11月13日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、200(1)411(1)444(1)26です。来週は幼児祝福式を行います。

礼拝説教      マタイ27:1~10「ユダの死から学ぶこと」   2022.11.13

新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉を受けて、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。先週には聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を守ることができました。教会堂の増改築工事や新型コロナウィルスの感染のこともあり、今まで十分に行うことができませんでしたが、工事の完成によって、新しい礼拝堂で、先に天に召された方々とそのご家族の方々と共に、礼拝を守ることができました。午後には、十字ヶ丘復活苑で墓前礼拝を行うこともできました。天候にも恵まれて、多くの関係者と共に礼拝を守りました。感謝なことでした。

 マタイによる福音書を読んでいます。イエス様の十字架の場面が近づいてまいりました。今日は、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダの自殺の話です。とても重い話になります。どうして、イエス様の12弟子の1人であるイスカリオテのユダが裏切ってしまったのか、大きな謎です。ユダは死んでしまいましたので、裏切りの本当の理由は誰にも分かりません。それでも、聖書の流れから、その理由を考えていきたいと思っています。忘れてはならないことがあります。それは、イエス様が12弟子をご自身で選ばれたということです。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」このイエス様の言葉があります。このイエス様の言葉はとても重い言葉だと私は思います。イエス様ご自身が、イスカリオテのユダを弟子として選ばれたのです。そのユダが、イエス様を裏切って、イエス様の十字架の道を開いていくことになります。

 イエス様と弟子たちは、エルサレムに入られました。過越し祭を祝うためです。過越しの食事の前には、ユダは、イエス様を裏切ることを計画していました。マタイ26:14~16の場面です。ユダは、祭司長たちのところに行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と聞いています。彼らは銀貨30枚支払うことを約束しました。当時の奴隷1人の値段です。この時から、ユダはイエス様を引き渡そうと、よい機会を狙っていたのです。

 次に過越しの食事の場面、最後の晩餐になりますが、イエス様は、弟子たちと食事をしている時に、「はっきりと言っておくが、あなたがたのうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」というのです。弟子たちは心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めています。イエス様は更にいいます。「わたしと一緒に手に鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と。イエス様を裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」というと、イエス様は「それはあなたの言ったことだ」と答えています。この時点で、弟子たちの中では、だれが裏切るのか分かっていません。でも、イエス様は分かっています。それでも、「ユダ、お前だ」とはいっていません。

 そして、ゲッセマネの祈りになり、イスカリオテのユダが、祭司長や民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒にやってきます。マタイ26:47~56の場面です。まだ朝が明けていない、あたりが暗い時でしょう。ユダは率先して、イエス様を逮捕しようとしています。ユダは「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めているのです。ユダは、すぐにイエス様に近寄ります。そして、「先生、こんばんは」といって接吻します。イエス様は「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれました。すると人々は進み寄り、イエス様に手をかけて捕らえました。

 ここまでの場面を見ながら、どうして、ユダはイエス様を裏切ろうとしたのでしょうか。実は、ユダは、イエス様を裏切っていないのです。これからは、私自身の考えになります。お許しください。イエス様の弟子たちを始め、多くのイスラエルの人々が、ローマ帝国からの解放を願っていた話をしてきました。ペトロもそうですし、他の弟子たちもそうでした。イエス様を中心に、エルサレムで、それも過越し祭において、この祭りこそ、イスラエルの解放の祭りです。この以上の機会はないでしょう。多くのイスラエルの人々が、このエルサレムに集まっています。この機会に、ローマ帝国に対抗して、戦いの火ぶたを切るべきだと多くの人々が願っていたのでしょう。ローマ帝国も軍隊を派遣していて、そのことに警戒をしていました。イスラエルの人々の中に熱心党といわれる人々がいました。この人たちは、今でいうテロリストということができます。目的のためなら、何でもする人々です。ローマ帝国の協力者は、同じイスラエルの人々でも容赦はしませんでした。殺害の対象者になっていたのです。

