1月26日の礼拝の内容です。讃美歌は、17.490.519.532.88です。
礼拝説教 列王記下2:1~14「エリヤの外套」(小椋実央牧師) 2025.1.26
2025年最初の月、1月の最後の主日を迎えました。つい先日まで、会う人に「あけましておめでとうございます」とあいさつを交わしていたばかりですが、すでに1年の1/12を終えようとしています。
先日車の中でラジオを聞いていましたら、「2月の挑戦」というテーマで視聴者から投稿をつのる、という番組をやっていました。もう何度も挑戦しているけど英会話をやりなおしたいとか、しばらくさぼっていた自炊を頑張るとか。途中からその番組を聴き始めたので、どうしてテーマが「2月の挑戦」になったのか。もしかすると受験シーズンだから、なのかもしれませんが、それとは別に2月だからこそ挑戦したい、という気持ちは分からないわけでもありません。今年こそはこれを頑張ろうと思っていたけれどもやりそびれてしまった。出遅れてしまった。或いはなんとなく年越しをしてしまったので、何も新しいことに挑戦する間もなく1月が終わってしまう。私自身はどちらかというと後者のタイプですが、そのような、どことなく挑戦しそびれてしまった人たちへの救済措置が「2月の挑戦」なのではないかと思うのです。
教会の暦は待降節から降誕節へ、主イエスの誕生を祝い、主イエスのご生涯に思いを馳せる時を過ごしています。そして3月の5日が灰の水曜日、レント、受難節を迎えて、4月20日、4月の第三主日にイースターを迎えます。私たちも主イエスのご生涯をたどりながら、ささやかな信仰の挑戦を積み重ねてご一緒にレント、イースターへと向かう旅路を共に、ゆっくりと、しかし確実に一歩ずつ歩みを進めて参りたいと思います。
今年度、月の最後の主日だけですが、私が講壇をお引き受けする時には預言者の一人であるエリヤの物語を読み続けていました。主要な部分は大半読み終えてしまって、もうエリヤは終わってもいいかなと思ってはいたのですが、やはり、エリヤの最後がどうだったのかが気になる。最後の部分を読まないと、どうにもしまりが悪い気がしなくもないので、本日はエリヤの地上での最後の部分を呼んで、4月から始まったエリヤの物語を今日で閉じさせていただこうかと思います。
旧約聖書の列王記、という書物を読んでいます。ざっくりとしたおさらいをしますと、イスラエルの人々がモーセに率いられてエジプトを脱出、40年の旅をへてカナンの地へと到着します。しばらくの間、人々は部族連合、イスラエル12部族と呼んでいますが、国という制度を持たずに、問題が起きた時にはその都度預言者であったり、士師と呼ばれる人物が活躍したりして生活を維持していきます。やがて人々は王を求めるようになって、サウル、ダビデ、ソロモンと続くイスラエル王国が誕生します。聖書で言いますと、サムエル記、列王記のあたりです。ところがこのイスラエル王国は、ソロモンの息子の代で北と南に分裂します。イスラエル王国といっても面積は日本の四国ぐらいの広さしかありませんので、それを二つに分けるとなると、高知県と徳島県をあわせたぐらいの大きさしかありません。やがてこの小さな二つの国は始めに北王国が、続いて南王国が、外国の勢力に滅ぼされてしまいます。この時南王国の人たちがバビロニアに連れていかれた「バビロン捕囚」という言葉は、世界史を習っていなくても、教会で繰り返し聞く言葉の一つではないかと思います。今私たちが読んでいるエリヤの物語は、この王国が分裂した、つまり四国ぐらいの大きさの国を二つにわけた、そのわけたうちの北王国での物語です。この頃北王国では、アハブ王とその妻イゼベルによって、バアル宗教が推進されて、人々は不信仰に陥っていました。多くの預言者仲間が殺されてしまって、エリヤは残された主の預言者の一人として孤軍奮闘をする。それがエリヤの物語の大まかな出来事でありました。
「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。」聖書はエリヤの生涯の最後の場面を描こうとしています。ここで出てくる嵐という言葉は聖霊の霊と同じ言葉です。
