10月27日の礼拝の礼拝の内容です。

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10月27日の礼拝の内容です。讃美歌は、17.535.224.458.29です。

礼拝説教   列王記上19:1~8「この旅は長い」(小椋実央牧師) 2024.10.27

エリヤが逃げました。バアルと見事な戦いを見せたバアルが逃げました。アハブ王の妻、イゼベルを恐れて逃げ出しました。イゼベルはバアルを信仰しています。バアルは豊穣の神です。雨を降らせ、穀物を実らせる神です。しかしいかなる神であろうとも、わたしをおいてほかに神があってはならない、と神は十戒の中で約束しておられます。どんな理由も通用しないのです。イゼベルはイスラエルにバアル崇拝を持ち込んだ超本人と言ってもいいかもしれません。そしてバアルを拝まない主の預言者をことごとく切り殺したのです。アハブ王はカルメル山でのバアルの預言者とエリヤの対決を、王妃イゼベルに事細かに伝えました。バアルの預言者がどれほど熱心に神を求め、公衆の面前で恥をかかされたか。バアルの預言者がことごとくエリヤに殺されたことを。イゼベルは復讐心に燃え上がってエリヤを殺すことを宣言します。黙ってこっそりと殺しに行くのではなく、お前を殺しに行くと堂々と宣言するのです。エリヤに使者を送ってそう言わせたということは、エリヤの居所はつかんでいるわけです。エリヤは震え上がって逃げ出します。

しかし逃げた先でエリヤはこう言うのです。「主よ、もう十分です。わたしの命をとってください。」生きながらえるために逃げたのに、逃げた先でもう死にたい、と願うのです。一体エリヤはどうしたのでしょうか。何故ちぐはぐなことを言ってしまうのでしょうか。人間だれしも、疲れ果ててしまう時、傷つきすぎている時、思っていることと真逆のことをしてしまう時があります。愛されたいのに相手を傷つけてしまったり、平和を訴えながら攻撃したりするのです。エリヤが死を願っているのは半分本当であり、半分は違います。ヒントになるのは次の部分です。「わたしは先祖にまさる者ではありません。」預言者エリヤは新約聖書にも数多く登場しますし、少なくとも450人のバアルの預言者との戦いだけを見ても、ただ者ではないことが分かります。しかしエリヤ自身はそうは思っていなかったようです。それどころか、自分は先祖よりも劣っている。アブラハムやヤコブの信仰にはとうていかなわない、と思っているわけです。神さまの前で弱音をはいているのです。自分は預言者としてふさわしくない。戦えども戦えども、一向にバアル宗教はなくならない。それが自分の弱さによるものだと思っているのです。だから預言者としての務めを解かれたいと願っているのです。

召命とは命を召す、という字を書きます。エリヤにとって、生きることは預言者でい続けることであり、イゼベルの手がから逃れるためには、預言者であることをやめなければならない。しかし、生きることと預言者であることは分かち難く結びついているので、神さまに命をとっていただく以外に、預言者の荷を下ろすことができないのです。自分から預言者をやめる、ということができないのです。矛盾しているようですが、イゼベルの剣を逃れるためには、神によって命を召されること以外に方法がないのです。紀元前9世紀頃に活躍したエリヤの物語に耳を傾けています。モーセに率いられて荒れ野を旅したイスラエルの民は、士師の時代を経て、やがて一人の王を建てて王国時代を迎えます。しかしその王国もサウル、ダビデ、ソロモンと3人しか続かず、ソロモンの息子の代で北と南に分裂をしてしまいます。やがて北も南も外国に滅ぼされ、バビロン捕囚の時代を迎えます。エリヤが活躍したのは、外国に滅ぼされる前、ちょうど北イスラエルと南ユダに分裂をしていた時代の北の国での話です。まだそれほど外国の脅威は迫ってはいませんでしたが、国の内側ではバアルをはじめとする異なる宗教を拝む人が増えており、滅びの日が一歩ずつ近づいていました。

