9月29日の礼拝の内容です。

礼拝

9月29日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.457.518.357.91‣1です。

礼拝説教   列王記上18:41~46「祈り、そして走る」(小椋実央牧師) 2024.9.29

バアルの預言者たちと預言者エリヤとの対決は終わりました。圧倒的なエリヤの勝利でした。バアルの預言者たちが、とんだり跳ねたり、祈って自分たちの体を傷つけてもバアルの神はなんの反応も示さなかったのです。一方で、エリヤはささげものに水を注いで、最も燃えにくい状態にしながらも、一瞬で神の炎がささげものを焼き尽くしました。燃えるはずのない石や水まで、全てを焼き尽くしたのです。集まっていた群衆は恐れおののき、「主こそ神です、主こそ神です。」と言ってバアル信仰を悔い改め、主の前にひれ伏しました。バアルの預言者450人を前にして、エリヤはたった1人で、いやエリヤではなく神が勝利をもたらしてくださったのです。祈りに応えるまことの神であることを、神ご自身が証明してくださったのです。

本日お読みした箇所は、物語で言うところのエピローグに相当する部分です。主たる物語、バアルの預言者とエリヤの対決が終わり、その後の出来事を記しています。前回のような華やかさはなく、むしろおまけのような部分です。しかも、すでに18章の1節で「わたしはこの地の面に雨を降らせる」との約束を神からいただいているのです。それなのに尚、エリヤは祈るのです。ですからこの祈りは「雨を降らせてほしい」という祈りではありません。雨を降らせるというすでにある約束を、そのことが成就するようにと祈るのです。1度や2度ではなく、7回も祈るのです。この物語から、私たちは神のみ言葉をどのように聴き取るべきでしょうか。手がかりになるのは二人の人物、アハブとエリヤの従者です。この二人を軸にして、本日の箇所をご一緒にひも解いてみたいと思います。紀元前800年代、北イスラエルの王アハブは妻イゼベルにそそのかされてバアル信仰へと偏っていきます。バアル信仰に傾いたアハブ王と北イスラエルに対して神は干ばつ、雨をふらせないという出来事を起こします。バアルに悔い改めの猶予を与えるためです。この時に起こされたのが預言者エリヤです。預言者エリヤはカルメル山でバアルの預言者たちと対決をします。結果はバアルの預言者たちの惨敗。水不足という非常事態に、バアルの神が全く無力であることが分かります。カルメル山に集った人々は、エリヤの神こそ、イスラエルの神こそ、呼びかけに応えてくださる神であることが分かりました。全ての民がその出来事を目撃し、全ての民が納得をし、全ての民がひれ伏して「主こそ神です、主こそ神です。」とひれ伏して拝んだ。これ以上はないという結末で終わりました。

その後の出来事が本日の箇所です。エリヤにうながされてアハブ王が退席すると、1人、2人と帰って行きました。エリヤの言葉を借りれば、「激しい雨の音が聞こえる。」嵐のような大雨になるだろうから、クモの子を散らすように人々は帰っていきます。決着はつきました。バアルの神はあてにならない、ということがよく分かったのです。祈りに応えてくださるのはイスラエルの神だということが分かったのです。ですから、もうカルメル山にとどまる必要はありません。バアルとの対決は終わりました。もうやることは何も残ってはいないようですが、エリヤはカルメル山に上って行き、地にうずくまり、膝の間に顔をうずめます。祈りの姿勢です。エリヤは一人で祈るのです。全ての行事が終わり、人々が安心して帰った後も尚、エリヤには祈りのつとめがあるのです。雨を降らせてくださいと祈るのではありません。先ほども申し上げましたが、18章の1節ですでに「わたしはこの地の面に雨を降らせる」と約束しているのです。雨を降らせてくださいと祈って雨が降ったとしたら、エリヤの言葉に権威があることになってしまいます。エリヤはそうはしません。「雨を降らせる」という約束があることを信じて、約束があるからこそ祈ります。神の言葉に添うようにして、自らをその枠の中にはめ込むように祈ります。エリヤがうずくまって一人で祈る姿を思い描く時、その姿は今日の教会の姿と重なります。教会の務めと言ってもいいかもしれません。

