9月18日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、57(1)394(1)26です。10月16日の教会創立記念日礼拝を持ちます。

礼拝説教      マタイ26:31~35「つまずきの後で」    2022.9.18

 9月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神の言葉を受け止めて、よりよい1週間の歩みをすることができますように祈ります。

 マタイによる福音書を読んでいます。まもなく、イエス様の十字架の時は近づいています。最後の晩餐が終りました。まもなく場所を変えてゲッセマネの祈りになります。イエス様の逮捕の時はもうすぐです。この時に、イエス様は弟子たちにいわれるのです。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と。その後で、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」と。するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」というのです。それに対してイエス様はペトロに「はっきりといっておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないというだろう」と。ペトロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことは知らないなどとは決して申しません」といいました。弟子たちも皆、同じようにいったとマタイは書いています。

 今日は、イエス様とペトロのことを中心に考えていきたいと思います。イエス様の考えは、エルサレムで十字架にかかって死ぬことでした。ペトロをはじめ弟子たちは、このエルサレムで、イエス様を中心にローマ帝国と戦うことを願っていました。この大きな違いを知って、ペトロの行動を見ていきたいと思います。イエス様は、過越しの食事の時に、弟子たちのうちの1人が裏切ることを語りました。そして、ここでは、弟子たち皆が、イエス様につまずくといっています。イスカリオテのユダの裏切りと他の弟子たちのつまずきは大きな違いがあると私は考えます。ユダは意図的にイエス様を銀貨30枚のために、イエス様を敵である祭司長たちに売ります。しかし、他の弟子たちは、イエス様につまずくのです。つまずくという意味はどのようなことでしょうか。

 自分の経験のことですみません。学校でのことです。あれは学園祭の準備の時でした。段ボールをたくさん持って階段を下りていました。階段の下は段ボールで見えませんでした。あるべき階段がないのです。つまり階段を踏み外してしまいました。足をひねってしまったのです。しばらく病院に通うことになりました。つまずくというのは、このようなことだと思います。

 イエス様が弟子たちに、あなたがた皆が、わたしにつまずくといった時に、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」といいました。本気でした。決してうそではなかったのです。更に、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを決して知らないなどと決して申しません」といっています。ペトロの強い決意が出ています。ゲッセマネの祈りが終り、ユダが祭司長たちや民の長老たちの遣わした群衆が、剣や棒を持って来ました。ここで群衆は、イエス様を逮捕しようとします。その時に、イエス様と一緒にいた者の1人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落としています。この弟子がペトロでした。イエス様を捕まえようとする人々の前に出ていき、ペトロは剣を出して、戦ったのです。この時に、イエス様がペトロを止めなければ、イエス様も弟子たちも皆殺されていたかもしれません。イエス様は剣を出したペトロに「剣をさやに納めなさい」といって、御自身が前に出て、自ら逮捕されたのです。この時に、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。敵と戦うこともできない、イエス様は逮捕されてしまう。弟子たちはどうしていいのか、分からなかったのです。逃げるしかありませんでした。

 逮捕されたイエス様は、大祭司の屋敷に連れて行かれました。そこには律法学者たちや長老たちが集まっていました。そこで、イエス様の裁判が始められようとしていました。ペトロは一度、逃げましたが、イエス様の後を追いかけて行きました。大祭司の屋敷の中庭まで行って、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていました。敵のただ中に入っていったのです。ペトロは外にいて、中庭に座っていました。そこへ1人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」といいます。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことをいっているのか。わたしには分からない」といいます。ペトロが門の方に行くと、他の女中が目を留めて、居合わせた人々に「この人はナザレのイエスと一緒にいました」といいました。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消していいます。しばらくして、そこにいた人々がペトロに近寄って来て、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉使いでそれが分かる」といいます。その時に、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めました。

 するとすぐに、鶏が鳴いたのです。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」といわれたイエス様の言葉を思い出したのです。そして、外に出て、激しく泣いたとマタイは書いています。イエス様がするべきことと、ペトロが、イエス様に願っていたことはまったく違っていました。その違いによって、ペトロの行動は大きく変っていきました。イエス様が止めなければ、ペトロは自分がいった言葉を実際に行動していました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」のことです。ペトロはイエス様を守るために、命を捨てていたはずです。

