11月24日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.532.470.564.27です。
礼拝説教 列王記上19:8~18「主の前に立つ」(小椋実央牧師) 2024.11.24
2024年11月最後の主日、終末主日を迎えました。今日は教会のカレンダーで言うところの一年の最後、大晦日にあたります。教会歴はアドベントから、つまり来週から新しく始まります。アドベント、主を待ち望むということが、キリスト者の生活の一番最初にあります。アドベントを経てクリスマス、年をまたいで公現日と続きます。ここでいったんクリスマスの暦が終わります。2月か3月頃になるとキリストのご受難が始まり、イースターと続きます。冬から春にかけて、教会では目まぐるしくイエスさまのご生涯を追いかけていくことになります。イースターが終わってペンテコステ、聖霊降臨日の後はしばらく教会の時が続きます。聖霊降臨節第〇主日、という言葉を週報などでよく見かけるのではないかと思います。待降節や降誕節、復活節などと比べて、一番長い期間になるのがこの聖霊降臨節です。イエスさまの誕生、受難、復活、そしてペンテコステまでやってくると、しばらく教会では大きな行事がなくなります。この期間、すなわち聖霊降臨節は教会の時、教会が伝道に励む時と考えられています。
しかし、この地上の歩みはいつまでもだらだらと続くのではありません。イエスさまが約束されたように終わりの時があります。終わりの時にむかって教会は福音を語り、神の国の完成を願い求めるのです。従って教会の暦も、アドベントから始まって永遠に続く、というのではなくて、この終末主日をもってしめくくりとなっています。教会によっては、特にカトリック教会などでは、この終末主日に必ず読むみ言葉が決められていることもあります。例えばタラントンのたとえがそうです。僕たちがそれぞれの能力に応じて財産を分け与えられていて、終わりの時に主人が帰ってきて僕たちがどのように用いたかを主人が調べる、という話です。私たちもそれぞれのたまものが与えられて、終わりの時までにそれを用いた責任が問われる。私たちの働きを神さまがどのように判断してくださるのか、それは神のみぞ知る、というところですが、少なくとも終末主日である今日は、この一年の歩みを振り返って、神さまからいただいたたまものを感謝して、この一年も微力ながら神さまにお仕えできたことを喜びたいと思います。同時に、この日は収穫感謝として定められていることもあって、こちらのほうがみなさんにはなじみがあるかと思います。古くはアメリカに渡ったキリスト者たちの感謝祭から始まったことですが、ちょうど秋から冬にかけて実りの時期として、いただいた農作物を感謝する。お米、野菜、果物、これらの目に見えるものを感謝することのほうが分かりやすいですし、大事なことではありますが、しかし目には見えない魂の刈入れの時にも、私たちは思いをはせたいと思うのです。神さまが私たち一人ひとりに与えてくださった恵み、たまものを私たちはどう用いてきたのか。どのように隣人を愛することができたのか。神からいただいたたまものがどのように豊かになって、神さまにお返しすることができるのか。来るべき終わりの日を待ち望みつつ、この一年に一度の終末主日は、実際の終わりの日の足元にはおよびませんが、しかしリハーサルのようなつもりで、主イエスの再臨に備えたいと思うのです。
預言者エリヤもまた刈入れの時を迎えていました。預言者としての大きな働きを2つも3つも終えて、神さまの前で報告をする段階にきていました。しかしエリヤは喜びのうちにではなく、すっかり疲れ果てていました。バアル信仰に偏った王、アハブ王との戦い。バアルの預言者たちとの戦い。そしてバアル信仰の黒幕とも言えるアハブ王の妻、イゼベルに命を狙われたことをきっかけとして、北イスラエルを超えるどころか南ユダも通過して、シナイ半島までやってきました。出エジプトを導いたモーセが十戒をさずかった場所、ホレブの山があるところです。いくら王妃イゼベルが権力を駆使しても、ここまでは追ってはこないだろうという距離です。このエリヤの逃走劇の中で、エリヤは何度となく自らの死をほのめかしています。食べ物も用意せずに一人で荒れ野に入っていくのは自殺行為です。そして食べ物や飲み物を探すことなく、荒れ野で眠ってしまうことも危険な行為です。イゼベルに命を狙われたから逃げてきたのに、「わたしの命をとってください。」と神に願います。これまで用意周到とは言わないまでも、エリヤは不利な状況にあっても神の恵みを信頼して戦ってきたのです。これでは自暴自棄になっていると言わざるをえません。
