9月22日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.58.436.457.27です。
礼拝説教 使徒12:1~5「熱心に祈りたい」 2024.9.22
今日は、神に祈ることの意味を考えていきたいと思います。神への祈りといいますと、自分の願いを神に語り、聞いていただくというイメージが強いと私は思いますが、皆様はいかがでしょうか。そもそもどうして、私たちは神に祈るのでしょうか。神は、私たちの祈りを聞きたいと考えているのでしょうか。
私は、日曜日の礼拝で使徒言行録を読んでいます。キリスト教の最初の歩みを見ることができます。この教会の歩みを見ながら、私たちの教会の歩みの大切なことを知ることができると信じています。イエス様の弟子たちに聖霊が降り、弟子たちは、イエス・キリストの福音を理解することができるようになり、教会の歩みがスタートしていきました。弟子たちは大胆に、身近な人々に、イエス・キリストの十字架の福音を語っていきました。多くの人々が、イエス様の福音を受け入れて、洗礼を受けて教会に加わっていきました。素晴らしい発展を教会はしていくのです。ユダヤ人の迫害もありましたが、伝道活動は進んでいきます。ステファノの殉教をきっかけに、多くの教会員はエルサレムを離れ、ユダヤ、サマリア、アジアに逃げてて行きながら、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。
ユダヤ人キリスト者は、それまでイエス・キリストの福音をユダヤ人だけにしか語っていませんでした。神の選民としてのユダヤ人という意識が強かったのです。ところが、アンティオキアの町に行ったキプロス島やキレネから来た者は、異邦人にもイエス様の福音を語っていきました。そうすると、多くの異邦人が、イエス・キリストの福音を信じて、洗礼を受けて、異邦人の教会が誕生しました。使徒2章で、イエス様の弟子たちに対する聖霊降臨がありました。使徒10章では、異邦人にも聖霊降臨が起っています。世界で初めての異邦人教会であるアンティオキアの教会が誕生して、使徒言行録は、今後、パウロによる異邦人伝道が本格化していくのです。
実は、その前に教会は大きな試練を受けることになります。それが、使徒12章です。ここにはヘロデ王が登場して来ます。新約聖書の福音書には、何人かのヘロデ王が登場して来ます。振り返ってみると、イエス様の誕生の時にいたヘロデ王は、よくヘロデ大王といわれています。イエス様の十字架の時のヘロデ王は、ヘロデ・アンティパスといわれています。ヘロデ大王の息子の一人です、そして、使徒12章に出て来るヘロデ王は、ヘロデ・アグリッパ1世を呼ばれています。ヘロデ大王の孫にあたります。親子3代に渡って、教会にとって敵のような存在になっています。この時のヘロデ王にとって、何よりも大切なことは、自分の地位を守ることでした。そのために注意深く歩んでいくのです。そのためには、ユダヤ人が自分に対して、好意的ある必要があったのです。ユダヤ人から自分が行為をもたれるためには、何が必要なのかといつも考えていたのでしょう。それは、ユダヤ人のためにではなく、自分の地位を守るためでした。ユダヤ人にとって、教会の動きは許されないものだったのです。ユダヤ人はかつてステファノの殉教を起しました。ここで、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばしていきます。それは、そうすることがユダヤ人から喜ばれることだったからです。ヘロデ王にユダヤ教の信仰心からきているものではありませんでした。
ヘロデ王は、そこでヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したとあります。ヤコブは、イエス様の12弟子の中で初めての殉教者となりました。このヤコブについては、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(マタイ20:23)と書かれてありますので、その言葉が成就したことになります。ヤコブの殉教はそれだけでは終りませんでした。ヘロデ王は、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したことがユダヤ人に喜ばれることを見て、更にペトロをも捕えようとしました。それは、除酵祭の時でした。ヘロデ王はペトロを捕らえて牢に入れ、4人一組の兵士4組に引き渡して監視させたのです。厳重に監視していくのです。この時の看守は、もし囚人を逃がすことをすれば、自分が囚人の身代わりとして死刑になることになります。時は過越し祭で、祭りが終ってから、民衆の前に引き出して、ペトロを処刑する予定でした。こうして、ペトロは牢に入れられていました。
