8月11日の礼拝の内容です。

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8月11日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.194.394.436.88です。

礼拝説教     使徒10:39~43「罪の赦しが与えられる」    2024.8.11

 使徒10:43「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証しています。」となっています。イエス様の名前を信じる者はだれでも、イエス様の名によって罪の赦しが受けられることについて、今日は考えていきたいと思います。

 使徒言行録10章からは、新しい展開になっています。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝わっていくことが書かれてあります。実際には、ペトロからコルネリウスへです。聖書の初めには、神の天地創造のことがあり、人間全体のことが書かれてありますが、創世記12章からは、アブラハムのこと、ユダヤ人のことが書かれてあります。神はユダヤ人を選んで、神の救いを実現していくことを計画されていきます。

 神に造られた人間は、神の前に生きる時に、どう生きたかが問われているのです。人類最初の人アダムとエバによって、人間は罪を犯してしまいました。その罪ついて、旧約聖書は丁寧に書いています。神の教えを守ること、十戒を始めとする律法、ユダヤ人には神の民として、神の律法を守ることが求められていました。しかし、実際にはユダヤ人は神の律法を守ることができないのです。そのために、ユダヤ人はその罪を神の前でいかに償うことができるかが、書かれてあります。それは、人間の罪を動物に委ねるのです。動物、特に家畜は神へのささげものとしてささげられます。実際には、家畜は殺されて、血が流され、肉が焼かれて神へのささげものとなっていきます。ユダヤ人は、自分たちの罪を家畜に委ねて、家畜がユダヤ人に代わって、罪の裁きを受けることになります。そのようにして、罪の赦しが行われるのです。そのような罪の贖いのことが何度も行われるです。

 そして、新約聖書のイエス・キリストになっていきます。イエス・キリストは神の子として地上に、私たち人間の世界にやって来られました。神の子でありながら、神の子の身分を捨てて、私たちと同じ人間となってくださったのです。罪は犯しませんでしたが、私たちの味わう苦しみと悲しみと悩みをすべて経験してくださいました。そして、最後はエルサレムで、十字架について死んでくださったのです。この神の子イエス・キリストの十字架の死は、私たちすべての人間の罪の赦し、罪の贖いとなっていきます。かつて、ユダヤ人が自分たちの罪を、飼っている家畜に罪を負わせたように、私たちは自分たちの罪をすべて、イエス・キリストに負わせたのです。そして、十字架につけて殺してしまいました。神の子を十字架につけることは大きな罪となっていきます。

 しかし、私たちの罪が神の子イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまったこと、それが神によって、私たちの罪の赦しということにつながっていくのです。これこそが、イエス・キリストを通じての神からの福音ということになります。私たちの罪が、私たち自身への罪の赦しとなっていくのです。これが神のご計画の中にありました。このような形で、神は私たちの罪を救おうとされているのです。

 ペトロはコルネリウスとその関係者に語ります。「神は人を分け隔てることはありません。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神の受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなた方に伝えます。神は聖霊と力によって、イエス・キリストに油を注がれた者としてくださいました。イエス・キリストは方々を歩いて人々を助け、悪魔に苦しまれていた人々をすべて癒されました。神が共にいてくださったからです」と。

 ペトロは、イエス・キリストの働きについて話しています。イエス・キリストは神の言葉を語り、多くの苦しめる人々をその奇跡の力によって癒してくださいました。そして、エルサレムで起ったイエス・キリストの十字架の死について話していきます。ペトロは、「私たちは、イエス・キリストがエルサレムでなさったすべてのことの証人です。人々はイエス・キリストを木にかけて殺してしまいました。しかし、神はこのイエス・キリストを3日目に復活させ、人々の前に現わしてくださいました。しかし、それは民全体ではなく、前もって神の選ばれた証人、つまり、イエス・キリストが死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです」といいます。ペトロはコルネリウスに、イエス・キリストの歩みを丁寧に説明し、特に、エルサレムで起ったイエス・キリストの十字架の死を話しています。イエス・キリストの死は、そこにいたすべての人々に知らせました。

 しかし、イエス・キリストは十字架の死から3日目に復活してくださったのです。この時に、復活のイエス・キリストに出会った人々は、すべての人々ではありませんでした。それは、イエス・キリストの弟子たち、復活されたイエス・キリストは、自ら進んで弟子たちにあってくださいました。裏切られても、見捨てられても、出会ってくださいました。ガリラヤ湖畔で、悲しむ弟子たちに、自らの復活の姿で出会ってくださり、一緒に食事もしてくださったのです。ペトロは、御一緒に食事をした私たちに対してですと告白しています。

 それから、イエス・キリストを通しての救いの意味を話していきます。ペトロは、「イエス・キリストはご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました」と、話します。

 ここに、イエス・キリストは、生きている者と死んだ者との審判者であるお方であるとペトロがいっています。マタイ25:31~46では、イエス・キリストが再臨する時に、すべての国の人々は、イエス・キリストの前に集まられると書かれてあります。羊飼いが羊と山羊を分かるように、人々も右と左に分かられるといいます。右に分けられた人々は神の祝福が与えられ、左側に分けられた人々は神から呪いを受けるとあります。神の祝福として、永遠の命が与えられ、神の呪いとして、永遠の罰を受けるとなっています。

 聖書には、最後の審判という考えがあります。イエス・キリストが再臨する時に、すべて生きている者と死んだ者は、イエス・キリストのみ前に立たせられる。そこで、生前にどのように生きたのかという最後の審判を受けることになります。人間の罪のために、すべての人々はすべて神の呪いを受けるしかなかったのですが、イエス・キリストが十字架にかかって死んで、3日目に復活してくださったこと、自分の罪を赦して下さったことを信じ、告白し、洗礼を受けることによって、罪が赦された者となって、神の祝福に入ることができるのです。この最後の審判の時に、イエス・キリストの贖いがあることによって、イエス・キリストを信じる者には、神の祝福に預かることができる。つまり、神の祝福として、永遠の命に預かることができる者とされていくのです。そのことをペトロは、コルネリウスに丁寧に語っていきます。

 最後に、ペトロは「また、預言者も皆、イエス・キリストについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが与えられる、と証しています」と、告げています。このイエス・キリストの救いと、キリストの再臨の時に、最後の審判のことを、コルネリウスに告げるのです。今まで、ユダヤ人だけに語られていたことが、ここで初めて、異邦人にも語られているのです。神の救いとは、本当は厳しい内容だと私は思います。神によって造られた私たち1人1人は、その神によって与えられた自由意志によって、自分がその生涯で、神に対して、どのように生きていたのかが問われているのです。それが、キリストの再臨の時に、最後の審判の時に、問われるのです。すべての人々は、神から裁きを受けることになり、永遠の罰を受けることになるのです。

 しかし、イエス・キリストが十字架について死んでくださったこと、この十字架の死と復活によって、私たちのすべての罪が赦されたのです。罪が贖われたのです。私たちはただ、このイエス・キリストの十字架の死が、私たちの罪の赦しになることを信じますといい、教会で洗礼を受けて、キリスト者になることによってのみ、最後の審判の時に、本来なら、罪が裁かれるはずなのに、キリストが、この者は、私の十字架を信じてくれた、だから、無罪であるといってくださり、神の祝福が与えられて、永遠の命を与えてくださるのです。ペトロがコルネリスに語っているイエス・キリストの救いの業の大きさ、大いなる恵みを覚えるのです。これこそが福音となっていくのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたが、イエス・キリストを通して、してくださったことの大きな恵みに感謝します。この神の愛にしっかりと答えることができる者として受け止めてください。心から願います。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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