誰かが病気の時、困難に直面した時、教会は祈ります。先日も能登で震災に続いて豪雨の被害がありました。その時も祈ります。問題が解決をして、結果が出ても尚教会はしぶとく祈るのです。人々が祈り終わり、または祈りを忘れているような時も、教会はしんがりを務めるように祈るのです。人々の先頭ではなく、むしろ後ろから見守るように、人々の祈りを代弁して何度も繰り返すように、なぞるように祈ります。それがエリヤの祈りであり、私たちの教会の祈りです。私たちはエリヤの祈りの姿勢から、教会の祈りを、この世のしんがりを務める教会の祈りを学びたいと思います。

エリヤの祈りに欠かせないのが従者の存在です。従者とは主人の供をする者、という意味があります。ここではエリヤの身の回りの世話をする召使のような人物なのか、或いはエリヤの弟子のような存在なのか、或いは両方を兼ねているのか、はっきりはしていません。これまでも、またこれ以降も登場しないことから、今回に限ってこのカルメル山周辺でエリヤの身の回りを世話する召使のような存在ではないかと私は考えています。エリヤは頂上に祈りに行っています。従者は中腹か下のほうにいるのでしょう。エリヤは上から呼びつけて、「海の方をよく見なさい。」と命じます。雨が降る気配がないかどうかを知りたいからです。もしかすると従者は神が雨を降らせてくださると約束してくださったことを聞いていないのかもしれません。海を見ろと言われても、目に入るのは波の具合や、漁に出ている船や、狩をする海鳥だけです。いつもと変わらない光景です。「何もありません。」従者は応えます。これを7回繰り返します。7回も山を登ったり降りたりするのです。こうもできたはずです。従者を見晴らしのいいところに立たせておいて、私はここで祈っているから何か変化があったら知らせてほしい。その方がエリヤは祈りに専念できるはずです。従者も何度も登ったり降りたりする必要がありません。聖書のやり方は、エリヤにとっても従者にとっても、あえて面倒なやり方をしているのです。7回繰り返したということは、6回の何もなかった、6回の失望を二人は味わうのです。

こういうことではないかと思います。エリヤと従者の関係は教会の姿です。教会はみ言葉の成就、7回目の成就を共に分かち合いたいのです。そのためには6回の失望もまた、分かち合いたい。従者はみ言葉の成就を分かちあうために存在するのです。従者の見方が、海を見るまなざしが信仰的だからと言って神さまが雨を降らせるかどうかということを決めるわけではないのです。私たちもまた、この従者のようなつとめに日々召されています。何をする、というわけでもない。私たちの何かが、御言葉の成就を早めるというわけでもない。ただ祈るものと一緒に祈り、6回の失望を共に味わうのです。教会はこの従者のような働き人を求めています。特別な能力が必要なのではなくて、ただそこにいて、共に分かち合うという働きです。悲しみも喜びも共に分かちあうのです。この日、この時、ここに私は招かれたのだという喜びにあずかるのです。この小さな積み重ねが、教会を教会として成長させていきます。エリヤと従者の姿に、私たちは教会の姿を見ることができます。

本日の箇所に出てくるもう一人の人物、アハブ王にも触れておきたいと思います。先ほど、紀元前800年代の北イスラエルの王と紹介させていただきました。聖書の中にはまともな王さまというのはほとんど出てはこないのですが、その中でも指折りの悪い王さまとして真っ先に挙げられるのがこのアハブ王です。バアル信仰を持ち込んで、しかもこのアハブ王は妻のイゼベルの尻に敷かれていますから、イゼベルの言いなりです。そのこともまた王としての資質が問われるところです。このアハブ王によって、北イスラエルは滅亡へと突き進んでいくのです。ところが本日お読みした箇所では、これまでにあったようなアハブ王とエリヤとの激しいやりとりはありません。それどころかエリヤはアハブ王を労わってさえいるのです。

