6月30日の礼拝の内容です。

礼拝

6月30日の礼拝の内容です。讃美歌は、24.536.208.461.91(1)です。

6月30日の礼拝  列王記上17:17~24「この叫びを神は聞く」(小椋実央牧師) 2024.6.30

6月の第四主日を迎えました。前々回からエリヤの物語を読み始めて、今日が3回目になります。預言者の中の預言者、エリヤの物語から、主に従って歩む道をたずね求めてみたいと思っています。列王記上17章には3つの話がおさめられています。最初はエリヤがカラスに養われるという話。ふたつめはエリヤの奇跡によってサレプタのやもめとその息子が命拾いをして、そのやもめにエリヤが養われるという話。そしてみっつめが、やもめの息子をエリヤがよみがえらせるという話。全て命にまつわる話です。最初の二つは、「主の言葉がエリヤに臨んだ」とあって、神が語り、エリヤが従った。神が語ったとおりになった、という一つの形をなしています。しかし今日お読みした箇所では、「主の言葉がエリヤに臨んだ」というお決まりの文章が出てきません。神がエリヤにやもめの息子をよみがえらせるように命じたわけではなく、また息子がよみがえった後も、「主の言葉がエリヤに臨む」ということがおきません。神さまの言葉は何も出てこないのです。

となるとすれば、この3つめのお話は最初の2つとは違うのか。神のご意思というのはなくて、全てエリヤが勝手にやったことなのか。ここでは神の言葉は語られていないのでしょうか。確かに「神はこう語った」という文章は出てきません。しかしエリヤの行いを通して、やもめの息子をいやすという行為を通して神の言葉は語られています。預言者は、神の言葉を世の人々に取り次ぐ務めがあります。これは預言者という言葉を教会に置き換えることができます。教会は神の言葉を世の人々に取り次ぐ務めがあります。そして本日の箇所から分かることは、必ずしも言葉を介して神の言葉が伝えられるわけではない、ということです。エリヤが子どもの上に身を重ねて祈ったように、私たちの祈りや行い、日常生活を通して神の言葉が世に語られることもあります。エリヤの口ではなくエリヤの行いを通して語られた神の言葉、何百人、何千人という大観衆を前にしてではなく、ただ一人の異邦人の女のために語られた神の言葉を、ご一緒にひも解いて参りたいと思います。

少し前回のお話と重なってしまうのですが、ケリトの川のほとりでカラスに養われていたエリヤは、神さまのご命令によってサレプタのやもめを訪ねます。このやもめにあなたを養わせる、というのがエリヤに与えられたみ言葉でした。ところがサレプタのやもめを訪ねてみると、やもめはエリヤを養うどころか食べるものが何もなく、餓死寸前の有様でした。エリヤの奇跡によってやもめと息子は命拾いをして、このやもめによってエリヤは何年か養われるのです。とうてい、人を養うことなどできないような一人のやもめを用いて、しかし神さまはエリヤの命を守るのです。能力があるから神さまに用いられるのではなくて、神さまによって召し出されるから、必要な力が私たちに与えられるということを聖書は繰り返し教えてくれます。さて、エリヤの奇跡によってやもめの家の壺の粉は、つかってもつかっても減ることがありませんでした。18章の冒頭を見ますと、この飢饉は3年続いたようでありまして、その間壺の粉も瓶の油もなくならず、やもめと息子、そしてエリヤは生き延びることができたのです。

しかし、次なる悲劇がやもめと息子に襲い掛かります。息子が重い病気にかかり、治ることなく、ついに息を引き取ってしまうのです。このことは息子を失う悲しみだけでなくて、男性優位な社会にあって息子を失うということは、法律上の後ろ盾がなくなって、やもめ自身の命が全く保証されなくなることを意味しています。誰かの娘、誰かの妻、誰かの母でなければ、女性が一人で生きていくのは難しいのです。やもめは思いました。何故、あのパンさえも食べることができなかった時に息子と一緒に死んでしまうのではなくて、一度は助けられ、しかし息子が死ぬという悲劇に私が立ち会わなければならないのだろうか。一体なんのために私は命拾いをしたのだろうか。息子の死を見届けるためだけに命を長引かせたのだとしたら、こんな不幸なことがあるだろうか。やもめは思いをエリヤにぶつけます。「神の人よ、あなたはわたしのどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」

