8月21日の礼拝の内容です。

礼拝

礼拝説教        マタイ26:14~16「銀貨30枚の意味」     2022.8.21

 8月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただいて、よりよい1週間の歩みをしていきたいと心から願います。

 マタイによる福音書26章からは、本格的に、イエス・キリストの十字架の出来事が始まっていきます。イエス様はこれから2日後の過越祭に、十字架の時が起ることを語っています。そのイエス様を十字架につけようとしている祭司長たちや民の長老たちは、過越祭に騒ぎが起ったら大変だから、祭りの間に、イエス様を捕まえることは止めようと話し合っていました。そして、ナルドの香油の物語が起り、イエス様の葬りの準備がなされていきます。

 イエス様が十字架におつきになるのは、神の目的でした。このイエス様の十字架によって、私たちすべての人間の罪の赦しが完成するからです。十字架がなければ、神の救いの出来事は完成しないことになります。それほど、イエス様が十字架につくことは、大切なことでした。イエス様が十字架につくために、決定的な役割を演じるのが、イエス様の弟子の一人であるイスカリオテのユダなのです。今日の聖書の個所は、ユダが祭司長たちのところへ一人で行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」ときいています。そこで、祭司長たちは、このユダに「銀貨30枚を支払う」と約束します。その時から、ユダはイエス様を祭司長たちに引き渡そうと、よい機会を狙うようになります。

 このイスカリオテのユダは、いったいどのような人物なのでしょうか。福音書の前半の部分では、名前だけが出ているに過ぎません。ペトロやマタイなどが、イエス様と出会い、弟子になっていった経過が書かれてありますが、ユダについては、何も書いていません。ですから、イエス様との出会いや、どうして弟子になっていったのかはまったく分かりません。分かることは、イエス様ご自身が、12人の弟子を選ばれたことです。つまり、このイエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダもイエス様ご自身が選んだのです。そして、イスカリオテのユダの行動が、福音書に出てくるのは、イエス様が十字架につく時に、裏切ることで出てくるのです。

 これからのイスカリオテのユダの行動の流れを追って見ていきたいと思います。今日の聖書の個所で、まず、ユダ自身が祭司長たちの所に行き、イエス様を引き渡すことを話します。その報酬も銀貨30枚となっていきます。マタイ26:17~25では、過越しの食事の場面です。イエス様と弟子たちは、エルサレムで、ある家の部屋の中で、過越しの食事をします。弟子たちが食事をしている時に、イエス様は弟子たちに衝撃的な言葉をいいます。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と。実は、弟子たち全員が、イエス様を裏切ることになるのですが、ここでは、弟子たちの中の一人が、わたしを裏切ろうとしているというのです。その意味では、イスカリオテのユダを指しているのですが、イエス様は、ここで「ユダ、おまえだ」とはいっていません。もちろん、弟子たちは心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わるいい始めています。それでも、「お前、ユダだ」とはいっていません。そして、過越しの食事をして、ペトロの離反を予言します。次に、ゲッセマネの祈りがあります。

 マタイ26:47~56で、ユダの裏切り、イエス様の逮捕となります。イエス様は十字架を前にしたゲッセマネの祈りをして、そこに、イスカリオテのユダがやってきます。ユダにとって、イエス様を祭司長たちに引き渡すのによい機会とは、この朝早く、この祈りの場所でした。いつも、イエス様はここで祈られていました。ユダはそのことをよく知っていました。ユダは、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来ました。イエス様を裏切ろうとしていたユダは「わたしが接吻するのが、その人だ」と前もって合図を決めていました。ユダはすぐにイエス様に近寄り、「先生、こんばんは」といって、接吻しました。イエス様は「友よ、しようとしていることをするがよい」といいました。すると人々は進み寄り、イエス様に手をかけて捕らえました。弟子たちの反撃もありましたが、イエス様は捕らえられました。この時に、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。ユダの計画は成功しました。その後、イエス様の裁判、ペトロの否認、ローマ総督ピラトに引き渡されていきます。

