讃美歌は、57(1)394(1)です。5月29日に竣工式を予定しています。
礼拝説教 マタイ24:15~28「未来を信じる」 2022.5.15
新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神の言葉を受けて、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。
神は、この世界の初めです。私たちの世界、すべては神から始まっていきます。神が初めに天地を創造されました。そして、私たち人間をつくってくださったのです。特別な存在として、私たち人間を神はつくってくださいました。それは、神に似る者としてつくられたということです。それは、自由な意志が与えられたということです。自由意志、神を自ら進んで愛する意志です。神は私たち人間と人格的な交わりを求めて、期待していたのです。それが、与えられた自由な意志によって、神を愛さない道を選んでしまいました。そこから罪が入ってきたのです。そして人間は死ぬ存在になってしまいました。
神はアブラハムを選ばれました。それは、イスラエルの人々を神の民として選ばれたことを意味しています。旧約聖書は、神とイスラエルの人々の歩みが記されています。神の民としてのイスラエルの人々の歩み、どのような歩みだったのでしょうか。それは神に反抗し、罪を犯し続ける人間の姿です。神は、イスラエルの人々の契約を結び、神の民としました。神の民となったイスラエルの人々、神の教えに従って歩むことを求められています。しかし、現実には、何度も神に反抗し、罪を犯し続けます。
エジプトで長い間、奴隷だったイスラエルの人々、40年という荒れ野の旅を経て、約束の地に入ろうとします。その時に、指導者だったモーセが、イスラエルの人々に、約束の地において神の民として歩む意味を再び語っているのが、申命記です。その申命記28章で、神の祝福と呪いという内容が書かれてあります。最初が、神の祝福です。神の民として歩むイスラエルの人々が、神の教えに従って歩むことによる祝福です。具体的なことが書かれてあります。平和で幸福に暮らせること、子どもがたくさん生まれること、豊かな食生活が送れることなどです。
その反対に、神の呪いは、約束の地に入ったイスラエルの人々が、神の教えに従わず、神を拝まず、偶像などを拝んだ場合などです。神の呪いが具体的に書かれてあります。戦争が起こること、病気がはやること、異邦人に支配されること、食生活も厳しい状況になることです。次のような厳しい言葉が書かれてあります。
申命記28:47~53
あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。敵はあなたに鉄の首枷をはめ、ついに滅びに至らせる。主は遠く地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにあなたに差し向けられる。その民は尊大で、老人を顧みず、幼い子を憐れまず、家畜の産むものや土地の実りを食い尽くし、ついにあなたは死に絶える。あなたのために穀物も新しいぶどう酒もオリーブ油も、牛の子も羊の子も、何一つ残さず、ついにあなたを滅ぼす。彼らはすべての町であなたを攻め囲み、あなたが全土に築いて頼みとしてきた高くて堅固な城壁をついには崩してしまう。彼らは、あなたの神、主があなたに与えられた全土のすべての町を攻め囲む。あなたは敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえに、あなたの神、主が与えられた、あなたの身から生まれた子、息子、娘らの肉をさえ食べるようになる。
このような厳しい状況になると書かれてあります。神の民として選ばれたイスラエルの人々、神の民としてふさわしくない歩みをするといったいどういう状況になるのか、これほどにひどく厳しい状況をいったい、どのくらい受け止めていたのでしょうか。
今日の聖書の箇所ですが、マタイ24~25章は、この世の終りについてのことがイエス様から語られているところです。そして、イエス様はまもなく十字架の死を迎えようとしています。エルサレムに入城されて、イエス様は律法学者やファリサイ派の人々と激しい対決を終えて、エルサレムから一時的に離れようとします。神殿の境内をでて、振り返ってみると、ちょうど神殿の全景を見ることができました。弟子の一人が、神殿を見て、イエス様に何と素晴らしいことかをいいます。すると、イエス様は、神殿を指さして、これらすべての物を見ないのか。はっきりといっておく。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることもないといわれるのです。エルサレムの崩壊、神殿の破壊です。そして、弟子たちは、イエス様に、この世の終りについて尋ねています。この世の終りには、いったいどのようなことが起るかということです。
今日の聖書の箇所であるマタイ24:15以下は、イエス様の十字架の死から、約40年後に起る危機について、イエス様の口からいわれている内容です。15節の「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」とありますが、「憎むべき破壊者」とは、いったい誰でしょうか。これは、紀元前170年ごろ、シリアの王アンテオコス・エピファネスがユダヤ教を一掃して、ユダヤにギリシャの宗教と文化を導入したことを指します。この王は、エルサレムを攻略して神殿を汚しました。神殿の境内に、ゼウス神のための祭壇を建て、その上に豚の肉をぎせいとしてささげ、汚したのです。この時は、ユダ・マカビウスが立って、対抗しました。イエス様の言葉には、その時の危機よりもより強い危機がやって来ることをいっているものです。
イエス様の十字架の死から、約40年後の、70年ごろ、イスラエルの人々は、ローマ軍と対決することになります。ユダヤ戦争といわれるものです。その時には、読者は悟れと書いてあります。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。このようにイエス様は具体的な指示を与えています。これに従ったキリスト者もいたといわれています。でも、多くのユダヤ人が各地からエルサレムに集まり、その城壁に殺到しました。この愚かさのために、ローマ軍の包囲によって起こった飢饉がいっそう悲劇的なことになっていったのです。ある聖書の解説書には次のようなことが書かれてあります。
やがて、飢饉が広がり、家と家族をのみ尽くした。2階の部屋には餓死する女、子どもで満ち、町の小道には老人の死体がうずたかく積まれ、子どもも若者も影のように広場をさまよい、いたるところに倒れいった。死体を埋めようとしても病人にはその力がなく、元気な者も、あまりに死体の数が多いのと、自分がいつ死ぬかわからないのとで手をつける者がいなかった。他人を埋めながら自分も死んでいく者、死ぬ前に自分で棺に入る者も多かった。この惨状の中で悲しむ者もなく、泣く者もいなかった」と。更に、そのころ女が自分の子どもを焼いて食べたと書いていると。エルサレムが陥落したのち、略奪するためにエルサレムに侵入したローマ軍は、あまりの凄惨さに手をくだすことができなかったと書かれてあります。この戦いで、約10万人が捕虜となり、約110万人が死んだといわれています。
イエス様がここでいわれている世の終りについて、後のマタイによる福音書を読んだ人々、この惨状を経験した人々は、どのように受け止めていたのでしょうか。イスラエルの人々の歩みの悲惨さ、大変さ、その歴史を受けとめつつ、今日の私たちは、これをいったいどのように受け止めればいいのでしょうか。今も、人と人とは武器を持ち、戦い合い、殺し合っています。本当に悲しいことです。
私がいえること、この後に、イエス様が十字架についてくださるということです。神の子であるイエス・キリストが、私たちのために、人間のすべての罪を背負ってくださって、十字架についてくださったということです。ここに、神の愛があらわれています。イエス・キリストの十字架、神の愛、これが、私たちの希望です。人間の罪もありますが、神の愛がしっかりと働いている、このことを信じて、歩んでいくのです。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを、心から感謝します。人間の罪の深さ、悲しさ、重さを深く感じました。私たちが生きる希望はいったいどこにあるのだろうという思いでした。イエス・キリストの十字架、神の愛、ここに生きる希望を持って、歩んで生きたいと願います。どうか、弱い私たちを助けてください。今起こっている戦いを、早く終らせてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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