(聖書地図5南王国時代)これまでに出てきた地名を振り返っておきます。サマリアが北イスラエルの中心地です。今回バアルの預言者と対決をしたのがカルメル山です。そして、アハブ王の宮殿があるのが、イズレエルです。本日の箇所で、最初にエリヤはアハブ王にこう言います。「上って行って飲み食いしなさい。激しい雨の音が聞こえる。」場所はカルメル山です。バアルの預言者との対決が終わったばかりです。上って行く、というのは、今回カルメル山に滞在するために野営している、野宿している場所に帰りなさい、という意味です。帰って食事をとりなさい、嵐になるとそれどころではなくなるから、と促しています。どうやらアハブ王は、雨ごいのために断食をしていたようです。バアルを信じていたとはいえ、アハブ王にはこのように信心深い一面もあったのです。そのことは記憶にとどめておいてもいいかもしれません。アハブ王はカルメル山を離れて食事に行きます。エリヤは残って祈ります。雨のしらせを待つのです。エリヤは7回祈った後、嵐の兆しを見出すとそれを伝えるように従者に言いつけます。雨が降って道がぬかるんでしまうと、車輪が沈んでしまって馬車が動かなくなるのです。だから雨が降る前に、イズレエルの宮殿に帰りなさいと促すのです。ここで不思議なことが起こります。馬車に馬をつないでイズレエルの宮殿へと帰るアハブ王の前を、エリヤが走って行った、というのです。かたや馬をつないで、かたや人間の足で走っているのです。馬よりも早いわけがありません。主の御手がそうさせるのです。しかも格好よく走るというのではなくて、裾をからげて走るのです。裾をからげるというのはだいたい想像がつくかと思いますが、着物の端をまくりあげて、帯のところにはさみこむのです。神がエリヤにみっともない恰好をさせて、しかしそれでいてアハブの前を走らせるのです。

先ほど、教会はしんがりを務めるのだ、と申し上げました。最後の最後まで、教会は祈る存在でなければならない。しかし同時に、神が求める教会の姿とはこのようなものでなければならない。すべての出来事に先立って、先がけでなければならない。アハブ王の前を預言者が走るというのは一つの幻です。教会はすべての人々に先立って、この国の営みの、いや地球上のすべての営みに先立って走るものでなければなりません。勿論私たちにその力はありません。神がそうさせてくださるのです。少々みっともない姿、いや、じゅうぶんにみっともない姿をさらしながらも、私たちは人々の前を走らなければならないし、神によって走り続けることができるのです。神がそうさせてくださるのなら、少々はしたない恰好であっても私たちは喜んで走らせていただきたいと思うのです。2週間前の出来事になりますが、週報を見てお気付きの方もおられたと思うのですが、今年の私の誕生日はここ数年の中で忘れることができない、特別な誕生日となりました。ご覧の通りに新しいオルガンを迎えて、このオルガンをお披露目する最初の礼拝の日が私の誕生日と重なっていました。その日にちょうど奏楽の奉仕がさせていただくことになりました。奏楽をさせていただいたというよりは、元々奏楽の奉仕は順番で決まっていて、オルガンのほうがその週に届いてしまったので、やらざるを得なかった、というほうが正確かもしれません。いずれにせよ、これは神さまがくださった誕生日プレゼントに違いない、と受け止めて心地よい緊張感で新しいオルガンを弾かせていただきました。このオルガンの音色が素晴らしいことは名古屋中学の講堂で弾かせていただいて分かってはいたのですが、改めてこの瀬戸永泉教会で、他の誰でもない瀬戸永泉教会に集う方々と一緒に賛美をする、というのは他のどこでも、他のどの楽器でも出すことのできない唯一無二の音色だなと感激をいたしました。見た目にも前と同じような明るい木目で、違和感なく礼拝堂に収まっているかな、という気がします。

