5月8日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、402(1)463(1)です。配信は新しい方法で行います。無事に送りますように。

礼拝説教       マタイ24:1~14「世の終るとき」     2022.5.8

 5月の第2日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神の言葉をいただき、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。

マタイによる福音書を読んでいます。マタイによる福音書の24章~25章は、世の終りのことについて書かれてあります。聖書の最後に、ヨハネの黙示録がありますが、ここには世の終りのことが細かく書かれてあります。マタイのこの箇所は、小黙示録といわれているところです。世の終りといいますと、何か衝撃的な印象を持ちます。私たちは自分の人生の終りというよりも、世の終りといわれた方が何か不安に感じるものだと思います。世の終りというと、「世界終末時計」というのがあります。それは、世の終り、つまり終末までの残りの時間を時計にしています。核兵器や世界大戦の危機が迫るたびに、進められて来ました。今はどうなっているのでしょうか。私が若い時、ノストラダムズの大予言がブームになりました。1999年7月に人類が滅びるというものでした。しかし、その時に人類は滅びませんでした。

聖書を読みますと、聖書は始まりと終りがあることを書いています。世の始まりを書いた創世記と世の終りを書いたヨハネの黙示録で終っています。つまり、聖書は、時間の最初から終りの順に並んでいます。このように初めがあって終りがあるのです。これが聖書の時間に対する考え方です。そして、聖書が伝える世の始まりと世の終りですが、この世界は、神によって始められ、神によって閉じられる終りがあるということです。

今日の聖書の箇所ですが、イエス様がエルサレムの神殿の境内から出て行かれたところから書かれています。ここまでエルサレムの神殿の中での教えがありました。それを終えて、エルサレムの町を出て行かれました。オリーブ山の方に向かって、町の東側の門から出て行かれたようです。そうやって町を出ると神殿の全貌が見えるのだそうです。すると弟子たちが近寄って来て、神殿の建物を指さしたと書いています。マルコによる福音書によりますと、弟子たちが「先生、御覧ください。何と素晴らしい建物でしょう」といったと書かれてあります。このエルサレムにあった神殿は第二神殿と呼ばれ、ヘロデ大王が拡張した神殿で、それは見事で立派な神殿だったようです。これは、イスラエルの人々にとっても大きな自慢の建物だったのです。自分たちは、こんなに立派な神殿で神を礼拝していると。ところが、それを聞いたイエス様が、その神殿が壊滅するということを予告しているところから始まります。弟子たちは、このイエス様の話を聞いて、まさかと考えたでしょう。しかし、実際に、歴史的にこの神殿は、この後40年後に、ローマ軍によって徹底的に破壊されてしまうのです。

そして、弟子たちは、イエス様がオリーブ山に座っている時に、世の終りについて質問しています。それに対して、イエス様が答えているのです。でも、どうして、世の終りが来るのでしょうか。どうして神は、この世を終らせてしまうのでしょうか。それは、人間の罪があるからです。神は、最初に天地を創造された時、極めてよいものに造られたのです。それを悪くしてしまったのは、私たち人間なのです。人間は、神に似せて造られました。それは、人間の自由意志が与えられたということです。その自由意志によって、人間は神と共に歩み、神を愛し、神を信じて歩んでいくことを期待されていました。しかし、悪魔の誘惑によって、罪を犯してしまいました。自由意志を悪い方に使ってしまったのです。神に逆らう方に使ってしまったのです。そして、この世は悪い方に進んで行きました。更に、私たち人間も罪によって苦しむようになってしまったのです。本当に悲しいことです。

神は、私たちの世に介入されました。もう一度良い方向に戻すためにです。そして、この世を終らせるというのが、聖書のいうところです。罪を終らせるのです。罪の世を終らせるのです。それは、すべての終りではなく、新しい世界の入り口でもあります。そのための世の終りです。このところで、イエス様は、世の終りに向かってどのようなことが起るかをいっています。イエス様の名前を名乗る者が現れ、「わたしがメシアだ」すなわちこの世を救うことができるということをいって、多くの人々を惑わすようになるだろう。確かに、私たちの歴史も見ていきますと、そのような人々が多く登場してきて、この世を不安に陥れたことがありました。更に、戦争が起きたり、戦争のうわさを聞くだろうといいます。戦争は何度も起っています。そして、今も起っていることを私たちは知っています。戦争が起こると、もう世界は終りだと考えてしまいますが、まだ終わりではないといいます。まだ終りは来ない、慌てるなといいます。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるといわれます。民族同士、国同士の憎しみ合いが高まっていきます。そのような人間が起こす戦争や争いだけではなく、いろいろな場所で、ききんや地震が起こります。いよいよ終りかと思いますが、まだ世の終りは来ないのです。それどころか、それらのことはすべての産みの苦しみの始まりといわれます。

