12月29日の礼拝の内容です。

礼拝

12月29日の礼拝 讃美歌は、231.261.247.259.39‣6です。

礼拝説教   ルカ2:15~21「主イエスの名を呼ぶ」(小椋実央牧師) 2024.12.29

2024年、救い主イエス・キリストの誕生をお祝いする降誕祭主日、クリスマスを終えまして、その次の主日、降誕後第一主日を迎えました。ろうそくに一本ずつ灯りをともしながら、アドベント、待降節を過ごして、先週よりようやく降誕節に入りました。2024年のアドベント、そしてクリスマスはみなさんにとってどんなものだったでしょうか。今年は数年ぶりに、おそらくコロナ以降初となるのではないかと思うのですが、数年ぶりに教会学校のページェントを復活しまして、10月頃から練習を重ねてきました。何しろ全員揃ったのは本番だけですから、今日はマリアがいない、今日は天使がいない、博士がいないという状況で、毎回教師が入れ替わり立ち代わり違う役を演じてきました。しかし結果として、これが一番私にとってはクリスマスの準備になったなぁ、という気がします。イエスさまのご降誕を自分の口で語って、耳で聞いて、目で見て、五感で味わいながら2か月間を過ごすことができました。これが私にとって、イエスさまのご降誕をお祝いするための、丁寧な準備期間になりました。

そして教会学校の礼拝では、毎年アドベントに入りますと、クリスマスの主要な登場人物を一人ずつとりあげていきます。マリアから始まって、今日はヨセフ、今日は羊飼い、博士という具合です。そうしますと、その役にあたっている子どもは、「今日のお話は自分に関係あるお話だぞ」という気持ちで、目をきらきらさせて説教を聞いているんですね。そういう子どもたちと一緒に礼拝を守らせていただくことも、またクリスマスまでの素晴らしい準備の時となりました。というわけで先週22日にクリスマスをお祝いした時点で、ピークを迎えたといいますか、達成感と言いますか、例年にない盛り上がりを個人的には感じていました。ここからが、いよいよ御子イエス・キリストのご降誕を祝う本番と言いたいところですが、年末の慌ただしさに飲み込まれてしまうのは、どなたも、どこのご家庭でも同じような状況ではないかと思います。ただ、世の中がそうであっても、教会はしぶとくクリスマスにこだわって、せめて今日だけは、せめて礼拝だけは、御子イエス・キリストのご降誕に思いを馳せて、先週に引き続き今週もクリスマスの祝いの時を、クリスマスの恵みを共に分かち合う時を持ちたいと願っています。

今日開かれましたみ言葉は、クリスマスにおなじみの、そしておそらく今年も何度か開かれたであろう聖書の箇所です。天使の言葉に促されて、羊飼いたちがベツレヘムの馬小屋に寝かされている、幼子を探しにやってきます。羊飼いは通常羊を世話するために雇われていましたから、ベツレヘム周辺の馬小屋のことはだいたい頭に入っていたようです。その記憶をたどりながら、一軒ずつ訪ねていって、すぐに見つけたのか、そうではなかったのか、詳細は分かりませんけれども、しかし自分たちで探し当てました。そこにはマリアとヨセフ、そして幼子である主イエス、そして羊飼いの話を聞いた人々がいた、と聖書は記しています。(17節)この馬小屋の主人でしょうか。深夜に人が訪ねてくる気配を感じて起き出してきたのでしょうか。それとも、マリアの出産を手助けしてくれた心優しい人がいたのでしょうか。よく分かりませんが、名もなきベツレヘムの隣人たちが羊飼いがやってきて話してくれたことを、受け入れはしなかったかもしれませんが、出来事として心にとめてくれていたようです。羊飼いたちは心高らかに、神を賛美しながら帰っていくのでした。

