3月28日の礼拝の内容です。

礼拝

礼拝説教    ルカ23:33~38「赦されたわたし」(小椋実央牧師)   2021.3.28

民衆は立ち止まって、イエスさまを見上げていました。律法学者や祭司長たちはイエスさまを嘲笑いました。兵士たちはイエスさまを軽蔑しました。ゴルゴタの丘にいる人の中で、誰一人としてイエスさまのことを気にかける人はいませんでした。しかし、その誰にも気にとめられていないお方がすべての人のことを心にとめておられました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この地上のすべてを包み込むような、祈りの言葉です。

受難節第6主日をむかえました。いよいよ来週はイースターを迎えます。十字架におかかりになる最後の一週間。ちょうど日曜日にイエスさまがろばに乗ってエルサレムに入られたことから、その時棕櫚の葉っぱでイエスさまをお迎えしたことを記念した棕櫚の主日、と呼ぶこともあります。この日曜日から、主イエスは一歩ずつ十字架へと足を進めていかれます。月曜日には神殿で商売や両替をしている人たちを追い出す、以前の聖書には宮きよめと記されていたので、「宮きよめ」という言葉のほうが馴染みがあるかもしれません。火曜日には律法学者たちとの論争、水曜日にはイエスさまが香油を注がれる、という出来事。香油を注いだ女性のことを、「この人は葬りの備えをしてくれた。」とイエスさまが喜ばれた、という出来事が聖書に記されています。木曜日はイエスさまが弟子たちの足を洗ったという「洗足の木曜日」。この時イエスさまが語ってくださった「互いに愛しあいなさい。」という聖書の言葉はとても有名です。そしてここからは絵画のテーマとなるような有名箇所が続くのですが、最後の晩餐、ゲツセマネの祈り、ペトロの3度の否定、ピラトの裁判、そして十字架刑へ。ほんの数日間のことですが、あれよあれよと言う間にイエスさまは十字架にかけられてしまう。今日、この日曜日がイエスさまがエルサレムに来られた日だとすると、今週の金曜日、2日の朝9時には十字架にかけられてしまう。ついさっきまで、イエスさま万歳などといって喜んでいたのに、誰もがイエスさまを見捨てて逃げ去ってしまう。今日お読みしたのは、まさにそのような場面です。弟子たちも、イエスさまに付き従ってきた人たちもみんなどこかに行ってしまって、イエスさまがたった1人で苦しみを受けておられる。抗うことは何もせず、命の灯が消え去っていくのをただじっと待つだけです。

一方でこちら側の、十字架刑を見守る側の人々はお祭り騒ぎのような有様でした。民衆や通りすがりの人たちは、ただの興味本位で首を長くしてのぞき込んでいました。イエスさまに死刑の決定を下した最高法院のメンバーは、自分たちの正しさが人々に受け入れられたことに、酔いしれていました。ローマ兵たちはこれ幸いにと、死刑に処せられたイエスさまをいたぶって日頃の鬱憤をはらしていました。やりたい放題で暴力をふるい、ありとあらゆる言葉でののしりました。全く収拾のつかないゴルゴタの丘で、祈りの言葉が聞こえてきます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」自分を殺そうとしている人たち、自分のことを嘲って、見下している人たちのことを、主イエスは赦してやってほしい、と父なる神にお願いをするのです。手足に釘を打ち付けられ、体は鞭で打たれ、息も絶え絶えになっているというのに、自分が助かることではなくて、人々のことを思って祈るのです。しかも「自分を傷つけた人たちを滅ぼしてください。」と祈るのではなくて、「彼らをお赦しください。」と祈るのです。

少し話が横道にそれますが、このイエスさまの祈りの言葉は大きな【 】で囲まれています。この【 】は、新約聖書で時々見かけます。有名なものですと、ヨハネ福音書に出てくる姦淫の女の話です。石打の刑となってしまった女性を取り囲む人々に対して、「あなたがたのうちで罪を犯したことのないものから石を投げなさい」というと、誰も投げることができずに、1人、また1人と立ち去ってしまった。とうとうイエスさまと女性だけになってしまった。そういう話です。この話は最初から最後まで、全てこの【 】の中におさめられている話です。私たちが使っているこの聖書は、安定した印刷ができるようになるまでは、すべて手書きで写していました。写本、という言葉をお聞きになったことがあると思います。一字一句、本当に気が遠くなるような作業ですけど、コツコツと写していく。ですから写本家とよばれる、その道のプロみたいな人たちがいるわけです。美しい挿絵が描かれた芸術品のような写本から、写し間違いがあったり、1行抜けてしまったり、感想が書き込まれていたり、色々な写本があります。その中でも数ある写本の中で非常にランクの高い、つまり写し間違いが少なくて非常に信ぴょう性の高い写本は有力な写本と呼ばれています。私たちが持っている新共同訳聖書はギリシャ語の聖書から翻訳をしていますが、そのギリシャ語の聖書本体を底本といいます。底本を定める時に、1つの写本を丸写し、ということはなくて、たくさんの写本を参考にして編集をするわけです。

