6月23日の礼拝の内容です。

body of water during golden hour 礼拝
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6月23日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.194.197.280.91(1)です。

礼拝説教     使徒10:1~8「コルネリウスの祈りと施し」    2024.6.23

 皆さんは、映画や演劇などを見に行くことはあるでしょうか。目の前の舞台の垂れ幕が開いて行きます。そして、映画や演劇などが始まっていきます。目の前の垂れ幕が開いて、これから何が始まるのだろうと期待してドキドキしますよね。今日の聖書の箇所は、そのような内容となっています。いったい、何が始まろうとしているのでしょうか。

 使徒言行録は、初めての教会の歩みを書いています。最初のキリスト教の歩みということになります。聖霊を受けたイエス様の弟子たちが、大きな力を得て、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。エルサレムから始まったキリスト教は全世界に広がっていきます。

使徒1:8

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 このイエス・キリストの言葉が、使徒言行録の中で、展開をしていきます。今日の聖書は、ローマの百人隊長のコルネリウスがペトロによって、イエス・キリストの福音が伝えられて、洗礼を受けて、キリスト者になることの始まりのことが書かれてあります。神の救いはユダヤ人だけのものだと考えられていました。それが、異邦人にも伝えられていくというものです。大きな展開になっていきます。

 その前に、旧約聖書から新約聖書の流れの中で、大きな展開があったのものがありました。そのことをまず確認していきたいと思います。4つの福音書の中で、イエス・キリストの十字架の場面が書かれてあります。イエス・キリストが十字架につけられます。そこで苦しみ、やがて死を迎えます。その時に大きな出来事がありました。それは、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ27:51)です。旧約聖書の最初のころに、幕屋というのが造られました。それは、神と人々が出会う場所でした。神が人に幕屋を造れと命じて造られたものです。幕屋の中で、大切な部分がありました。それが聖所というものです。聖なる場所ということです。聖所の奥には至聖所というのがありました。ここには、神の契約の箱が置かれていました。幕屋の中で、一番大切な部分です。この聖所と至聖所の間に大きな幕がありました。つまり、この大きな幕をくぐらなければ至聖所に行くことはできないというのです。至聖所は大祭司が1年に一度だけ、大贖罪日だけに入ることが許された場所です。大祭司は至聖所で、イスラエルの人々の罪の贖いをするのです。

 至聖所と聖所の間にある大きな幕は、神と人とを隔てる幕ということができます。神は聖なる方であり、罪深い人間は直接に会うことが許されていませんでした。神と人間を隔てる大きな幕が、イエス・キリストの十字架の時に、上から下まで二つに裂けたというのは、神と人間を隔てていた壁がなくなったということを意味しています。イエス・キリストの十字架はそのような神と人間を隔てる壁を取り除いてくださったのです。

 そして、今日の聖書の箇所です。旧約聖書の中で、神の救いはユダヤ人だけに与えられるものだと理解されています。イスラエルの人々にです。イエス・キリストはユダヤ人でした。イエス様も最初は、神の救いはユダヤ人だけに与えられるといっていました。それが、イエス・キリストの十字架を経て、ここから大きく展開していきます。それまでの理解を破って、新しい理解になっていくのです。そのことを始めるのが、神の天使です。言い換えれば神であり、聖霊ということができます。

 カイサリアという場所があります。ここは地中海に面した港町です。ローマ帝国のユダヤ地方の拠点になっていた町です。ここにはローマ軍の駐屯地がありました。ここにコルネリウスという人がいたのです。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でした。イタリア隊と呼ばれるのですから、イタリア人が中心の部隊だったと考えられます。百人隊長コルネリウスですが、信仰心があつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたとあります。聖書の出て来る百人隊長はすべてが教会に対して好意的であるように思います。コルネリウスは個人だけではなく、家族そろって、神への信仰があったのです。神の教えに基づいて、祈りと施しを行っています。ユダヤ教徒?ということができると思います。

 ある日の午後3時ごろです。ちょうど午後の祈りの時間です。コルネリウスも神に祈りをしていた時でしょう。神の天使が入って来て、「コルネリウス」と呼びかけるのを、コルネリウスは幻ではっきりと見たのです。コルネリウスは天使を見つめていたが怖くなって「主よ、何でしょうか」といっています。すると天使は「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」というのです。天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは2人の召使と、側近の部下で信仰心のあつい1人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送るのです。このように神の天使が話を進めていきます。この後、ペトロがコルネリウスの所に行き、イエス・キリストの福音を語り、コルネリウスと多くの者が信じて、洗礼を受けて、教会に加わっていくのです。異邦人へのキリスト教の伝道が始まっていきます。

 神は、ペトロに次のような幻を示します。ペトロはヤッファの町にいました。祈るために屋上に上がりました。昼の12時ごろだったとあります。ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思っています。人々が食事の準備している時でした。ペトロは祈りながら、家の下からいい匂いを嗅いだのでしょう。おなかが空いたと思っていたのです。その時の幻です。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見るのです。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。旧約聖書では、清いものと汚れたものという区別がなされていました。これは食べてもよいものと食べてはいけないものというものになります。汚れたもの、食べてはならないものを、天からの声は「ペトロよ、これを屠って食べなさい」といいます。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えています。ユダヤ人とすれば当然のことでした。しかし、神の声は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたはいってはならない」というのです。このようなことが三度起ったとあります。

 細かくはいいませんが、旧約聖書は、清くないもの、汚れたものはたべてはならないとしていました。なんと、ここで初めて、すべてのものが清いものだというのです。それも三度も同じようにいわれるのです。神の認識では、イエス・キリストの十字架によって、清くないもの、汚れたものという認識がなくなったということができます。それは、神の救いはユダヤ人だけではなく、異邦人にも与えられるという意味につながっていきます。それまであった常識がここでは大きく変っていきます。その変化は、神がなしていくのです。神が変えてくださるのです。神からの天使、または聖霊をということもできるでしょう。この大きな展開は、ユダヤ人も混乱します。その後でも、ユダヤ人からの大きな抵抗となっていきます。

 しかし、神は、そのように変えていかれるのです。神の御計画なのです。神の救いの計画は、ユダヤ人から始まって、ついには異邦人へと伝えられていく、つまり、世界のすべての人々へと伝えられていくのです。それはユダヤ人や異邦人の思いを越えて、神ご自身がそのように計画し、実行してくださるということです。神の御心なのです。使徒言行録はペトロによって、ローマ人のコルネリウスとその家族と仲間、そしてパウロの登場、パウロによる異邦人伝道が本格化していきます。神が計画されていたことが、聖霊を通して、人が用いられて、展開していきます。その流れの中に、私たち瀬戸永泉教会の伝道もあります。神は、すべての人々へ、神の救いの福音を伝えたいと願っています。神は、私たちの教会を、私たちを用いてくださいます。瀬戸の地域の人々へ、神の救いの出来事を伝えていくのです。神は私たち1人一人の働きを期待されています。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。異邦人であるローマの百卒長であるコルネリウスへの伝道の働きをみてきました。神は、その御心によって、救いのご計画を進めていこうとされます。感謝します。神の御心をしっかりと受け止め、その計画に参与することができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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