7月21日の礼拝の内容です。

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7月21日の礼拝の内容です。讃美歌は、223(1)535.521.573.26です。

7月21日の礼拝説教  列王記上18:1~19「静かに戦う人」(小椋実央牧師) 2024.7.21

7月の第三主日を迎えました。梅雨が明けて、厳しい暑さの夏がやって参りました。そのような中にあって、一つところに集まって礼拝をささげる恵みに感謝したいと思います。月に1度、預言者エリヤの物語に耳を傾けています。本日が4回目になりました。預言者とは、言葉を預かる、という字を書きます。神の言葉を預かります。自分の好き勝手なことを語るわけではないのです。預言者は自分の意に添わなくても、神の言葉を取り次がなければなりません。たいていの場合、その預言というのは人々が聞きたくない言葉です。不信仰を、神さまを軽んじている有様に警告を発することが多いのです。ですからほとんどの預言者の言葉は民衆にはそっぽを向かれます。民衆に好かれる預言者というのはあまりいません。嫌われて、ひどい目にあわされる預言者がほとんどです。エリヤが活躍したのは紀元前9世紀頃、イエス・キリストよりもずっと前です。アハブというひどい王様がいました。神さまを信じている国であったのに、妻のイゼベルにそそのかされてバアルという別の宗教を持ち込んでいたのです。バアルという異なる宗教から離れるように、エリヤという預言者が神から送られました。神さまはエリヤの口を通して、神の言葉によらなければ、数年の間雨は一滴もふらない、ということをアハブ王に告げました。

少し遠回しな表現ではありますが、バアルを捨てて、神さまの言葉を信じなければ、あなた達は水を得ることができず、生きることができない。このままではあなた達は死んでしまうと警告したのです。事実このアハブ王がいたサマリアは飢饉にみまわれて、アハブ王は相当困ったはずです。本日の箇所には、アハブ王が水を探すだけではなくて、エリヤのことも必死に探し回った様子も記されています。エリヤさえ見つけ出せば、エリヤをどうにかすれば、雨を降らせることができる、そう思っていたに違いありません。しかしながら神の手によって、エリヤはアハブ王にはみつからないように隠されていました。初めはケリト川のほとりで、そして川に水が涸れ果ててしまうと、次はサレプタという場所でやもめの手によってエリヤは養われていました。やがてエリヤとアハブ王の直接対決の時が迫ってきます。有名なエリヤとバアルの預言者の対決です。その対決を手引きしたのが、アハブに仕えていた宮廷長のオバドヤです。

おそらく預言者であるエリヤよりもオバドヤのほうが、みなさんの共感を得やすいのではないかと私は想像しています。何故ならオバドヤという人物は、異教を信じる権力者に仕えながら、心のうちで強く信仰を持ち続けているのです。次々と不思議な奇跡を行って、1人で孤独に戦うエリヤよりも、世俗的な、異教的な世界に身を置きながら、しかしこつこつと自分の信仰を持ち続ける。みなさんが常に日頃から経験しておられることではないかと思うからです。エリヤという輝かしい預言者の生涯に比べると、オバドヤの登場はささやかな出来事にすぎないのかもしれません。しかし聖書にオバドヤの物語が書き留められている意味を問いながら、今日はこのオバドヤの物語に注目してみたいと思います。

「多くの日を重ねて三年目のこと、主の言葉がエリヤに臨んだ。「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」エリヤはアハブの前に姿を現すために出かけた。

3年が経過しました。エリヤがアハブの王にむかって干ばつを預言してから3年が過ぎました。エリヤは姿を現すために出かけます。エリヤの強い決意を感じます。エリヤの存在そのものが預言している。神の言葉を語っている。エリヤが神の言葉を伝えることに命をかけていることが分かります。オバドヤとの出会いの瞬間もこのように記されています。「オバドヤが道を歩いていると、エリヤが彼に会いに来た。」3年の間神の手によって隠されていたエリヤですが、もう隠れるつもりがないことが分かります。積極的に自らを明かそうとします。福音宣教、神の言葉を宣べ伝える時には、両極端な面があります。何年も息をひそめて、神に示されたその時を待ち続ける時があります。エリヤの例で言うと、川のほとりでカラスに養われたり、サレプタのやもめに養われていたのがその時です。一方で何者も恐れず、神の御力のみを信じて人前に立つ時があります。今がその時です。エリヤは一歩も後にひこうとはしません。