そんな時にバアル信仰への警鐘を鳴らしたのがエリヤです。バアルではなく、イスラエルの神が雨を降らせるのだ、という言葉と共に3年の飢饉が与えられました。そして群衆の前でバアルの預言者と対決をして、バアルの神はさっぱり応答しなかったのに、イスラエルの神は火をもって応えるという有名な戦いが繰り広げられたのです。エリヤとバアルの預言者の対決を、夫のアハブ王から聞いた王妃イゼベルは怒り狂います。王妃イゼベルこそ、バアル宗教の仕掛け人だからです。これまで徹底的に主の預言者を排除して、バアルの預言者たちを優遇してきたのです。エリヤは逃げ出します。18章の終わりの部分、直前に出てきた地名イズレエルがスタート地点だとすると、イズレエルからベエルシェバまで約160キロです。もう北王国をとっくに飛び出して、南王国の端っこまで来てしまいます。(聖書地図5)

しかも、ここからさらに従者を置いて、荒れ野に入って行ったとあります。生きることを願いながら、しかしエリヤは死に場所を求めます。勝手に死ぬことはできません。エリヤは自分の命が神のものであることを知っています。神に命をとってもらうことを願って、エリヤは荒れ野へと入っていきます。死の淵でも尚、神の介入を求めるのです。果たして、同じことが自分にはできるだろうか、と思います。今、命が尽きようという時に、例えば病室のベッドの上で、家族を遠ざけてひとりぼっちで神に祈ることに専念できるだろうか。私にはとてもできないように思います。エリヤの神への信頼度がよくあらわれていると思います。だから、エリヤが言う「命をとってください。」は本音です。神に命をとっていただく以外に、イゼベルの剣を免れる方法がないのです。

生きるか死ぬか、という緊張感の中で、やがてエリヤは眠ってしまいます。戦いの後、休む間もなく逃げてきました。疲れているのはやまやまでしょうけれども、こんな状況で眠ってしまうなんて、ずいぶん図太い神経だと思ってしまいます。聖書にはたびたび、重要な場面で眠りが出てきます。創世記、天地創造の時、神さまはアダムを眠りに落としてから、アダムのあばら骨で助け手であるエバを作ります。クリスマスの時には、婚約者の不貞に悩むヨセフが、しかし夢の中で御告げを聞いて、マリアを妻として受け入れることを決断します。これ以上例をあげる必要はないかと思いますが、眠りとは神が働く時です。神が事を起こされる時です。眠っている時、人間は完全に無力な状態です。神の御手が働く以外に、自分で何か事を起こすということはできない。神のわざを信じることしか、受け入れることしかできない状態です。とはいうものの、荒れ野で寝てしまうというのは自殺行為です。エリヤは水も食糧も用意していませんでした。荒野で眠るということは、やがて死を迎えることに等しいのです。かたや、神への信頼があるがゆえに、緊張を解かれて眠ってしまう。一方で信頼があるがゆえに、生命を維持することがおろそかになって、疲れのあまりに寝落ちしてしまう。エリヤの眠りにはこの二つの側面があるように思います。

荒野で眠ってしまったエリヤに神さまはみ使いを送り、「起きて食べよ」と呼びかけます。2度繰り返します。一見すると、神さまはエリヤの祈りを無視しているかのようです。主よ、もう十分です。私の命を取ってください。と祈っているのに、命を取るわけでもなく、命を取るのは今ではないと秩序だてて説明するのでもなく、起きて食べろと命じるのです。生命の維持のために、まず食べることを勧めるのです。極限状態にある時は、理屈は頭に入ってきません。一方で簡単な命令は心に響きますし、すぐに行動に移すことができます。「起きて、食べなさい。」生きろ、という神さまからのメッセージです。生きるための、神さまからの具体的な指示です。ですから、2度目の「起きて、食べなさい。」は1回目とは少し意味合いが違います。1度目は必要な休息をとるためにエリヤは起きて、食べるのです。しかし2度目はこう説明が続きます。「この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ。」2度目の「起きて食べなさい」はエリヤに対する新しい召命です。次回お読みすることになりますが、エリヤはダマスコへ向かうことになります。今逃げてきた道を引き返して、アハブ王やイゼベルがいるであろう危険なサマリアを通り過ぎて、遠いダマスコまで行くのです。ダマスコへ行って、やがてイスラエルの敵となるであろうアラムの王を立てるのです。イスラエルのためではなく、外国の王を立てるために出かけていくことになるのです。そしてその外国の王はイスラエルを救うどころか、イスラエルの強敵になるのです。神が不信仰のイスラエルに与える、大きな試練です。