 しかし、イエス様の行動によって、それが大きく違ったことになってしまいました。そして、どうしていけば何も分からなくなってしまいました。その場を逃げるしかありませんでした。一度は逃げたペトロですが、逮捕されたイエス様を見捨ててはいないのです。敵のいる大祭司の家まで、行ったのです。見つかれば、イエス様の仲間として、捕まって殺されてしまうかもしれないのです。その危険を冒してまで、イエス様の近くにいっています。それゆえに、三度もイエス様を知らないといわなければならなかったのです。でも、ペトロにすれば、イエス様を裏切ったことには変わりません。ペトロは、ここで自分の弱さを本当に知りました。そして、自分の弱さを、イエス様がよく知っておられたことを知って、激しく泣いたのです。激しく泣くことができたのです。

 そして、イエス様は十字架刑が決まり、裸にされて、鞭を打たれ、十字架を背負いながら、刑場に向かいます。刑場につき、十字架につけられます。そして、十字架の上で亡くなられます。墓に葬られます。そして、3日目に墓からよみがえられます。復活されたのです。復活されたイエス様は、ガリラヤに戻られます。イエス様が「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」といわれた通りです。その様子はヨハネが詳しく書いています。ヨハネによる福音書21章です。弟子たちも、自分たちの家に帰って行きました。過越祭を祝うために、エルサレムに行きました。そして、イエス様を失って、逃げるように帰って行ったのでしょう。ここでは、弟子たちがガリラヤ湖で漁をしている場面になります。それは、イエス様と弟子たちの出会いの場面を思い出します。たくさんの魚が取れて、イエス様は弟子たちと一緒に食事をしています。食事が終るとイエス様はペトロにいいます。「ペトロよ。わたしを愛しているか」と。ペトロは「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。二度目に、イエス様はペトロに「ペトロよ。わたしを愛しているか」と尋ねます。ペトロは、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。三度目に、イエス様はペトロに「ペトロよ。わたしを愛しているか」と聞きます。ペトロは、イエス様が三度目も「わたしを愛しているか」といわれたので、悲しくなったとヨハネは書いています。そして、ペトロはイエス様に「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えます。イエス様は最後に、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。わたしに従いなさい」といわれたのです。

 ペトロのイエス様の弟子として、その後、どのような活動をしたかは、使徒言行録を読むとよくわかります。ペトロが、イエス様の本当の弟子となるために、十字架の時のつまずきは必要だったと思います。あの自分のつまずきがあって、ペトロは自分の弱さを本当に知ることができました。そして、弱い自分をイエス様が知っていること、そして、弱い自分を、弟子として再び用いてくださることを知ったのです。つまずく前は、「わたしは、」「わたしは、」とペトロはいっていました。主人公は自分でした。それが、復活されたイエス様に出会ったペトロは「あなたが、」「あなたが、」が、イエス様が、主人公になっていることに気づきます。ペトロ自身のつまずきが、ペトロを変えたのです。もちろん、イエス様の愛があってからの話ですが、このペトロのつまずきによる変化は、私たちにも必要なのでしょう。

 もう一度、私たちは自分の歩みを振り返ってみたいと思います。どうでしょうか。「わたしは、」「わたしは、」と自分が主人公になっているでしょうか。私たち自身の人生のつまずきがあって、自分の弱さを知り、自分の罪を知り、そのままの私を受け入れてくださるイエス様と出会い、イエス様の十字架の愛によって、「あなたが、」「あなたが、」と「イエス様が、」「イエス様が、」といえる歩みでありたいと心から願います。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ペトロのつまずきを見てきました。そこでは、ペトロが自分の弱さを知ることができました。そして、その弱いペトロを愛してくださるイエス様のことを知ることができました。私たちも、このペトロのように、自分の弱さを知ることができ、弱い私を愛してくださるイエス様に、本当に出会うことができますように、導いてください。イエス様に心から信頼し歩んで行くことができますように、お守りください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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