そもそも逃げてきた、ということは預言者としての務めを捨てた、ということです。持ち場を離れてしまったのです。これまで何度となく命の危険にさらされるようなことはあったのに、今回イゼベルに命を狙われたことで、何かエリヤにスイッチが入ってしまったに違いありません。ピンと張りつめていたエリヤの心が、ついにくずおれてしまったのです。今日でしたら、エリヤは鬱の状態、と診察が下されるかもしれません。エリヤはあまりにも働きすぎだったのです。しかし、エリヤがホレブまで逃げてきたのは、それだけが理由ではないかもしれません。勿論、神の言葉を聞きたいから、もう一度深く神と交わりたいから、という思いもあったでしょう。けれども、続けて読んでいくと分かることですが、これまでのエリヤだったら感じることのなかったような、神に対する不信感が生まれていたのではないだろうか。自分はイゼベルに命を狙われているけれども、神さまは本当に守ってくれるのだろうか。これまではカラスややもめに養われることがあったけれども、神さまは本当に自分をイゼベルから守るつもりがあるのだろうか。そのような小さな不信感が、エリヤの中でふつふつと沸いていたのだと思います。
エリヤは40日歩きました。ここに至るまでも、相当歩いているのです。そこからさらに歩き、とうとうホレブの山まできました。当然エリヤもここがただの山ではないことを知っています。偉大な信仰の先輩であるモーセが、ここで二枚の板、十戒をさずかったのです。エリヤは何事かを期待して、ここまで来たと思うのです。しかし彼は祈るでもなく、祭壇を築くでもなく、すっかり洞穴に閉じこもってしまいました。勿論、野生動物から身を守る必要があります。寒さや夜露をしのぐことも必要でしょう。けれども、これはエリヤの心のうちをあらわしていると思います。誰とも交わりたくない、1人にしてほしい。神の山ホレブに来ていながら、神との交わりを拒もうとする。姿を隠しながら、しかし構ってほしいとアピールしているようでもあります。「エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。」とありますから、しばらくは神さまもご覧になっていたのでしょう。エリヤが自ら出てくることを待っていたかもしれません。夜を過ごしたとありますから、夜も更けて、明け方近くになっていたかもしれません。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」ついに神の言葉がエリヤに臨みます。「何をしているのか。」聞くものによって180度印象が変わる言葉です。こんな時に、こんなところで、お前という人間は何をしているのか、と責められているように感じることがあります。こんなことをしている場合じゃないだろう、という意味を含んでいることがあります。一方で、あたたかいまなざしが注がれる時があります。そんなのは見れば分かる、という状況であっても、自分が愛する人には「何をしているの」と聞かずにはいられなくなる時があります。自分が大切に思っている人の口から、その言葉を知りたいし、共有したい。その時間や思いを分かち合いたいと思うからです。
神さまがどちらの意味で、つまりエリヤを責めるようなつもりで「何をしているのか」と言ったのか、愛情を込めて「何をしているのか」とたずねたのか、それは分かりません。しかし神さまがエリヤに並々ならぬ関心を抱いている、ということだけは確かなことです。神さまはどこまでも私たちを探し求め、言葉を交わしあい、その思いを分かち合いたいと強く願っておられるのです。40日歩き続けてホレブの山に来たのに、洞穴に入り込んでいたエリヤでしたが、「ここで何をしているのか」との言葉を聞くと、待ってましたとばかりに答えます。やはりエリヤは神との交わりを求めていたのだ、ということが分かります。孤立無援で、精一杯預言者としての務めを果たしてきたこと。自分のためではなく、神のために、イスラエルの民のために働いてきたこと。しかしイスラエルの人たちがちっともバアル信仰から離れないばかりか、祭壇を壊し、主の預言者たちを殺してしまったこと。自分はたった一人で取り残されて、この最後に残った私も、今、イゼベルに殺されようとしていること。エリヤの答えは「今自分が何をしているか」ではなくて、「これまで自分が何をしたか」ということでした。同時に、神が何をしてくれなかったか、ということを訴えているようでもあります。あのバアルの預言者との対決の時のように、神さまが力を貸してくださればイスラエルの人たちはいとも簡単に悔い改めるのに。神さまが守ってくだされば、主の預言者たちがみすみす殺されるようなことはなかったのに。神さまがその御手を伸ばしてくだされば、自分がイゼベルから命を狙われることもなく、いともたやすくイゼベルを神さまの前にひざまづかせることができるのに。
