讃美歌は、471(1)516(1)26です。礼拝の中で聖餐式があります。
礼拝説教 マタイ26:17~25「ユダを愛する主」 2022.9.4
9月の第1の日曜日を迎えました。今年もあと4ケ月です。時の流れは速いものです。9月も神に導かれて、よりよい時を過していきたいと思います。神の言葉を受けて、希望と感謝に満ちた日々を過ごしていきたいと願います。
マタイによる福音書を読んでいます。まもなくイエス様の十字架の時が近づいています。考えてみれば、この聖書全体が示そうとしているのが、このイエス・キリストの十字架です。これがあって、私たちの罪の赦し、罪からの贖いが完成していくのです。今日の聖書の箇所は、過越しの食事の場面です。過越祭、イスラエルの人々にとって最も大切な祭りです。かつて、イスラエルの人々が、エジプトで長い間、奴隷としての日々を過ごしていました。苦しく長い日々でした。そのイスラエルの人々の苦しみの叫びを聞いた神は、指導者モーセを送り、エジプトからの解放、苦しみからの解放を成し遂げて行きました。
エジプトからの解放の大きなきっかけとなったのが、過越しの出来事でした。神はモーセを通して、エジプトに自然災害といわれる10の災いを送りました。その最後は、神から送られた死の使いがエジプト中を巡るのです。死の使いが通ったエジプトの家では、家にいる初めて生まれた子どもが死ぬのでした。エジプト人のすべての家の初めて生まれた子どもがすべて死んでしまったのです。家族の中で一人が死んでいくのです。エジプト人にすれば大きな悲しみです。エジプト王の子どもも亡くなりました。エジプト王は、このままではすべてのエジプト人が死んでしまうと恐れて、イスラエルの人々の解放を許したのです。イスラエルの家では、子羊が屠られ、その血を家の入口に塗ります。死の使いは、その家に塗ってある血を見たら、その家を過ぎ越して行きました。こうして、子羊の血によって、イスラエルの家では、すべてが無事だったのです。
この時に、イスラエルの人々は、過越祭を祝うために、多くの人々がエルサレムに集まっていました。イエス様も12人の弟子たちと一緒になり、過越しの食事をするのです。除酵祭の第1日に、弟子たちがイエス様のところに来て、どこで過越しの食事をなさる用意をいたしましょうかといいますと、イエス様は都のある人のところに行ってこういいなさい。先生が、わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越しの食事をするといっていますと。弟子たちは、イエス様に命じられたようにして、過越しの食事の準備をしました。夕方になりました。イエス様は12人の弟子たちと一緒に食事の席に着きました。
この過越しの食事ですが、イエス様にとって、この地上での最後の食事になっていきます。この過越しの食事をする時に、12人の弟子たちは何を考えていたのでしょうか。それは、イスラエルの人々がかつてエジプトで奴隷であったところから解放されたことを強く意識していました。この時に、イスラエルの人々はローマ人によって支配されていました。エジプトの時と状況は似ていたのです。エジプトからの解放は、ローマ人からの解放を意味していました。つまり、ローマ人と戦い、勝利し、解放されることです。弟子たちに対して、イエス様は違っていました。子羊が屠られ、血が流されていきます。この血が死からの解放を意味します。罪からの贖いを成し遂げるのです。過越し祭の時に、子羊が屠られ、その血が流されていく。子羊は、イエス・キリストご自身でした。子羊が屠られ、血が流されるように、イエス・キリストが十字架にかけられて、血を流すことによって、罪からの贖い、罪の赦し、死からの解放とつながっていきます。
この12人の弟子たちとイエス様の見解の違いが、この後の出来事につながっていきます。イエス様はまもなく、逮捕され、裁判を受けられ、鞭を打たれ、十字架の道を歩まれることになっていきます。そのイエス様の十字架の道を確実にしたのが、12人の弟子の一人であるイスカリオテのユダです。イエス様を捕らえ、十字架につけようとしていた祭司長たちは、過越祭の間は、行動を移すことを控えようと話し合っていました。民衆の間で騒ぎが起ることを恐れたからです。騒ぎが起るとすぐにローマ軍が行動を移すことを知っていたからでした。それを狂わせたのが、このユダの行動でした。イスカリオテのユダは、この過越しの祭りが始まる前に、祭司長たちのところに行き、イエス様を引き渡す計画を話したのです。ユダは、イエス様を祭司長たちに渡す時を、チャンスを狙っていました。
この過越祭の食事の時は、ユダはすでに行動に出ていたのです。ユダの計画は秘密裏に進めていかなければなりません。もし、ユダの計画が他の弟子たちに分かってしまえば、もしかしたら、ユダは殺されてしまうかもしれません。そのような緊張感に満ちた過越祭の食事の時でした。イエス様は神の子ですから、ユダの計画は知っていました。