オバドヤは驚きました。オバドヤはエリヤがどんなことをしたのか知っていました。アハブ王に「神の言葉によらなければ雨は降らない」ということを語った後、3年もの間姿を隠していたのです。3年もたったのだから、この水不足、食糧不足の中で死んでいたとしてもおかしくはない。100人の預言者をかくまっていた、とありますから、その情報筋からエリヤが生きていることは聞いていたかもしれませんが、まさかエリヤが自分から出てくることはないと思っていたのでしょう。アハブ王がどこを探しても見つけることができなかったのです。生きていたとなれば、アハブ王がゆるすはずがありません。町という町、国という国の指導者に、「ここにはエリヤがいない」と誓わせていたのです。エリヤが生きていたとなれば、その誓いが嘘であった、ということになってしまいます。エリヤは自分のことをアハブ王に取り次いでくれ、とオバドヤに頼みます。しかしオバドヤはそれを拒みます。エリヤがいる、とアハブ王に伝えたところで、またエリヤを見失ってしまったら自分が殺されてしまうかもしれない。そんな危険なことはしたくない、と言うのです。アハブ王の近くで使えてきたオバドヤです。もしエリヤを取り逃がしたら、アハブ王が本当に自分を殺しかねないことを感じていたのでしょう。「わたしにどんな罪があって、あなたは私をアハブの手に渡し、殺そうとなさるのですか。」オバドヤのこの言葉は、オバドヤの率直な気持ちをあらわしていると思います。

主を畏れ敬う人と紹介されたオバドヤです。100人の預言者をイゼベルの手から守り、国家規模の飢饉の中、自らの食糧も十分でなかったはずなのにパンと水とで預言者たちを養ったオバドヤです。そのオバドヤの姿と、エリヤが見つからなかったら自分が殺されてしまうとおびえるオバドヤの姿は、矛盾しているように感じます。何故ならアハブ王の妻、イゼベルが主の預言者を切り殺すように命じていたにもかかわらず、それに逆らって預言者たちを守り抜いたことも、もし知られてしまったら殺されてもおかしくはない状況だったはずだからです。今になって急に命乞いをする、というのはどうもしっくりこないのです。アハブ王の妻、イゼベルを恐れていなかったオバドヤが、エリヤと会った途端死を恐れるようになったのはどういうわけか。それは、もしエリヤがいると言っておきながらエリヤを見失って見つけることができなかったら、アハブ王に嘘を言ったことになってしまう。忠実な家臣であるオバドヤは、異教を信じる王とはいえ、アハブ王を裏切ることになってしまうことに恐れを感じているのです。少し踏み込んだ言い方をすると、バアルを信仰するアハブ王に仕えながら、隠れて神を信じ続ける宮廷長としての自分というアイデンティティを失うことを恐れたのかもしれません。

少しはじめからお話を整理してみます。宮廷長のオバドヤは心から神を信じる人でした。たとえ自分の仕える主君が異教の神を信じていようとも、信仰を失わず、表面上は忠実に家臣としての務めを全うしてきたのです。アハブ王の妻、イゼベルが預言者たちを切り殺した時、神を信じるオバドヤは迷いなく救いの手を差し伸べました。預言者たちをかくまい、パンと水を与えて養い続けたのです。ある時、思いもかけずエリヤと出会います。オバドヤに押し寄せたのはとまどいです。このままではエリヤはアハブ王に殺されてしまうかもしれない。それなのにエリヤは自分のことをアハブ王に伝えに行け、と言う。オバドヤは一人も預言者を殺したくなかったのです。だから危険を顧みずにかくまったのです。ところがエリヤは自分から危険な場所に赴こうとしている。エリヤを死なせたくない、守りたいという思いがありました。そこには、もしエリヤを危険な目にあわせてしまったら、自分がこれまでやってきたことが無駄になってしまう、という怒りもありました。オバドヤは、オバドヤのやり方で主に従ってきたのです。預言者の命を守る、これがオバドヤの信仰のかたちだったのです。悪く言うとアハブ王をだまして、アハブ王に仕えているふりをしながら、内心はアハブ王とは違う宗教を信じ、神に従ってきたのです。オバドヤは要領よく立ち回ってきたからこそ、主君と異なる宗教を持ちながら、そのことを隠しながら、ここまで宮廷長の仕事を全うすることができたのです。