先ほど、3年飢饉が続いている、と申し上げました。かつては食糧が底をつき、エリヤによって助けられ、その助けは一回きりではなくてこの3年の間継続していたのです。つまり息子が死んでも尚、食糧は潤沢であって、やもめの命は守られ続けているのです。私たちは悲劇に直面した時、それ他の恵みには全く無関心になってしまいます。何もかも神さまに奪い取られたかのように錯覚をしてしまいます。私たちはいついかなる時も、神さまの恵みを数えることを忘れずにいたいと思います。順風満帆の時に神さまの恵みを数えることはそれほど難しいことではありません。しかしそうではないときに、うまくいかない、苦しいと感じている時に自分に与えられている恵みを数えることは誰にでもできることではありません。とても難しいのです。日常的に神さまの恵みを数える訓練がなされていなければ、非常時にとてもではありませんが、神さまの恵みなど数えることはできないと思うのです。とは言うものの、恵みを数えようが数えまいが、やもめの悲しみが目減りするわけではありません。息子が死の床に横たわってる、というのは動かしがたい事実なのです。わが子を失う苦しさは、その苦しみを、たとえ夫婦であっても、親子であっても、長年の友人であっても100パーセントぴったりと共有することができない、というところにあります。わが子を失った悲しみに追い打ちをかけるように、この私の孤独を、この地上の誰とも分かち合うことができないという孤独が襲うのです。

インターネット上には、愛する者を失った人が集う場所、というのがいくつか存在しています。長年連れ添った伴侶に先立たれた人が集まる場所、或いはこのやもめのようにわが子を天に送った後に、その悲しみをいやす場所として、様々な場所が提供されています。勿論、実際に集まって、このように顔と顔を合わせて、お互いに語り合う場所というのがないわけではありませんが、インターネット上のほうが身分を名乗らずに顔を見られずに参加しやすい。ハンカチで涙をおさえながらキーボードを打つこともできるのです。また遠方であっても、北海道と沖縄の方がほんの数分で出会うことができます。途中でやめたくなったら、簡単にやめることもできます。たった一人で悲しみを癒すほうがよい、という人もいます。一方でこのように大勢に慰められて、悲しみを吐き出すことによって癒される、という人もいます。

私もかつて、インターネット上をさ迷い歩いて、おそらく個人が運営しているであろう小さなHPにたどりついたことがあります。幼い子どもをなくした母親たちが集まる場所でした。そこでたくさんの事例を読むうちに驚いたのは、実に多くの隣人が何食わぬ顔で日常生活を送りながら、その裏で悲しみを抱えている、ということ。仕事をしながら、他の兄弟の子育てをしながら、友人や親せきづきあい、親の介護をしながら、しかし時折このHPを訪ねて終わることのない悲しみと向き合うのです。そこには、まるで自分が書き込んだのかと錯覚するぐらい、年齢も、おかれた環境も事例も似たような人がいて、あぁ、この人もこうやって頑張っているのだから、私も頑張ろうと思ったりするのです。この人が立ち直れたのだから、私もきっと立ち直れるはずだ、と思ったりするのです。そのHPは子どもを失った母親、という一つの共通項で結ばれていました。情報量が膨大にあるので、探していくうちに、自分とかなり近い事例をみつけることができます。そこに一つの希望のともし火を見出すのです。