 最後になりますが、マタイ27:3~10のユダの自殺の場面になります。ユダは、イエス様を銀貨30枚で祭司長たちに引き渡す計画をして、それを実現することができました。表面上は成功し、ユダは目的の銀貨30枚を手にして、喜んでいると考えます。しかし、実際は、まったく違うことが起っています。イエス様を裏切ったユダは、イエス様が有罪の判決が下ったことを知って後悔しています。え、どうしてと思ってしまいます。それで、ユダは考えられない行動に出ます。冷静に考えれば不可能なことをしようとします。それは、自分が手にしたイエス様を売った銀貨30枚を手にして、祭司長たちや長老たちの所に行き、渡そうとします。渡して、イエス様の解放を願ったのでしょうか。ユダは、彼らに「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」といいます。当然、彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言い返します。それで、ユダは銀貨30枚を神殿に投げ入れ、立ち去り、首をつって死んでしまったのです。私たちが知っているようにイスカリオテのユダは最後、自殺してしまいました。

 私は、このイスカリオテのユダの話に触れる時に、大きな悲しみを覚えます。どうして、ユダは最後、そうしなければならなかったのだろうと思うからです。私たちの身の回りにも多くそのようなことで死を選ぶ人がいるからです。イスカリオテのユダが、イエス様を裏切った理由として、お金が欲しかったからだという考えがあります。マタイ25;14~30にタラントンのたとえがありました。1タラントンは、今での価値は約6000万円だと触れました。また、マタイ26:6~13のナルドの香油の物語ですが、ナルドの香油の値段が、約300万円以上だと触れました。その流れを見ていると、イスカリオテのユダが、祭司長たちに、イエス様を引き渡そうとして、取引の値段が出ています。銀貨30枚です。この銀貨30枚とは何を意味するのでしょうか。

出エジプト記21:32

もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた時は、銀30シュケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺さねばならない。

 この個所は、神がモーセを通して、イスラエルの人々と契約を結び、その契約の内容の中で書かれているものです。契約の書の中にあります。自分が飼っている牛が、奴隷を突いて殺した場合に、奴隷が死んだのですから、賠償の意味で、奴隷の持ち主に支払うお金として、銀30シュケルになるというのです。つまり、奴隷一人の値段を表しています。銀貨30枚とは、現在ではどれくらいの価値かと、インターネットで調べてみました。いろいろなものがありましたが、約7000円だということでした。もちろん、イエス様の時代と現在の日本を比較することは難しいと思いますが、参考のために、調べてみました。

 そう考えると、ユダは銀貨30枚、約7000円で、イエス様を売ろうとしたのです。私がユダだったら、もし7000円で、イエス様を売ろうとはしません。もっと、高くすることを交渉としようとします。しかし、ユダはしませんでした。確かに、銀貨30枚を手にしていました。ユダには、イエス様を祭司長たちに売るということは、お金の価値の問題ではなく、まったく別のことがあったと思います。そう考えるのが自然だと思います。それにしても、祭司長たちや民の長老たちは、イエス様の値段を、銀貨30枚にしたのです。出エジプト記にあるように、奴隷一人の値段です。ひどいなあと思ってしまいます。イエス様を奴隷として見ていたのです。イエス様は奴隷になられたのでした。イエス様はまもなく十字架におつきになります。私たちのすべての罪を背負ってくださるのです。

フィリピ2:6~8

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 この聖書の言葉の通りに、イエス様は、自分を無にしてくださいました。僕の身分、つまり奴隷の身分になってくださり、私たち人間と同じ者になってくださったのです。銀貨30枚は、それを意味します。私たちが味わう苦しみのすべてを味わってくださったのです。その最後が、十字架の苦しみです。

祈り 神よ、あなたをこのように礼拝することができましたことを、心から感謝します。神の子が、この地上で、どのような歩みをされて来てくださったのかを見てきました。イエス様は、私たちと一緒になってくださったのです。私たちの味わうすべての苦しみも味わってくださいました。十字架を見上げます。どうか、イエス様の十字架を見上げながら、あなたの深い愛を受け止めることができるように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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