この時に、教会にとって大きな危機を迎えていました。使徒ヤコブが殺されて、使徒のリーダーであるペトロも捕らえられて、牢に入れられて、処刑されようとしています。このままだと教会は解散するかもしれません。この危機の中で、教会はいったいどのようにしたのでしょうか。教会はペトロのために熱心な祈りが神にささげられていたのです。教会が、大きな試練に出会った時に、すべきことは神に熱心に祈ることです。これが教会のすべきことなのです。教会に集う者たちも、大きな試練と出会った時に、すべきことは神に熱心に祈ることです。教会が、私たちが、このような危機の時に、最善のことは神の祈ることです。
そうです。今日は祈りとは何かを考えたいといいました。教会がこのような難しい状況をどのように乗り越えていったのかを見ていきたいと思います。そもそも、私たちはどうして神に祈る必要があるのでしょうか。神は全知全能のお方です。別に私たちが祈らなくても、神は私たちの必要をご存じのはずです。そうならば、私たちが祈る前に、私たちの必要を満たしてくださればいいのです。もっといえば、そもそも試練が起る前に、その状況を察して、そんな試練に合わないようにしてくれればいいのです。それなのに、神はどうして、試練が起るのを見過ごして、私たちが祈るまで何もしてくださらないのですかと思いたくなります。このように考えるのは、私たち自身が祈りというものを誤解しているからです。
キリスト者にとって、祈りというものは、どこかのお方のもとに行って、何かをお願いするということとは全く別のことです。私たちは神に祈りを通して、神を変えようとするかもしれません。でも、祈りというのは、神を変えるというものではなく、私たちが変えられるものです。よくいわれることですが、神への祈りは、神との対話です。私たちが、神に一方的に自分たちの思いを訴えるようなものではなくて、自分の思いを神に打ち明けながら、神の御声に耳をすませ、神の御心と一致していくための流れです。ですから、祈りには、私たちが何を祈るかというだけではなく、神からの答えに耳をすませる必要があるのです。それでなければ祈りは完成することはないのでしょう。神に自分の思いを伝え、神の答えをきき、今度は、それに対して、私たちが従っていくという私たちの応答があって、初めて祈りということになるのです。
そこに至るまでは、神との対話をたくさんする必要があります。時には、自分たちの思いが強すぎて、神の御心を聞くことができないことがあります。分かっていても、従うことができないこともあるでしょう。そのような時を何度も重ねていく中で、私たちは神の御心に近づいていくことができるようになるのです。神への祈りには2つあると思います。1つは、1人で祈ることです。
マタイ6:6
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
ここには、1人で祈ることが書かれてあります。神に対して、1人で、誰もいない場所で、祈るのです。自分の思いをすべて神に訴えるのです。一方で、みんなで祈るということがあります。
マタイ18:19~20
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
ここでは、皆で集まって祈ること、教会の祈りが書かれてあります。聖書に戻ります。ペトロは捕らえられ、牢に入れられて、明日にでも殺されるという危機の時に、教会はペトロのために熱心な祈りがささげられていました。ヘロデ王にヤコブが殺され、ペトロが捕らえられてしまった。この時に、教会の人々は、神への熱心な祈りをささげています。ここにはまず神への熱心な祈りをすることが求められています。私たちはどうでしょうか。このような祈りをしているでしょうか。教会の歩みにとって、神への熱心な祈りは、教会の力そのものです。私たち1人1人、神に熱心に祈る者でありたいと願います。
祈り 神よ、あなたに礼拝をささげることができましたことを心から感謝します。教会の熱心な祈りについて考えてきました。神へ祈りとは、あなたとの対話であるということを確認しました。私たちの思いを、あなたに訴えます。どうか、受け止めてください。そして、あなたの御心を私たちに示してください。私たちが神への信仰によって、受け止めることができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
コメント