しかし当たり前のことですが、どれだけ似た事例であっても、完全に同じというものは一つもありません。子どもが長く生きたのか、生まれたばかりだったのか。事故だったのか、病気だったのか、何一つ同じものはありません。誰一人として同じ人間が存在しないのと同じように、誰一人として同じ死は存在しません。そこでまたふりだしに戻るのです。この私の苦しみを、この私の悲しみを共有することができる人はこの地上には一人もいないのだ、という孤独です。この子どもは、他の誰とも違うたった一つの人生を、たった一つの命の輝きを私に見せてくれたのだと。この私が、たった一つの小さな命に立ち会うことを、神さまが求めてくださって、神さまはこの私にゆだねてくださったのだと、やもめがそう思えるようになるまでには、もっともっと、長い年月が必要でした。

やもめは長い苦しみのほんの入り口のところに立っていました。自分に何が起こっているのか、よく分からない有様でした。そして最も身近な相手、エリヤがこの思いを共有してくれないばかりか、助けてもくれなかったことが不満でした。かつてエリヤは自分と息子を飢饉から救ってくれたのです。今もやもめはその救いのうちに置かれていて、息子が死の床にあっても、やはり壺の粉は尽きず、瓶の油は尽きないのです。しかしその恵みはとうの昔に忘れ去っていました。それどころか、その恵みを疎ましく感じたのです。「あなたは、わたしの息子を死なせるために来られたのですか。」息子の死という辛さを味わわせるために、あなたは私と息子を飢饉から救ったのか、とエリヤに怒りをぶつけます。冷静な判断を失っています。エリヤが私と共に苦しんでくれない、私の悲しみを理解してくれない、という怒りにとりつかれています。

エリヤはとりあげるようにして、やもめの息子を抱き上げて、自分の部屋につれていきます。20節の主に向かって祈った、という言葉は直訳すると「主に叫んで言った」になります。とても強い表現です。彼は主に叫んで祈った。「主よ、わが神よ、あなたはわたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。21節も同じです。主に叫んで言った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」さきほど、やもめがエリヤに怒りをぶつけましたが、今度はエリヤが神さまに怒りをぶつけるのです。礼拝で祈られるような、整った祈りではありません。行き当たりばったりの、乱暴な祈りです。こういう祈りもあるのです。こういう祈りがあってもいいのだと思います。神さまの前で気持ちを整えて、言葉を整えることも大事なことですが、神さまに思いのままに体ごとぶつかっていく。そういう祈りがあってもいいのだと思います。

エリヤはこの時、やもめの息子の上に三度身を重ねたとあります。身を重ねる、ということに特に意味はないそうです。どちらかというと、エリヤが必死のあまりにそうしたのかもしれません。次回読むことになる18章には、バアルの預言者とエリヤが対決をする、という有名な場面があります。この時、エリヤの祈りによって神が応えて、ささげものを焼き尽くします。一方バアルの預言者たちは火を呼ぶためにとんだりはねたりして祈るのです。バアルの預言者たちのほうが必死になって、大騒ぎをして祈るのです。本日の箇所はまるで正反対です。18章のバアルの預言者のように、エリヤは何度も叫び、やらなくてもよいのに三回も子どもの上によじのぼって身を重ねるのです。しかもやもめが見ているわけではありません。ここはエリヤの個室なのです。やもめに一生懸命祈っているように見せかけるためにやっているのではありません。ただ祈ることに必死で、やらなくてもいいようなことまでエリヤはやっているのです。おそらく、エリヤはじっと座って祈っていることができなかったのだと思います。言葉だけではなくて、何か行動せずにはいられなかった。子どもに身を重ねることがなんの意味もないのに、やらずにはいられなかったのです。