今日お読みしたイエスさまの祈りの言葉、そして先ほどご紹介したヨハネ福音書の物語の一部などは、実は有力な写本には記されていない言葉でした。つまり、もしかすると、イエスさまが祈られた言葉は違うかもしれない。けれども、有力な写本にはのってはいないけれども、あまり有力ではない写本には記されている。前後の文脈や、これまでのイエスさまの宣教活動から考えてみて、ここにこの祈りの言葉があってもおかしくないのではないか。そのように判断されたものが【 】付で聖書に掲載されています。何故研究者たちがそのように判断をしたのか。有力と呼ばれる写本には記されていないのに、これがイエスさまの言葉だと強く言い切ることができたのか。それはこの祈りが後の殉教者たちの祈りとして受け継がれていったからです。使徒言行録に出てくるステファノの殉教、という物語があります。イエスさまを除いて、キリスト教の最初の殉教者と言ってよいかもしれません。まだパウロが登場する前のことです。

ペトロやヨハネたちがエルサレムで伝道を始めた頃に、ステファノという1人の若者が福音を語ったばかりに「神を冒涜した」として石打の刑で殺されてしまいます。その時にステファノが祈ることばがこれです。「主よこの罪を彼らに負わせないでください。」使徒言行録の7章に記されている言葉です。ステファノだけにとどまらずに、多くの殉教者が同じ祈りを祈りながら天に召されていきました。自分を殺そうとしている人たちの赦しを神に願い求めながら死んでいったのです。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈れ」とイエスさまの教えにもありました。しかし何よりもイエスさま自身がお手本を示されたのではないかと思うのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」もし、イエスさまの祈りの言葉が、これとは一字一句が違っていたとしても、その精神は間違いなく殉教者たちに引き継がれています。であるのだとしたら、たとえ有力な写本にこの言葉が記されていないのだとしても、いくつかの写本があるのなら、やはりこの言葉を載せずにはいられないだろうと思うのです。

イエスさまがこの祈りを祈っている時、イエスさまの一番近くにいたのはローマ兵たちでした。ローマ兵は身内などが近寄らないように、十字架刑のすぐそばで警護をしていたようです。そして少し離れたところで一般の見物人、その中には最高法院の議員たちがまざっていました。実際にイエスさまの手に釘を打ち、十字架刑を執行しているのはローマ兵ですが、イエスさまを殺すことを目論んだのは最高法院のメンバーであるユダヤ教の指導者たちです。ですから「彼らをお赦しください」の「彼ら」は、直接手をくだしているローマ兵のことではなく、最高法院のメンバーのことと思われます。彼らはイエスさまを死刑にしたという自分たちの行為を理解していない。分からずにおかしている罪なのだから、赦してほしいと神さまに願うのです。

2000年前の出来事を垣間見ながら、しかし同時に自分自身は自分のことをよくわかっているのだろうか、という疑問がわきおこります。このゴルゴタの丘で起きていることは、いわゆる最高法院の人たちが仕組んだことで、自分だけは事の顛末をよくわかっているのだ、誰が悪くて、誰が悪くないんだという話かと言えば、そうとは言えないように思います。何故なら依然として私たちは自分のことをよくわかっていない。私たちは罪を犯しているのか、犯していないのかということにも気が付いていないし、赦しが必要なこともわかっていない。それなのにイエスさまは私たちのために祈っておられる。私たちがイエスさまのことを気にしていなくても、イエスさまが分かっていないわたしたちのために、祈っておられる。今この場所で、誰も血を流してはいないし、誰も殺されかけてはいないけれども、しかしイエスさまは確実に私たちのために祈り続けてくださっている。「この人は自分が何をしているのか知らないのです。」とイエスさまが赦しを執り成し続けてくださっている。私たちはイエスさまの祈りの中に生かされています。イエスさまはご自身の命のすべてを注ぎだして、私たちを救いへと導いてくださいました。この限りなく大きな愛をしっかりと受け止めて受難週を過ごし、ご一緒に復活節の礼拝にあずかりたいと思います。

祈り 御在天の父なる神さま。受難週を迎える幸いを心から感謝いたします。1週間の主イエスのご受難と共に、私たちは1年間の改築工事の忍耐の時が始まろうとしています。

死に打ち勝たれた主イエスのように、瀬戸永泉教会も1年後に装いを新たに、新しい伝道の1ページを刻むことができますように、この工事期間を準備の時として過ごすことができますように。今年度最後の礼拝となりました。職場や家庭環境、変化の時を迎えている兄弟姉妹の上に、あなたの御導きがありますように。この後に持たれます臨時総会の上に、あなたのご栄光が示されますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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