4月17日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、325(1)461(1)です。イースターの礼拝です。イエス様の復活を記念する日です。

礼拝説教      ローマ6:1~11「新しい命に生きる」   2022.4.17

 イースターおめでとうございます。今日は、イエス様の復活を祝うイースターです。イエス・キリストが十字架にかかり、死なれ、そして3日目の日曜日の朝に、墓の中から復活してくださいました。世界中のキリスト教の教会がイースターを祝っています。

 私たちは生きています。私たちが生きるということはどのようなことでしょうか。喜び、感謝、希望などいろいろなプラスの出来事があります。その一方で、悲しみ、苦しみ、争い、憎しみなどのマイナスの出来事があります。少し前の水曜日に、私たちの教会の工事をしてくださっていた中島工務店の現場監督であった吉川さんを急に亡くしました。私は去年の4月から毎日のように顔を合わせていたので、いるのが当たり前になっていました。それが、急にいなくなる。吉川さんの姿を見ることができない、頭では分っているものの、実際に会うことができない、どうしょうもない悲しみがあります。私たちの人生には、いろいろな悲しみがあります。予想もしていないことが突然に起ってしまう、それが私たちの人生なのでしょう。

 私たちの人生の中ではいろいろな悲しみが起るといいました。その悲しみの中で最も大きなものは、大切な人の死だと思います。吉川さんの死について話しましたが、皆さまもそのような経験をされたことがあると思います。突然にいなくなってしまう。今まで会うことができていたのに、もう二度と会うことができない、深い悲しみです。そして、身近な人の死だけではなく、自分自身の死といつかは向き合うことになります。今、生きている私たちは、すべての者は必ず死ななければならないのです。そのような意味では、平等ということができるでしょう。この人の死とどう向き合うのかと、私たち自身が問われています。人の死、できれば避けたい内容です。できれば触れたくない内容です。それもいいのでしょう。でも、突然に死はやってくるのです。来ないで欲しいと思っていても、必ずやって来るものです。

 私たちの世界には多くの宗教があります。私たちが信じているキリスト教もその一つです。宗教の役割は何だろうと思いますか。私は、宗教の役割は、人の死に対して、希望を与えるものだと考えています。人の死に希望を与えない宗教は、本当の宗教とはいえないのではないかと私自身勝手に考えています。今日、会報永泉ができました。その中に、イースターの思い出として、教会員の馬渕さんの文章が出ています。勝手ですが、一部を読ませていただきます。『昨年5月、夫を天に送りました。9ケ月間入退院を繰り返し、コロナ渦にあって入院中はほとんど会えず、互いに不安と寂しさと先々の焦りへの限界でした。仕事を辞め家庭で夫との残された時を過ごし始めたものの12日間寄り添えただけでした。再入院で最期の3日間は付き添いを許可していただき、意識の遠のく夫との時間の中で、讃美歌をいっぱい歌いました。息苦しさの中で時々口を動かしながら一緒に歌おうとしてくれました。そして「天国で待っていてくれますか?」と問うと大きく頷いてくれました。漠然としていた「復活の希望」が私にぐっと迫ってきた瞬間でした。』

 この復活への希望というものです。この人の死の先にある復活の希望が、私たちの人生の歩みを支えるものになっているのです。天国、復活への希望です。キリスト教は、その天国と復活の希望を語っているのです。今日のイースターの礼拝の中で、1人の姉妹の洗礼式を行います。洗礼を受けることと、天国、復活の希望とはどのようにつながるのでしょうか。

ローマ6:4

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。

 キリスト教では、神が最初にいて、この神によって、私たちのいる世界が造られたと考えています。神が、天地を創造されたのです。天地創造の最後に、わたしたち人間をつくってくださいました。神は人間を特別な存在としてつくられたのです。それは、神に似る者としてつくられたということです。神に似るということは、神のように自由意志を持つ存在であるということです。自分の意志を持っている存在です。人は神を愛する者としてつくられたのですが、人間自身の意志によって、神を愛さないことを選んでしまいました。神を愛さないことを罪といいます。罪を犯したことによって、人に死が入って来たのです。こうして、人が神に対して、罪を犯したことによって、死ぬべき存在になってしまったのです。人はどうしたら、罪が赦されることができるかですが、自分自身の力では、罪が赦されることはないのです。そのために、すべての人間は死ななければならないのです。

 神は、人間の罪を、そして、死ぬことを深く悲しんでいました。神が人間に与えた自由意志のために、なかなか解決することは難しいことになってしまいました。神には大切な独り子がいました。それが、イエス・キリストです。神によって最も大切な独り子であるイエス・キリストをこの世界に送ってくださいました。それが12月のクリスマスの出来事です。イエス・キリストは、私たちの住む世界に来られ、人間が味わう喜びや悲しみなど、すべてを味わってくださいました。罪を犯したことがないことだけが違うことだけで、他はまったく同じ人間になってくださったのです。

 そのイエス・キリストが十字架につけて、殺されてしまったのです。十字架刑は人間が考えた死刑方法の中で一番厳しい処刑方法だといわれています。その十字架刑を、イエス・キリストは受けて、殺されてしまいました。でも、これが、私たちの持っているすべての人々の罪の赦しにつながるのです。このイエス・キリストの十字架の出来事は、今から約2000年前のことです。それが、今の私たちの罪の赦しにつながるのです。神の子イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の死を意味します。私たちのすべての罪を、イエス・キリストが十字架で死ぬことによって、すべてを解決してくださったのです。このことを私たちは、自分の口で告白し、洗礼を受けることによって、自分の罪の赦しに預かることができるのです。

 イエス・キリストは十字架の上で死なれ、墓に葬られました。そして、3日目の日曜日の朝に、墓の中から復活されたのです。十字架の死と復活はつながっています。イエス・キリストが墓の中から復活されたことは、私たちもやがては死に、墓に葬られます。しかし、それでは終りません。私たちも墓の中から復活するのです。私たちが住むこの世界は、いつか終る時が来ると聖書は伝えています。神は、この世界を始め、この世界を終えるのです。そして、新しい世界、神の国をつくられるのです。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた者は、この神の国に入ることが許されています。そして、新しい命が与えられます。この新しい命をいうのは、永遠の命です。決して死ぬことのない永遠の命です。この復活と永遠の命が与えられて、神と共に、神の国で生きることができるのです。神は、聖書において、このようにいってくださっています。人の言葉ではなく、神の言葉によって、いっているのです。そして、次のような言葉が与えられています。

黙示録21:4

彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

 私たちは、この神の言葉によって、私たちが死ぬことの先に、このような神の国、永遠の命があることを知るのです。神が、イエス・キリストにおいて、与えてくださったおくりものです。私たちは、心から喜んで、このおくりものを受け取ろうではありませんか。

祈り 神よ。イースターを一緒に祝うことができましたことを、心から感謝します。1人の姉妹が、洗礼を受けられました。どうかこれからの信仰者の歩みが祝福にみちたものになりますように、祈ります。私たちも、復活信仰をもう一度確認し、自分たちの死とその先にある永遠の命を確信を持って歩むことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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