聖書はここで終わらずに、8日経って、8日目に幼子がイエスと名付けられた、と記しています。本日、降誕後第一主日としてご一緒に読もうとしておりますのは、この羊飼いの出来事ではなくて、その後のほんの数行しか記されていませんが、イエスと名付けられたのだ、というこの部分に注目をしてみたいと思います。本日ここで礼拝を守っておられる方の中で、或いはYouTubeでご一緒に礼拝を守っておられる方の中で、イエスさまのお名前がイエスであることについて疑問を持つ方はほとんどおられないのではないか。誰もが気が付いた時からイエスさまは最初からイエスというお名前だったから、その由来について考える、という機会はなかなか少なかったのではないかと思います。まずイエス、という名前についてですけれども、今となっては世界一有名人の名前になってしまいましたけれども、当時は、そしておそらく現在もそうでしょうけれども、イスラエルではごく一般的な名前で、これと言ってめずらしくもなんともない平凡な名前なのだそうです。ちなみに2024年日本の男の子の名前ランキング1位は「はると」でした。 きっとイエスさまの時代に人気の名前ランキングを集計したら、間違いなくイエスが一位になるだろう、それぐらいどこにでもある名前です。イエスというのはギリシャ語読みでして、正しくはヨシュアと発音します。旧約聖書に登場するモーセの後継者、カナンの地にイスラエルの民を率いて入った指導者のヨシュアと同じです。

そして、聖書に出てくる人物のほとんどが、名前に意味がこめられているように、ヨシュア、にも勿論意味があります。それは神は救いである、という意味の名前です。この名前はすごく人気があって、おそらくナザレ村には何人もヨシュアくんがいて、大工のヨセフのところのヨシュアと呼ばれて育ったのだと思います。やがて成人して、主イエスが十字架におかかりになる時、1人の囚人が過越祭の恩赦によって釈放されますけれども、それはバラバ・イエスという同じイエスという名前の人物であった、ということもマタイ福音書に記されています。それぐらいイエスというのは非常にありふれた名前だったわけです。さてそのイエスという名前ですけれども、マリアがお腹の中にいる時から「ヨシュアくん、ヨシュアくん」と呼びかけていたような記述はどこにもありません。もしかするとお腹の子に名前をつけて呼び掛けるというのは、比較的安全に出産できるようになった近代の習慣であって、古代、子どもはおろか、母親さえも出産時に命を落とすようなことがあった時代にあっては、考えられないことだったのかもしれません。

とりわけユダヤ社会では、女の子についてはよく分からないのですが、男の子の場合、生まれて8日目の割礼の儀式と名付けの儀式はセットで行われたようでして、生まれて7日間は名無しで過ごして、勿論両親の頭の中ではこういう名前にしようというアイディアはあるのでしょうけれども、8日目の割礼と命名の儀式によって正式にユダヤ社会のメンバーとして加えられる。ですから母親の胎内から出てきたいわゆる誕生日よりも、ユダヤ社会にデビューする8日目の割礼と名付けの日のほうが、盛大にお祝いされていたようです。事実、主イエスより半年早く生まれた洗礼者ヨハネは、母親同士が、マリアとエリサベトが親類関係にあったようですけれども、このヨハネの割礼と名付けの時には親戚はおろか近所の人々が集まった、とルカ福音書の1章に記されています。それだけユダヤ社会では割礼と名付けの儀式が大事にされていた、ということが分かります。一方で、主イエスの割礼と命名の儀式はおそらく両親2人だけ、というなんとも寂しいものでした。ベツレヘムはヨセフの故郷であるはずなのに、泊めてくれる親戚がいないばかりか、子どもの誕生を祝ってくれる親戚もいない。一体ヨセフの親族にはどういう経緯があってベツレヘムに一人も残っていないのか。何故ヨセフはベツレヘムを離れてナザレの田舎町で大工をしていたのか、色々と疑問に思うところはあるのですが、いかんせん手がかりが何もないのでわかりません。分かっているのは親類縁者も少なく、おそらくまだ結婚式も挙げていないであろうヨセフとマリアが、しかしユダヤ教の儀式である割礼やこの後に記される清めの儀式など、まつりごとをきちっと守りながら幼子イエスを育てていこうとする姿に、両親としての気概のようなものを感じます。

さて、生まれて8日目の割礼と名付けですけれども、割礼はさておき、今日は名前について注目してみたいと申し上げました。さきほどから、イエス、ヘブライ語でヨシュアという名前はごく一般的なありふれた名前であったと繰り返していますが、ヨセフが考えた名前ではなくて、天使から示された名前である、ということが重要です。つまりイエスさまの名付け親は神さまだ、ということです。ヨセフとマリアは、それぞれ別の機会に天使から幼子イエスについて聞かされていました。お腹の子は聖霊によって宿ったということ。そしてその子をイエスと名付けなさい、ということ。この件について、きっと二人は何度か言葉を交わしたことでしょう。一度はこの結婚について、なかったことにしようとまで考えたヨセフのことです。穏やかな話し合いの日ばかりではなかったかもしれません。互いに背中を向けて眠り、枕を涙で濡らした夜もあったことでしょう。しかし最終的にヨセフは婚約者であるマリアを故郷に連れて行き、家族として一緒に住民登録をしました。そしてユダヤ人として一番最初の大切な儀式の日に、天使から示されていたイエスという名前をつけたのです。神さまからお預かりした大切な幼子、やがて救い主として成長するであろう神さまの大切な子どもを、この私が、このヨセフが確かに引き受けました、という、ヨセフの並々ならぬ決意のようなものを、このたった数行の聖書のみ言葉から伺い知ることができます。ここに至るまでの道のりはヨセフにとって決して平たんではなかったと思います。しかし、ユダヤ教を信じる一人の素朴な男性によって、ヨセフによって、マリアと幼子イエスの命が守られて、全人類の救いの道が開かれたということを思う時、このたった3行足らずの記事はなかなか重みがある、と思うのです。

