12月24日の聖夜礼拝の内容です。

礼拝

聖夜礼拝説教     ルカ2:1~7「飼い葉桶に寝る主」     2022.12.24

 クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストの誕生日を祝う日です。クリスマスは、キリスト教の、教会のお祭りです。今日は、このイエス・キリストの誕生日について、聖書からお話をさせていただきます。今年は西暦2022年ですね。この西暦のもとになっているのが、イエス・キリストの誕生日です。イエス・キリストの誕生日を西暦元年としています。そうすると、イエス・キリストが生まれてから2022年経っているということになります。そのイエス・キリストの誕生の様子を書いているのが、ルカ2:1~7です。

 今から2000年前の話になります。日本の歴史では、まだ始まっていないのではないでしょうか。縄文時代、いや弥生時代でしょうか。そのくらい前の話です。今、イスラエルという国があることは知っていると思います。今、イスラエルとパレスチナと時々戦っているニュースがながれてきます。2000年前、ユダヤ人は、ここに住んでいました。当時は、ローマ帝国という強い国が世界を支配していました。ユダヤ人はローマ人によって支配されていました。皇帝アウグストゥスという名前が出てきます。ローマ皇帝です。このローマ皇帝が、ローマ帝国が支配しているすべての領土の住民に登録をするように命令を出しました。分りやすくいいますと、日本では5年ごとに国勢調査というのが行われていますが、それと同じです。その地方にどの位の人々が住んでいるのか調査をするのですが、もちろん、目的がありました。それは、兵士になれる数はどのくらいいるか、または、どのくらい税金を取ることができるかというものです。

 税金を取られる、一生懸命に働いて、その収入から税金として取られるわけです。その税金がやがて、自分達のために使われるとなれば、ある程度納得もできるでしょう。ところが、ローマ皇帝が支配地の住民から税金を取るのですから、ローマ帝国のためであって、自分達のところには還元されないのです。この住民登録は、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であると書かれてあります。住民登録は、強制的なものでした。誰もが、住民登録をしなければいけないのです。ユダヤ人もそれぞれ生まれ故郷に帰って、登録をしなければなりませんでした。私は茨城県出身ですので、この愛知県瀬戸市から、茨城県に帰って、登録することになります。仕事を休んで、それも旅をしなければなりません。その住民登録も、ローマ帝国のために税金を払うためにしなければならない、考えただけでも嫌ですね。

 イエス・キリストの両親となるヨセフとマリアが出てきます。彼らは、ガリラヤのナザレに住んでいました。それが、ユダヤのベツレヘムまで旅をしなければならないのです。ナザレからベツレヘムまで直線距離で約120キロあります。もちろんまっすぐということはありません。山あり谷ありの道をそれも徒歩で歩くことになります。どのくらいの日数がかかったのでしょうか。この住民登録、ユダヤ人にとって嫌なことでした。しかし、ヨセフとマリアにとっては、ある意味でよかったことでした。聖書の箇所に「身ごもっていた、いいなずけのマリア」という言葉が出てきます。「身ごもっていた」とは、このマリアは妊娠中であったということ、「いいなずけ」とは、婚約中であるということです。クリスマスの様子をマタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれてありますが、このような事情がありました。

ヨセフとマリアが住んでいたナザレは小さな村だったということです。そして、ヨセフとマリアは婚約中だったのです。この時のユダヤ人の結婚は、1年間の婚約期間があり、その後、結婚することになります。ヨセフとマリアは、この時まだ、結婚はしていません。結婚の約束をしているだけです。マリアは、結婚する前に、赤ちゃんを妊娠しているのです。聖書では、これは神の働きであるということですが、冷静にみると、とんでもないことでした。ヨセフとマリアは、この妊娠は神の働きであると理解していますが、周りの目があります。そのままナザレにいると、そのことが周りの人々にばれてしまうことになります。ユダヤ人は厳しい教えを持っていて、このような妊娠は死刑にあたるものでした。

