6月18日の礼拝の内容です。讃美歌は、411.507.544.579.26です。
礼拝説教 使徒2:37~42「大いに心をうたれて」 2023.6.18
新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この神への礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがよりよいものでありますようと祈ります。
使徒言行録を読んでいます。イエス様は十字架にかかってくださり死なれ、墓に葬られ、3日後に復活してくださいました。復活されたイエス様は、弟子たちにその姿を現し、40日間共に過ごされました。そして、神のみもとに帰って行かれたのです。そして、10日後、神のもとから聖霊が下ったのです。弟子たちのもとにです。弟子たちは変りました。いや、変えられたのです。聖霊の働きによって、弟子たちに、イエス・キリストの十字架の意味、罪の贖い、復活のことを理解することができるようにしてくださったのです。使徒言行録の2章は、聖霊降臨のこととペトロの説教がいわれています。ペトロは説教の最後に、聞いているイスラエルの人々に、あなたがたはっきりと知らなければなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです、といっています。
そして、次からが今日の聖書の内容となります。ペトロの説教を聞いたイスラエルの人々は、大いに心を打たれたとあります。今日の説教題もここから取らせていただきました。「大いに心をうたれて」です。どうして、イスラエルの人々はペトロの説教を聞いて、大いに心をうたれたのでしょうか。実際に、ペトロの説教を聞いていた人々は、イエス・キリストの十字架の場面を見ていたのです。そして、人々の中には、イエス様を十字架へと導いた人々がいたのです。神はご計画の通りに、イエス様をあなたがたに引き渡された。あなたがたはローマ人の手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。そして、神の恵みによって、あなたがたが十字架につけて殺したイエス様を、神はメシアとされたのです。救い主とされたということです。神の子を十字架につけて殺してしまうという大きな罪を、神は、すべての人々の罪の赦しとしてくださった。罪の贖いとしてくださったということです。この人の罪の赦しという神の救いの業が完成したというのです。
大いに心をうたれた人々は、ペトロに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらいいのですか」と聞いています。するとペトロは人々に「悔い改めなさい。1人1人、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪の赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答えています。更に「この神の救いの約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者なら誰でも、与えられるものなのです」といいます。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3000人ほどが仲間に加わったとあります。このようにして、教会の歩みはスタートしました。
使徒言行録は、聖霊が下ったことにより、本格的な教会の歩みが始まっていく様子を生き生きと描いています。ペトロの大きな変化があり、ペトロの説教によって、1日だけで3000人の仲間が加わっていったのですが、ペトロが人々に「悔い改めなさい」といいました。その悔い改めるの意味を、このペトロの経験を通して考えていきたいと思います。ペトロは、イエス様に従っていた弟子の1人でした。実は、イエス様に従うということでしたが、背後にはペトロの思いが強くあったのです。それは、イエス様についていけば、イスラエルの国を再興できるというものでした。当時、イスラエルの人々はローマ人に支配されていたのです。ローマ人と戦争して勝利し、イスラエルの国を建てるというものでした。イエス様がガリラヤからエルサレムを目指して歩みを始めた時に、初めて受難予告をした時に、ペトロによっては絶対あってはならないことでした。イエス様は、自分はこれからエルサレムに行って、多くの人々から苦しみを受けて、十字架につけて殺される、その後3日目に復活するといったのです。イエス様が十字架につけられて殺されることは、ペトロのイスラエル国家の樹立の願いを打ち砕くことでした。
エルサレムに入って、過越しの食事の時に、イエス様は弟子たちに、裏切りのことを話しました。すると、ペトロはすぐに打ち消して、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」といいました。イエス様は「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしのことを知らないというだろう」とペトロにいいます。ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」と答えています。ゲッセマネの祈りが終り、裏切ったユダが多くの敵を連れて来た時に、ペトロは剣を持って、敵に切りかかっていったのです。それを、イエス様に止められてしまいました。ペトロはどうしていいのか分からず、その場から逃げてしまうのでした。イエス様は逮捕されて、大祭司の家に連れて行かれます。ペトロもその後を追いかけて、大祭司の家の中庭に行きます。そこで、周りの人々から、あなたはイエス様の仲間ではないのかと問われ、強く否定していきます。それが3度ありました。その時に、鶏が鳴くのです。イエス様にいわれた言葉「あなたは鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないという」ことを思い出し、外に出て激しく泣くのです。
ペトロは、この体験を通して、自分の弱さを知るのです。自分がいったことができなかったということです。イエス様のことを知らないなどということは絶対にないといったことが、実は、知らないといってしまったのです。そのことを前に、イエス様からいわれていたのです。ペトロは自分の弱さに気づき、そして、自分の弱さを知っていたイエス様に気づいたのです。自分の弱さを知り、弱さを受け入れてくださっていたこと、ペトロは外に出て激しく泣くことができたのです。
ペトロは失意の内に、故郷のガリラヤに戻っていました。また、漁師としての生活を再スタートしていました。そこに復活されたイエス様が姿を現してくださり、ペトロに声をかけています。イエス様がペトロに「ペトロよ。わたしのことを愛しているか」と聞かれるのです。するとペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがよくご存じです」と答えます。また、イエス様はペトロに「ペトロよ。あなたはわたしを愛しているか」と聞きます。ペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがよくご存じです」と答えています。更に、イエス様がペトロに「ペトロよ。あなたはわたしを愛しているか」と聞いています。3度も聞かれて、ペトロは悲しくなったと書いてあります。それでも、ペトロは、「はい主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがよくご存じです」と答えているのです。最後に、イエス様はペトロに「わたしに従って来なさい」といわれています。ここで、ペトロは、イエス様にゆるされて弟子として再出発することができたといわれています。その後のことは、ここまで使徒言行録が書いているとおりです。
聖霊の働きが最も大きいのですが、このペトロの行動と変化から、「悔い改める」ことの意味をよく知ることができると思います。一般的に「悔い改める」の意味は、自分の悪い行動を止めて、正しい行動をすると考えると思います。例をあげてみると、人と会うのに10分遅刻してしまった。相手に迷惑をかけてしまったので、今度、人と会う約束をした時には、早く家を出るようにするということなどです。
しかし、聖書のいう「悔い改める」というのは違います。生きる方向性が違うのです。ペトロを考えてみると、自分中心に生きていたことを神中心に生きていくということです。神に従って生きていくということ、イエス様を中心に生きていくということです。ペトロはイエス様との関りで多くの失敗を重ねてきました。それでも、イエス様はペトロの共に歩んでくださいました。弱いペトロと共に歩んでくださったイエス様、イエス様はペトロを伝道者として、使徒言行録の中で、大胆に立たせてくださっています。
私は今、瀬戸永泉教会の牧師として、この場に立ち、説教を語っています。伝道者としての歩みを振り返ってみると、何ともいえないものがあります。自分の弱さや愚かさを思います。高校1年生のクリスマスの時、教会に行って2日目ですが、洗礼を受けました。その時は、何も分かっていなかったのです。いいかげんだったと思います。それが今、この場にいる、説教させていただいている。本当に奇跡です。神が私と共に歩んでくださっている。だから、伝道者としての歩みをすることが許されていると思っています。神は、私たち1人1人と共に歩んでくださっているのです。神に感謝しましょう。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ペトロのことを通して、悔い改めることの意味を考えてきました。自分中心の歩みから、神中心の歩みに変っていくことです。人生の歩みの中でいろいろなことが起ってきます。自分の弱さや愚かさを感じることがあります。それでも、神は私と共にいて下さり、守り導いて来てくださいました。深く感謝します。神に支えられるとこと、守られていることも気づき、そのことを忘れることがありませんように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
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