みなさんからご覧になって一番大きな変化は音色もさることながら、オルガンが横を向いている、というのが一番の変化かなと思います。これまでは奏楽者はみなさんのほうに背中をむけて、弾いていたのですけれども、これには理由があって、オルガン本体に大きなスピーカーがついていたので、会堂によく響かせるためには、オルガンのふたをあけて、壁をむいて演奏するほうが大変都合がよかったわけです。新しいオルガンは礼拝堂の2階に大きなスピーカーを設置することにしました。ですから壁をむいている必要がなくなったわけです。ただ本体からも音は出ているのでこちらの壁に音をあてて、みなさんのほうに反響するように、オルガンの向きを調節しています。見た目の変化の次に大きな変化は、二階から音が聞こえてくる、ということです。これまではオルガンが前にあって、オルガンの近くが一番大きな音がして、後ろに行けば行くほどオルガンの音が小さくなっていたのですけれども、これも変わりました。このスピーカーも上向きに置いてあるので、音がいったん天井にあたってから下に降りてきます。そのせいかもしれませんが、礼拝堂の真ん中あたりがオルガンの音が大きく聞こえる。逆に前の席では以前のようには大きく聞こえない。

この音量のバランスについて、奏楽者がまだ新しいオルガンの操作に慣れずに四苦八苦しています。人によって心地よいと思う音色や音量は違いますし、座る場所、人数によっても音の聞こえ方が変わってきます。これから服装が厚地になっていくと、音を吸収するので、また音の響きもかわってくるのではないかと思います。奏楽者によって、音色も、音量も異なります。同じ音色を出すことは同じボタンを押せば可能ですが、音量はペダルで調節しているので、7とか8とか数字で決まっているわけではないので、先週の奏楽者と全く同じ音量を出す、ということができません。奏楽者も試行錯誤しながらやっていますが、今日の讃美歌の、何番の時の音量がちょっと私には大きすぎたよ、逆に小さくて聞こえにくかったよ、この讃美歌の音色が歌いやすかったよ、ということを教えていただけると奏楽者も励みになります。奏楽者は自分の音を後ろで聞くということができないので、今後のためにアドバイスをいただいて、このオルガンを育てていきたい。オルガンを中心とした教会の賛美をこれまで以上に充実させていきたいと思います。いい楽器がやってきたら、それだけで突然私たちの賛美がグレードアップするわけではありません。この音量はどうだろうか、このテンポだと歌いにくいだろうか。話し合いながら、祈りつつ、一つずつ石を積み上げるように、瀬戸永泉教会の賛美を、そして礼拝をみなさんと一緒に手探りで作りあげていきたいと思います。

本日の列王記になぞらえるならば、教会はこの世のしんがりであって、さきがけでなければならない。この世の誰もが失望して、歌を歌えなくなった時でも、瀬戸永泉教会では終わりの時までほめたたえの歌を奏で続ける存在でありたい。そして、この地上の誰よりも先に、誰よりも早く、御言葉をかかげてこの世界のさきがけとして駆け抜けていく存在でありたい。後から歴史を振り返った時に、2024年の9月から、瀬戸永泉教会は新しい歌を、新しいほめたたえの歌を歌い始めたのだと記されるような、そのような礼拝生活を、この新しいオルガンと共に歩んでいきたいと願うものであります。

<祈り>ご在天の父なる神さま。エリヤと共に祈り、共にみ言葉を分かち合い、共に苦しみを味わい、共に走ることのできる、そのような信仰を私たちにお与えください。瀬戸永泉教会があなたからいただいたつとめを全うして、あなたの御栄をあらわすことができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

コメント