 ユダは、この熱心党の影響を強く持っていたのではないかと思います。ローマ帝国と戦うために、イエス様をリーダーとして戦うべきだと思っていたのです。イエス様にはその力があるとユダは信じていたと思います。いろいろな奇跡を見て、この神の力があれば、ローマ帝国と戦うことができると思っていました。しかし、イエス様は、エルサレムに行く道で、受難予告をされています。エルサレムへ行き、多くの人々から苦しみを受けて、十字架につけられて殺されてしまうという言葉です。イエス様にとってすれば、それは本当の言葉でした。しかし、弟子たちにすれば、ありえないことでした。ユダにすれば、弱気になっていると思っていたのでしょう。ユダは、最後まで、イエス様を信じていたのです。ユダは頭のよい人だったと思います。計算することができたのでしょう。自分が考えて、こうすればこう動くようになると何度も、その快感を味わっていたのかもしれません。

 そして、弱気になっているイエス様を本気にさせようと秘密裏に計画を立てていたのです。それが、祭司長たちにイエス様を売るということでした。敵を目の前にすれば、いくら弱気なイエス様でも、本気になるだろうと、実際に自分が敵に捕まれば、自分の十字架を目の前にすれば、本気になるだろうと考えたのです。自分が1人で計画し、もし、後で分かったとしても、弟子たちに、イエス様を本気にするためだったといえば納得してもらえると考えたのです。ユダは本気でした。本気でイエス様のことを信じていました。そして、裏切りの場面ですが、ユダは敵をたくさん連れて、イエス様を捕まえるためにやってきました。イエス様に近寄り、接吻します。それは、ユダのイエス様に対する思いが実現するはずでした。「イエス様、もう弱気でいることはできません。今や本気の力を発揮してください。この者どもらをやっつけてください。あなたならできるはずです。今、私に見せてください」と。

 しかし、イエス様は自ら逮捕されてしまうのです。ユダの計画は失敗してしまうことになります。この時に、ユダはどんな思いでいたのでしょうか。マタイはこの点について沈黙しています。ユダがどのような思いだったのかを書いていません。そして、今日の聖書の箇所になるのです。イエス様に有罪の判決が出ました。十字架刑が決まったのです。結果的に、ユダは自分の計画が、イエス様を裏切ってしまったことを知るのです。深く後悔しています。何と、祭司長たちからもらった銀貨30枚を返しに行くのです。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と、いっています。当然のように祭司長たちは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」というのです。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んでしまったのです。

 ユダは自分の犯した大きな罪を、自分自身で負ってしまいました。ユダを見ていると、人間の弱さがよく出ていると思います。自分のことを自分で決めてしまうのです。かつて、私は、ユダのような思いになったことがあります。一歩間違えば、私は死んでしたのかもしれません。自分が今、生きているのは、神の憐れみなのだと思います。友人の死から、学校に行けなくなり、家に引きこもり、自分の中に閉じこもり、完全なうつ状態でした。それが今では、瀬戸永泉教会の牧師として、この場で、み言葉を語ることが許されている奇跡です。ユダの死を思う時に、人の弱さを深く思います。

 自殺したユダは、その先どうなっていったのだろうと、ずっと考えていました。かつて、ある自殺者の葬儀をしたことがありました。若い人が自ら命を絶ってしまったのです。その時の、葬儀はとても辛いものでした。その時に与えられたみ言葉です。

1ペトロ3:19

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところに行って宣教されました。

1ペトロ4:6

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

 イエス様は十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目に墓の中からよみがえられました。実は、この3日間、よみにくだり、死んだ者に福音を語ってくださったというのです。すでに死んだ者です。イエス様を信じないで、死んだ者です。もちろん、自殺した者も含まれています。死んだ者にも、福音が告げ知らされているのです。イエス様は再臨されて、私たちが神の国に招かれた時に、そこで復活し、その者と会うことができるかもしれません。その可能性があるということです。希望はまだ残されているということです。神のみ言葉によって、私たちはどのような時でも、希望を持って歩んでいきたいと願います。

祈り 神よ。礼拝を守ることができましたことを心から感謝します。裏切ったユダのことをみてきました。死んでしまったユダのことを考えると胸が痛みます。それでも、あなたのみ言葉によって、希望を与えられました。感謝します。み言葉によって、私たちの歩みを強くし、どのような時でも希望を持って歩むことができるように、どうか守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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