オバドヤはエリヤに言います。「イゼベルが主の預言者を殺したときにわたしがしたことを、あなたは知らされてはいないのですか。わたしは主の預言者百人を五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養いました。」オバドヤのしたことは間違ったことではなかったはずです。預言者を助けることは主の目に適うことでもあったでしょう。しかしともすれば美徳のようでもあり、1人よがりの信仰にもなりかねません。自分は神さまのためにこれだけのことをしている。そのことを誇りたくなる誘惑があります。オバドヤを目覚めさせるかのように、神さまはオバドヤとエリヤを出会わせます。何故ならエリヤはオバドヤを介さずに、アハブ王に直接会うことができたからです。17章のはじめの部分はそうでした。誰かが引き合わせてくれたのではなく、エリヤは唐突にアハブ王の前に姿をあらわすのです。今回もそうすることだったできたのです。しかしあえて、エリヤはオバドヤの前に姿を現しました。神がそのようにエリヤとオバドヤを引き合わせました。エリヤは、いや、神はオバドヤにゆさぶりをかけます。それはオバドヤが不信仰だからではありません。オバドヤが主を畏れ敬う人だからこそ、その信仰を刷新するためにエリヤが送り込まれたのです。神さまはオバドヤをあきらめてはいない。むしろオバドヤに期待をして、エリヤを通じてご自身をあらわすのです。

「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます。今日わたしはアハブの前に姿を現します。」もう私はどこにも逃げないというエリヤの言葉を聞いたオバドヤは、すっかり観念したようです。16節に「オバドヤはアハブに会って知らせた」とありますが、どのように知らせたかということも、その後どうなったか、ということも記されていません。おそらくこれまでのように表面上はアハブ王の忠実な家臣であり続けたことでしょう。しかし、このささやかなエリヤとのやりとりは、隠れて神さまに従い続けることが必ずしもいいわけではない、ということをあらわしています。初めにも申し上げたように、何年も息をひそめて信仰を持ち続けることが要求される時もある。けれども、信仰とは常に刷新されるものです。息をひそめることが求められたかと思えば、途端に人前に出ることを神さまに要求される時もあるのです。昨日と同じ聖書の箇所を開いても、昨日とは異なる意味になることがあります。昨日と同じ言葉で祈ったとしても、昨日とは異なる祈りになることがあります。生きた聖霊が働いてくださるがゆえに、信仰が昨日と全く同じ、ということにはならないと思います。

あれほどエリヤに抵抗していたオバドヤがすんなりとエリヤの言うことに従ったのは何故か。オバドヤはエリヤのこの言葉にうながされたに違いありません。「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます。」万軍の主とは、戦いで勝利をもたらす神、という意味なのだそうです。オバドヤは、私が戦わなくても神が戦ってくださる、ということに気づいたのではないでしょうか。オバドヤが守ってあげなくても、神ご自身が戦って勝利してくださる。神がエリヤを勝利させてくださる。そのことがオバドヤはすんなりと理解できたのではないでしょうか。ここに集われる多くの方が大小さまざまな信仰の戦いのさなかにあることと思います。そして多くの方が、アハブ王とは言わないまでも、異なる宗教を持つ両親や会社の上司、同僚、または自分の伴侶や子どもに仕えながら、心のうちでひそかに信仰を守り続ける、そのようなご経験がおありかと思います。そして時には自らの信仰の戦いを誇りたくなることがあります。ずっと隠し通しているのは誰だってしんどいものです。信仰を分かち合える相手だと思えるからこそ、話したくなる内容でもあるのです。私たちが戦い抜いた信仰の戦いを、ぞんぶんに受け止めてくださる方がおられます。私たちの話を一から十まで、全て知っておいでであっても、まるで初めて聞く話であるかのように聞いてくださる方がおられます。終わりの時、復活の主にまみえる時、私たちは主イエス・キリストの前で洗いざらいさらけ出すことになります。望むことも、望まないことも、主イエスの前ですべて明るみに出されます。

その時にようやく私たちは命の冠をいただくことになるのです。イエス・キリストに導かれて、御国へと招かれるのです。その日、その時まで、私たちの静かな戦いは続きます。時には誇りたくなる時もあり、時には過ちを犯すこともあるでしょう。正しいと思っていたことが実は正しくなかった、正しくないと思うことが実は正しいことだった、そんなこともあるかもしれません。しかしすべては主が完成させてくださると信じて、オバドヤの後ろ姿を仰ぎつつ、私たちは今日も、そして明日も、静かな戦いを続けていくのです。

<祈り>

ご在天の父なる神さま、オバドヤの物語に耳を傾けました。忍耐すべき時に忍耐をし、行動すべき時に行動することができますように。今、ここに集う一人ひとりの、言葉にできない大小さまざまな戦いをあなたはご存じです。いかなる時も万軍の主なるあなたが戦っておられることを信じて、静かに戦い続けることをやめない勇気を与えてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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