この時、結果としてエリヤとやもめは同じ気持ちになりました。同じ思いを共有しました。神さま、なぜあなたは息子の命をとりあげるのですか、という怒りを、エリヤとやもめは同じくすることができました。おそらくエリヤはやもめの気持ちを理解したい、と思っていたわけではないと思います。きっかけはやもめの言葉だったかもしれませんが、エリヤは神への怒りに燃えていました。だからこそ、ぶしつけな祈りになったのです。エリヤの怒りが、神にむかって叫ぶ祈りになりました。ここで祈っているのはエリヤ一人ですが、一階にいるやもめの嘆きと、エリヤの祈りが一つになって天に届きます。主はエリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。エリヤの祈りに応えて、神さまは子どもをよみがえらせてくださるのです。

「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」イエスさまもこのように語っています。

一階で悲しみにくれるやもめと、二階で必死に祈るエリヤの祈りは一つの祈りとなって神に聞かれます。神は耳を傾け、その祈りを聞き、息子の命を元にお返しになります。本日の箇所には「主の言葉がエリヤに臨んだ」という文章がない、ということを申し上げました。しかしエリヤの祈りに対する答えが、息子の命をお返しになったということが、主の言葉がエリヤに臨んだ、と読み替えて差し支えないと思います。言い換えるなら、この叫ぶようなまとまりのない祈りを神はお聞きになって、お応えになる、ということです。やもめの家の二階、一室で、神の言葉は臨むのです。かたや、なん百人という大観衆の前で、かたや、たった一人のために神の言葉は与えられるのです。聖書を読むたびにふつふつとわいてくる疑問のひとつは、このような奇跡が、つまり死人がよみがえるというようなことが現代も行われるのか、ということです。確かにイエスさまは信仰があれば山にむかって海にとびこめと命じたらそうなるともおっしゃっています。信仰さえあれば不可能なことは何もない、そう読むこともできます。事実、そのような奇跡を大事にしている教会もある、ということを神学校時代の友人から聞いたことがあります。自分はそういう教会で育てられたんだ、という話を聞いたことがあります。ですから一概に否定するつもりはありませんが、残念ながら、という言い方が正しいのかどうかはわかりませんが、私自身にはそのような奇跡を行う力はないのではないかと思っています。勿論愛する人がよみがえったり、病気の方を癒すことができたらいいだろうとは思いますが、1人の人間が教会の門をくぐって、信仰を持つようになる、そのこともまた大きな奇跡だと私は思っています。復活された主イエスは、あなたがたは行って死人をよみがえせ、病人を癒しなさいと命じられたのなら、教会はそのことに勢力を注がなければなりませんが、あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさいと命じられているので、やはりそのことに一番力を入れたいと思うのです。

そして、何故奇跡というものが存在するのか。何故イエスさまが病人を癒したり、エリヤがやもめの息子をよみがえらせたりするのかと言えば答えはただ一つ、そこに神の力があらわされるためです。私が有名になるためでもなく、教会を宣伝するためでもなく、神の力があらわされるために奇跡はあるのです。だとするならば、神の力はもうすでに2000年前、エルサレムの郊外で示されました。十字架におかかりになって死んだはずの御子イエス・キリストを三日目によみがえらせた。これ以上の奇跡が、この地上のどこにも起こるはずがありません。ですから私たちは、これから奇跡があるのかどうかとやきもきする必要はありません。すでに最大の奇跡を起こしてくださっている神さまを信頼して、私たちの命もそして死も、このお方に支えられていることを信頼して思いのたけをぶつけて祈ることができるのです。愛する者を失う悲しみは、誰とも分かち合うことができなくとも、このお方だけは、神さまだけは私の心を、知っていてくださる。私の心を見ていてくださる。地上の誰かではなくて、神さまの元に私たちの慰めがあり、そして希望があるのです。

<祈り>ご在天の父なる神さま、不満の多い私たちです。時にあなたを忘れてつぶやいてしまう私たちです。エリヤが心からあなたにむかって叫んだように、私たちにも同じような祈りを祈らせてください。気負わずに、飾らずに、失望せずに祈らせてください。祈ることを知らない隣人のためにも、隣人とひとつの心となって祈ることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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