その働きのために、エリヤは再び召されるのです。「起きて、食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ。」これまでは、イスラエルのために、人々の信仰を守るためにエリヤは必死に戦ってきました。3年の飢饉の間飢えをしのぎ、共に戦う仲間もなく、たった一人でバアルの預言者を相手に、アハブ王やイゼベルを相手に戦ってきたのです。エリヤに対する神さまからのねぎらいの言葉は何もなく、これまでの働きが良いとも悪いとも判断されずに、次のミッションが示されるのです。しかもそれはイスラエルを救うのではなく、イスラエルを弱らせるための、敵に打ち負かされるための布石。敵国の王を立てるという働きでした。この旅は長い、という神の言葉は、物理的な距離だけではないかもしれません。エリヤは不信仰なイスラエルがどうなるのか、これから油を注ぐアラムの王がどうなるのか、何もしらないまま召されるのです。しかしたとえ天に召されたとしても、旅は続くのです。エリヤの働きの実りは続くのです。神から委ねられて、命がけで働いたエリヤの実りは、エリヤが天に召された後もずっと続くのです。エリヤは自信を失いかけていました。「わたしは先祖にまさる者ではありません。」珍しく弱音をはきました。それに対する神の答えはありません。そんなことはないと言って否定をするわけでもなく、いやいや、お前は優れているぞという評価もありません。

神はただ、エリヤに生きることを望みました。生きて、もう一度神から召命を受けて立ち上がることを望みました。ここに神さまの答えがすべてあらわされています。あなたは生きるに値する。生きていい、生きなさい。あなたはもっと生きていいのだ、というメッセージをエリヤは受け取ります。起きて食べなさい。そして、もう一度新しい使命を受け取りなさい。ここで力づけられたエリヤは、さらに40日40夜歩き続けることになります。そして神の山、ホレブを目指します。水もわかない、涸れ果てた場所での出来事でした。エリヤは死に場所を求めて、命を捨てる場所を求めて荒れ野へとやってきました。しかしそこでこそエリヤは新しい命を注がれるのです。新しい使命を与えられるのです。それは決してエリヤにとって望ましい使命ではありませんでした。エリヤがアラムの王に油を注ぐことによって、イスラエルを滅ぼすかもしれない。イスラエルを滅亡に陥れていくかのような務めでした。しかしエリヤは「起きて食べよ」との命令に従います。生きていいと言われた自分の生涯を、この旅は長いと言われた長い旅路を、とことん歩み倒すつもりでした。

私たちも同じです。私たちも、大げさな言い方をすると死に場所を求めて教会へと集って参りました。そんなことを言うと、縁起でもないと怒られてしまいそうですが、多くの方がよりよく生きることを求めて教会の門をくぐったのではないかと思います。生きることと死ぬことは隣り合わせです。神さまのために生きて、死ぬ時は神さまから離れたところで死ぬ、ということはできません。死ぬ時は神さまにいてほしいけど、生きている間は好き勝手にやりたい、というわけにはいきません。洗礼を受けた私たちは神さまのものとされたのだから、生きる時も死ぬ時も、そして死んだ後も尚神さまと共にありたいし、共にいさせていただきたいのです。何よりも神さまご自身が、死んだ後の長い旅路をも共に歩んでくださることを神さまの側から約束してくださっているのです。たとえあと数年で、いや、あと数日で命が尽きようとも、それでも尚その後の旅は長いのです。地上の歩みが終わろうとも、私たちの旅路はまだまだ続くのです。次週は永眠者記念礼拝を守ります。神さまと共に歩む長い旅路を、私たちの少し先を歩む兄弟姉妹を覚えて共に礼拝を守ります。エリヤが使命を新しく受け取って歩み始めたように、私たちもまた、今この時、自分たちに与えられている使命をしっかりと受け取りなおして、生きている間だけではない、死んだ後の尚続く長い旅路を、イエスさまに支えられて歩んでいきたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。あなたの力強いみ言葉をいただき、ありがとうございます。すでにここに至るまでの旅路が長く、息切れしそうな時もあります。しかしここで終わりではなく、旅を続けることができますように。この旅路を、兄弟姉妹と共に、あなたと共に歩み切ることができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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