 このローマ皇帝の人口調査によって、ナザレから離れることができるのです。ユダヤのベツレヘムまでの厳しい旅ですが、周りの目から逃げることができました。多くの時間がかかってナザレに戻ってくるときには、3人になっていても、不思議に思う人はいないでしょう。

 ヨセフとマリアの旅は、マリアが妊娠中ということもあって、ゆっくりとした旅になったと考えられます。やっとベツレヘムに着きました。しかし、多くの人々がベツレヘムにやって来ていたのです。問題は宿泊する場所です。ここに宿屋とありますが、これは私たちが考えるホテルや旅館ではありません。普通の民家です。普通の家です。ふだん、人が住んでいる家、その家の開いている場所に宿泊することになります。ベツレヘムの宿屋にはすでに多くの人々がいて、ヨセフとマリアの場所はなかったとあります。ふつうに、人が住んでいる場所に、ヨセフとマリアの居場所はなかったのです。やっと見つけた場所は家畜小屋だったのです。よく馬小屋といわれます。

 近くに愛知牧場があり、そこには馬が飼われています。馬小屋とはどのような場所か、想像することができます。正直のも快適な場所ということは困難です。匂いも気になります。でも、ヨセフとマリアにすれば、夜露をしのぐことはできる場所でした。その馬小屋で、マリアは赤ちゃんを出産するのです。それが、イエス・キリストの誕生ということになります。イエス・キリストは生まれて、布にくるまれて飼い葉桶の上に寝かせられています。馬のえさの飼い葉桶の上で眠るのです。聖書は、「宿屋には彼らの泊まる場所はなかったからである」と書いています。クリスマスは、イエス・キリストの誕生は、人のいる宿屋ではないと所で生まれたということです。イエスが生まれた場所が、宿屋ではなく、馬小屋だったということは、イエス・キリストのいる場所は、馬小屋だったということです。人間のいる場所ではなかったということです。よく「居場所」という言葉を聞きます。自分が安心して過ごすことができる場所です。自分が安心して眠ることができる場所ということもできるでしょう。

 私は以前、学校の教師をしていました。中高生を教えていました。彼らにも多くの悩みを抱えていました。自分を嫌いだというのです。自分はダメな人間で、生きる価値はない、どうして、私はここに生まれて来たのだろう。どうして、ここにいるのか、できれば消えないというのです。安心して過ごすことのできないのです。家は安心していることができない場所でした。いる居場所がないのです。マザー・テレサという人が次のような言葉をいっています。「この世の最大の不幸は、戦争や貧困ではありません。人から見放され、自分は誰からも必要とされていないと感じることです」と。自分は誰からも必要とされていないと感じる孤独感だといいます。本当にそうだなあと私は感じています。イエス・キリストの誕生した場所が、馬小屋だったという意味は、まさしく私たちの所に来て下さったということです。

 クリスマス、イエス・キリストの誕生を祝う時です。クリスマスを祝う意味は、神の子であるイエス・キリストが、私たちのいる場所に来て下さったということです。私たちが日常生活で味わうすべての苦しみや悲しみを味わってくださるということです。それは、私たちを救うために、この世界に来て下さったということです。飼い葉桶は、私たちの心の場所を表現しています。そこにイエス・キリストは来て下ったのです。私たちの救い主として、お生まれになったのです。イエス・キリストの誕生日を心からお祝いしましょう。

祈り 神よ。聖夜礼拝をこのように行うことができました。今から約2000年前に、最初のクリスマスがありました。ヨセフとマリア、馬小屋にいて、イエス様がお生まれになりました。私たちの救い主が、人のいる宿屋ではなく、家畜のいる家畜小屋でお生まれになった。イエス様はお生まれになって、家畜のえさである飼い葉桶の上で寝ておられます。神の子は、ここでお生まれになりました。それは、やがて十字架を指すことになっていきます。神の救いの業であるクリスマスを心から祝うことができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

コメント