また「その時あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」とあります。これは、キリスト者の迫害の予告です。どうして、神を信じ、隣人を愛そうとする者が迫害されるのでしょうか。実際に歴史上、迫害が起ってきました。ある人々は殉教したのです。ローマの時代に、多くのキリスト者が殉教しました。この日本でも、江戸時代に多くのキリシタンが迫害によって殉教したのです。どうして、このような迫害が起るのでしょうか。それは、この世が罪の世界にあるからです。更に、イエス様は多くの人々がつまずき、互いに裏切り合い、憎しみ合うような世界になると予告しています。偽預言者、つまり、神ではないものの言葉を、神の言葉であるかのように偽って語る者が横行するというのです。

そして、不法がはびこるので愛が冷えるといわれます。赤ちゃんは愛がないと生きていくことができません。それと同じように、愛がない社会は生きていくことが、とても辛く苦しいことです。誰も助けてくれる人がいない。信頼できる人がいない。人を見たら警戒しなさい。お互いに、自分のことだけで精いっぱいで、見て見ぬふりの社会です。実際に、このような社会になっているのかもしれません。イエス様のいわれるとおり、愛のない世界になっているのでしょう。では、本当の愛はなくなってしまったのでしょうか。真実の愛は確かにあります。この言葉を語られたのが、イエス・キリストです。愛のない人々、愛のない社会、このような私たち人間の現実に、罪人を救うために、来られたのがイエス・キリストです。この後に十字架に向われるのがイエス・キリストです。愛のない人間を救い、御自分を憎む者を愛される、救われるのです。これが真実の愛です。

新約時代に活躍したパウロという人がいます。この人は、教会が誕生した後、その教会を激しく迫害しました。すべてのキリスト者を摘発し、訴えて牢に入れていました。しかし、イエス様は、すでに天に上されましたが、天から声をかけられ、パウロを回心させたのです。このパウロを異邦人の伝道者として用いられ、世界に向かってイエス・キリストの福音を宣べ伝えるように導かれました。これが、イエス・キリストの愛の現れの例です。もっといえば、私たち自身が教会に導かれたことです。イエス・キリストの愛は、愛が更に冷えた現代においても変ることはありません。私たちはそれぞれの道を勝手に歩んでいました。救う価値のない罪人である私たち、その私たちの叫びを聞いてくださり、イエス様は救ってくださったのです。私たち自身が、イエス・キリストの愛のあかし人です。愛が冷えた、愛なき時代においても、ここに真実の愛があるというのがイエス・キリストの十字架です。

そういいますと、なぜ世の終りはすぐに来ないのかということになります。愛が冷え、更に人間の間に不信や憎しみが高まっていくのなら、なぜもっと早く世の終りは来ないのかということになります。先週の日曜日の説教でも触れましたが、神の忍耐がそこにあるのです。皆が悔い改めて、真の神を信じるように、キリストを信じるように、待っておられるのです。ここにもイエス・キリストの愛が現れています。愛のない時代に、イエス・キリストは、私たち1人1人を真実の愛へと招いてくださっています。イエス様は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」といわれました。「耐え忍ぶ」というのは、希望を持って待つということです。イエス・キリストが最善をさしてくださる。そのことに信頼して、委ねて待つのです。神を礼拝しつつ、神を讃美しつつ、待つのです。

私の大好きな聖書の箇所があります。

1テサロニケ5:16~18

いつも喜んでいなさい。絶えず、祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 イエス・キリストにおける希望、それを持って歩んで生きたいと思います。そのようにして、神と共に終りに向って行くのです。その時に、終りは終りではなく、新しい世界に向かっていくのであるという希望を持つことができるのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたのみ言葉によって、この不安の時代に、希望を持って生きることができます。神の愛を、イエス・キリストの十字架の愛を、私たちがしっかりと受け止め、この先の未来を、希望を持って歩むことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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