今回、主イエスの名前に注目したい、と思ったきっかけの一つは、そもそもマリアが幼子イエスの名前を呼んだのか、ということです。聖書は主イエスの全体の生涯に対して、割と長めに誕生記事に分量を割いていますが、両親が、マリアとヨセフが主イエスの名を呼んだ、という場面は見当たりません。あれだけマタイ福音書にも、ルカ福音書にも、生まれてくる子はイエスと名付けなさいと書いてあって、2人はその通りにするのですけれども、実際にマリアとヨセフがイエスと呼んだ、という出来事は聖書には記されてはいません。おそらく書いていないだけで、マリアもヨセフも、イエスさまの小さな弟や妹たちも、近所の人たちも、数えきれないぐらいその名前を呼んだことでしょう。しかし不思議とそういう場面は聖書には全く記されてはいません。それならば誰が主イエスの名を呼んだのでしょうか。律法学者でしょうか。大祭司でしょうか。それとも死刑の判決を下したポンテオ・ピラトでしょうか。彼らでもありません。彼らは「お前はメシアなのか」「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問するばかりです。主イエスの名前を呼ぼうとはしないのです。誰が主イエスの名前を呼んだのでしょうか。すぐに思い出されるのはこの言葉です。「ナザレのイエス、構わないでくれ。」悪霊に取りつかれて、墓場につながれていた人です。或いは「イエスさま、先生、どうか私たちを憐れんでください。」遠くから大声をはりあげた、重い皮膚病を患っていた人たちです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」エリコの近くで大声を張り上げたのは目の見えない人です。

もう、これ以上例を挙げる必要はないかと思います。主イエスの名前を呼んだのは、心から救いを求める人たち。心から病の癒しを求める人たちです。どこにも助けを見出せず、誰にも頼ることができず、しかしこのお方こそが私を救って下さる、このお方が救って下さらなければ自分は生きることができないと信じて、一生懸命主イエスの名前を呼ぶのです。そのことは、主イエスが名前を呼ばれるものになってくださった、ということです。神であるお方が、低くへりくだって、私たちに繰り返し名前を呼ばれる存在となってくださったのです。年末の慌ただしい中ではありますが、教会では降誕後の第一主日、クリスマスの祝いの時が続いています。クリスマスは救い主イエス・キリストがこの罪多い世界に、幼子の姿となって、生まれてくださった。そのことをお祝いする時です。そして、本日の聖書箇所から導かれるとすれば、主イエスの名前を呼ばれることを望んでくださって、そのことを喜んで受け入れてくださっている。私たちが主イエスのお名前を呼ぶことを、とても喜んでくださっている。クリスマスはそのことを改めて確認する日でもあります。

ですから私たちは大いに主イエスの名を呼んでほめたたえの歌を歌い、主イエスの名によって祈りをささげたいと思います。クリスマスはその喜びを伝える時でもありますから、共に主イエスの名を呼ぶものが新たに起こされることを願い、私たちそれぞれが与えられた伝道の地に赴いていきたいと思います。何よりも瀬戸永泉教会が主イエスの名を呼ぶ器としてこれからもふさわしく整えていくことができるように、主の導きを祈り求めて、クリスマスの喜びの中で新しい年2025年をご一緒に迎えたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。2024年のクリスマスの喜びの日が与えられ、本日、2024年最後の主日礼拝を守ることができました幸いを感謝いたします。今この時も悲しみ、痛みの中にあり、あなたの名前を呼ぶことすら知らない人々の心に御手をのばしてふれてくださいますように。願わくは、新しい年2025年が希望と喜びにあふれ、あなたの御心にかなったものでありますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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