って、イエス・キリストのように、素晴らしい人生を歩むことではありません。逆に、自分の弱さを知ること、自分の弱さを受けとめることです。考えてみれば、このような自分自身の弱さを受けとめることは非常に難しいことだと思います。でも、神が、私たちに求めていることは、そのようなことです。

 今日の聖書の箇所では、イエス様が、律法学者やファリサイ派の人々に向かって、非常に厳しい言葉を語っています。これ以上、厳しい言葉はないくらいのものです。まず、イエス様は律法学者やファリサイ派の人々に向かって、繰り返し、あなたたち偽善者は不幸だといいます。その理由として、預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだといいます。これは、律法学者やファリサイ派の人々が、神から遣わされた預言者の墓を覚えて、しっかりとした立派な墓を建てている。また、正しい人の記念碑をつくり、飾ったりしている。そして「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはついていなかったといっている。実際は、預言者を殺した者の子孫であることを、自分自身で証明している」と批判しています。

 更に厳しい言葉は続きます。「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ。どうしてあなたがたは地獄の罰を免れることができしょうか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキラの子ゼカルヤの血に至るまで、地上で流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」と。

 ここで、イエス様がいっているアベルの血というのは、旧約聖書で最初に殺された人のことです。

創世記4:8~10

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる

 神によって初めて造られた人であるアダムとエバから生まれたのが、兄カインと弟アベルの兄弟でした。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者になりました。時を経て、それぞれが神へのささげものをする時がやってきました。その時に、神はアベルのささげものを受け取り、カインの物は受け取らなかったのです。その結果として、兄カインは弟アベルを野に連れて行って、襲って殺してしまいました。カインがアベルを殺した後で、神がカインにあなたの弟アベルはどこにいるかと聞いた時に、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えています。神はすべてを知っていて、カインに告げます。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」と。聖書が描く最初の罪が、兄弟殺しなのです。兄が弟を殺してしまうという悲しい事件です。

 次が「聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血」ですが、これは、あまり知られていないことですが、歴代誌下24:20~22に、短く書かれているものです。

歴代誌下24:20~22

神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」

 これはユダの王ヨアシュの時代に起ったものです。人々が、神を捨て、神の神殿を捨て、偶像に仕えていかたからです。ゼカルヤがイスラエルの人々の罪を責めたところ、ヨアシュ王は人々と共謀し、神の神殿の庭で、ゼカルヤを石で打ち殺したのです。ゼカルヤは死に際して「神がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように」といったのです。やがて、アラムの軍隊が来て、ユダの人々に向かって攻めて来ました。ヨアシュ王は殺され、多くの人々も殺されました。神の裁きがくだされたのです。なぜ、ゼカルヤの名前が最後にあげられているかといえば、ヘブライ語の聖書では、最初は創世記ですが、最後は歴代誌となっているからです。ヘブライ語の聖書によれば、最初に殺されたのがアベルで、最後に殺されたのが、ゼカルヤということになります。イスラエルの人々の歴史は、最初から最後まで、神の人を排斥し、殺害した歴史です。

 イエス様はまもなく、ご自身も十字架で死に、その後、イエス様の弟子たちが迫害され、虐待され、排斥され、殺されることを知っていたのです。神が選び、神に愛された人々が、神に逆らい、それに対する報復が来るというのは何と悲しいことでしょうか。

 神への信仰、イエス・キリストへの信仰とは何でしょうか。これは最初に問うたことですが、私たちは神の前に正しく生きたいと思います。神に従って生きたいと願います。これはとても大切な姿勢だと思います。しかし、本当に大切なことは、私たちは自分だけの力だけでは、神の前に正しく生きることができないということを知ることを、受け入れることです。自分自身の現実、罪としっかりと向き合うことが求められています。これは、本当に難しく辛いことです。でも、それが神への正しい信仰のあり方なのです。

ローマ3:19~24

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 イスラエルの人々の罪が、律法学者やファリサイ派の人々の罪が、そして、私たちの罪が、神の子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのです。その罪が、神の大きな恵みによって、救いにつながっていくのです。今日は、シュロの主日です。まもなく、イエス・キリストは十字架の道を行かれます。その先に、十字架の死と復活が起るのです。来週は、イースターの礼拝を守ります。イエス・キリストが復活してくださったのです。私たちも、このイエス・キリストの死と復活を信じることによって、罪の赦しと体の復活が与えられ、永泉の命の希望を持つことができるのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを、心から感謝します。教会暦は受難週を歩みます。イエス様の十字架の歩みを覚えながら、この週を過すことができますように、導いてください。イースターを心から待ち望み、祝うことができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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