エリヤの言葉の端々には、神さまへの不満が感じられます。しかし本当に不満があってもう神さまには従いたくないと思っているのだったら神の山ホレブまでは、わざわざやってこないはずです。エリヤは慰めを求めていました。神との交わりを求めていました。これまでの働きを認めてもらいたかったし、ねぎらってほしかった。神さまに慰めを求めるのは間違ったことではありません。人に慰めを求めるよりも、より健全なことかもしれません。しかし私たちは神に慰めを求めようとする中で、実は神を支配しようとしているのかもしれません。神さまなんだから私を慰めてくれて当然だ。私が願うような仕方で、私を慰めてほしい。神に従うべき存在である人間が、神を従わせようとしてしまう罪です。神は主の前に立つことをエリヤに求めます。ここではエリヤの罪を問うことをしません。神がなさったのは数々の奇跡を見せることです。激しい風、地震、そして燃え盛る炎。エリヤが願っていたような奇跡を、神はいともたやすく次々と繰り出します。バアルとの戦いを思い起こさせます。これこそエリヤが願っていたのもです。この奇跡さえあればイスラエルの人は瞬時に悔い改め、預言者が殺されることはなかったのです。エリヤ自身も命が狙われることはなかったのです。圧倒的な神の勝利です。しかしそれらはあくまでしるしであって、神ご自身ではありません。やがてそこに静かなささやく声が響きます。この声こそが神ご自身です。声によって、神はご自身をあらわすのです。神に出会うということは、神の前に立つということは、この神の声を聞くということなのです。風に吹き消されてしまような静かなささやく声を聴き取ることこそが、私たちが日曜の朝に教会に集まって成し遂げようとしていることなのです。
13節には、静かなささやく声を聞いたエリヤがようやく洞穴から出てきたことが記されています。11節で主の前に立ちなさい言われて、神は次々としるしをお見せになりますが、その時点ではまだエリヤは洞穴の中にいたようです。静かなささやく声を聞いて、エリヤは洞穴から出てくることができるのです。ようやく主の前に立ち、神の言葉を聞く準備が整ったのです。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」神はさきほどと同じ問いを繰り返します。そして答えるエリヤの内容も、先ほどと全く同じです。せっかく洞穴から出てきたのに、エリヤは全く進歩がないのでしょうか。神さまへの恨み節を、また繰り返しているのでしょうか。言葉は全く同じですが、しかし中身は違うと思います。何故ならエリヤは聞く、という体制が整っているからです。エリヤ自身が語ってはいますが、語りながらも神の言葉を聞くという状態が整っているから、先ほどの繰り返しにはならないのだと思います。神さまなんだから私を慰めてくれて当然だ、という姿勢でエリヤは訴えているのではなくて、私はあなたの慰めの言葉を聞きたいのです、と願いながら語っているから、言葉は同じでも中身は違うのです。このエリヤの訴えに対する神さまの直接の答えはありません。これまでのエリヤの働きに対するねぎらいの言葉もなければ、今後あなたの命が守られる、という約束もありません。あるのは預言者としてエリヤを召し出した、その召命の確認です。召命の更新、と言ってもいいかもしれません。
エリヤに与えられた新しい使命は次の3つです。外国の、アラムの王に油を注ぐということ。その敵となるイスラエルの王に油を注ぐということ。そして後継者であるエリシャに油を注ぐということ。神の前に立ち、聞く状態になっているエリヤは、ここからたくさんのことを読み取ります。バアルとの戦いは続く、ということ。エリヤはその結末を見ることはない、ということ。これは結末を知らなくてもよい、ということにもつながります。そして後継者が立てられるということは、エリヤの働きが決して無駄ではなく、確実に引き継がれていく、ということ。何よりも、エリヤの働きが無駄ではなかった、神さまはエリヤに失望はしていない、ということが、エリヤにとって最大の慰めだったに違いありません。エリヤは疲れ切っていました。神さまの慰めを求めているのに、素直になることができない、わがままな子どものようでもありました。神さまはエリヤをご自分の前に立たせ、エリヤ自身が何者であるか、もう一度見つめなおす機会を与えます。そこでエリヤは再び神の言葉を聞くことができるようになり、新たな力を得て、最後かもしれない務めへと赴いていくのです。私たちも日曜日ごとに主の前に立ち、「あなたはここで何をしているのか」を問われています。答えるべきは「私が何をしたか」ではなく、「神が何をしてくれなかったか」でもありません。ただここで静かにささやく神の声を聴き取ることが求められている。ひときわ目をひく奇跡の中にではなく、静かにささやく声の中にこそ神のご臨在があり、そこにこそ私たちを生かす言葉があるからです。次週より新しい暦、アドベントに入ります。ニュースや噂話にまどわされずに、静かにささやく声を日曜日ごとにたずね求めながら、主のご降誕を心から待ち望みたいと思います。
<祈り>ご在天の父なる神さま、教会歴の最後の日、終末主日を迎えました。この一年も数えきれない恵みをいただき、守られたことを感謝いたします。祈るべき時に祈らず、愛するべき時に愛さず、沈黙するべき時に沈黙できなかった愚かな僕ではありますが、今朝もこのようにあなたの御前に立たせていただけることを感謝いたします。エリヤのような立派な働きにはおよびませんが、どうか聖霊を送り、私たちをふさわしい持ち場へと遣わしてください。あなたに喜ばれる歩みをなすことができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
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