聖書を大きな視点で見ますと、イエス様が十字架につくことは最も大切なことでした。私たちの罪の赦しがかかっているからです。イエス様はご自身が十字架につかなければならないことも分かっていました。その十字架のために、ユダの行動は必要なことになっていくのです。変ないい方ですが、イエス様の十字架のためには、ユダの裏切りは必然でした。ユダにイエス様を祭司長たちに引き渡してもらわなければならないのです。ここには大きな矛盾があります。どのように考えていけばいいのか分からない部分です。
こんな話があります。手塚治虫の漫画に「ブラックジャック」というものがあります。その漫画に、こんな話があるのです。ある死刑囚がいました。死刑囚は自殺を図るのです。でも、死ぬことはありません。それで、その死刑囚の命を助けるように、ブラックジャックに依頼があります。ブラックジャックは最初断ります。それは、死刑囚の命を助けたとしても、元気になれば、死刑が執行されることが決まっていたからです。結果的に、ブラックジャックはこの死刑囚の命を助けました。死刑囚が回復し、元気になりました。そして、死刑囚の死刑が執行されてしまうのです。ブラックジャックの医療行為にいったい意味があったのでしょうか。
マタイは、過越祭に食事の様子を、緊張と不安に満ちた様子を丁寧に描いています。イエス様と12人の弟子たちが食事の席に着き、食事をしているとき、イエス様は「はっきりと言っておくが、あなたがたのうちに一人がわたしを裏切ろうとしている」といわれます。弟子たちは非常に心を痛めて「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです。誰も、わたしではありませんとはっきりといえる人はいませんでした。最後には、すべての弟子たちがイエス様を見捨てて裏切ることになるのです。なぜ、この時に、イエス様はこのようにいわれたのでしょうか。それは、ユダの裏切りを止めようとしたからだと私は思います。止められないことは分かっていても、何とかユダの行動を止めようとしているのです。話は続きます。イエス様はお答えになりました。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と。
イエス様のこの言葉ですが、本当の意味で理解することはできないように思います。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」の言葉です。ユダに向けていわれたものですが、神の子が、生まれなかった方が、その者のためによかったという言葉をいうのでしょうか。私たちの人間の世界では、いろいろな差別があり、このような表現もあります。決して許されることではないと思います。それが、聖書の中に、それも神の子イエス様の言葉として出ているのです。考えられることは、イエス様の大きな悲しみが含まれているのだと想像します。神の子としての叫びというものでしょう。どうすることもできない叫びそのものです。
イエス様を裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」というと、イエス様は「それはあなたが言ったことだ」と答えています。「それは、あなただ」とは、いっていません。それは、あなたがいったことだと返しています。他の弟子たちは、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めていますが、それと同じにユダのこともとられていました。イエス様はユダ自身が裏切りを止めるように促しています。でも、直接に止めることはなさいませんでした。後に、ユダがイエス様を裏切る場面が出ています。ユダは「先生、こんばんは」といって接吻します。イエス様は「友よ」と答えています。ユダを「友よ」と呼んでいるのです。最後の最後まで、イエス様はユダを愛されるのです。イエス様は十字架上で、「父よ。彼らを赦してください。自分で何をしているのか分からないのです」と祈っていますが、このユダも、祈りの中に含まれているのです。イエス様は、裏切ったイスカリオテのユダを愛されるのです。
祈り 神よ。礼拝の時を持つことができましたことを感謝します。神の子であるイエス・キリストの十字架のことと、裏切るユダのことを見てきました。人間とはいったい何者なのでしょう。どれほど罪の深いものなのでしょう。でも、神の愛は変わることはありません。私たち一人一人に対して、神は、イエス様の十字架によって、答えています。私たちの罪を赦し、天の国へ招くためです。永遠の命を与えてくださるのです。イエス様はユダのことを最後まで愛し続けるのです。イエス様の愛は決して変わることはありません。私たちのイエス様の愛の深さを知ることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
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