牧師になるのに最大の難関は、勿論神さまの召命があるかないか、という重要なことは脇に置いておいて、ギリシャ語、ヘブライ語の勉強ではないかと思います。旧約聖書は元々ヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれているので、神学校では当然ヘブライ語とギリシャ語を学ばないといけない。ぺらぺらと喋れるようになる必要はありませんが、最低限、自分で辞書をひいて調べるぐらいの力は身に着けないといけない。辞書をひくためには、アルファベットの順番を覚えること、文章を見た時にこれが動詞なのか、名詞なのか、冠詞なのかをだいたい見分けること、でしょうか。手っ取り早い勉強は、とにかく単語をたくさん覚えること。これは英語の勉強でも同じことかもしれません。単語をたくさん知っていると、文法が分からなくても、文章を見た時に、なんとなくの内容が分かる、ということがあります。ところがヘブライ語はギリシャ語に比べてとても単語数が少ないのだそうです。初めこのことをヘブライ語の先生から聞いた時には、覚える単語が少なくて、なんて楽なんだろうと思ったのですが、それはぬか喜びで大間違いでした。1つの単語を色んなところで使いまわしているので、どういう意味なのか前後を読まないと訳すことができない。みなさんもどこかでお聞きになったことがあるかもしれませんが、詩編などにでてくる「ほめたたえる」という言葉は、感謝をする、告白する、言い表す、など色んな訳し方ができる単語でもあります。神さまをほめたたえることは神さまに感謝をすることでもあり、神さまに告白をすることでもある。前後の流れを見て、新共同訳聖書では「ほめたたえる」と訳していますが、実は色々な訳し方をすることのできる言葉でもあります。
そして、「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。」で出てくる嵐という単語は聖霊の霊、という時にも使いますし、神さまがアダムに息を吹き込んだ、という時の息もやはり同じ単語を使いまわしています。聖書では聖霊の霊も、嵐も、風も、そして吸ったり吐いたりする息もすべてルーアッハという同じ単語であらわされています。風も霊も同じ言葉です。嵐というとどことなく自然現象、災害のような、よくないイメージがあるかもしれませんが、この出来事が神によって起こされたこと。神の霊がエリヤの終わりの時を定めて天に召したのだ、ということが分かります。エリヤはエリシャを連れて、ギルガルからベテル、エリコ、ヨルダン川のほとりへと3回場所をうつします。その都度エリシャにその場所に残るようにと命じますが、エリシャはしつこくエリヤについていきます。このエリシャという若者は、エリヤがバアル預言者と戦った後、ホレブの山で身を隠していたのですが、その後に畑で働いていたエリシャにエリヤが自分の外套をなげかけて、エリシャを預言者として召し出したという物語があります。その後エリシャはエリヤの弟子の1人として、エリヤに付き従っていたと思うのです。
後から分かることですが、エリシャは祝福を受けたいと願っていて、エリヤの命令にことごとく反発をしてエリヤの行くところについていきます。ベテルでもエリコでも預言者仲間という人たちが出てきて「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとしているのを知っていますか。」と繰り返し言われていることから、若いエリシャにはエリヤとの別れが迫っていることが分かっていました。ここに残りなさい、と言われるのに、「いいえ、わたしはあなたを離れません。」と言ってエリシャはしつこくついていきます。ヤコブ物語を思わせるようなしつこさです。ヤコブは兄弟エサウとの再会を前にして、恐れの中で神と格闘するのです。神が「もう去らせてくれ」と願うのに、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と言って、離そうとしないのです。そのヤコブのしつこさとエリシャのしつこさはとてもよく似ています。日本に住む私たちに足りないのはこういう粘り強さかもしれません。こんなにしつこくしたら相手に失礼ではないか、と遠慮をしてしまう。自分がよく見られるかどうか、ということよりも、本当に大事なものを熱心に求める続けることのほうが、優先されないといけない時もあるのです。
ことごとくさからってきたエリシャを連れたエリヤは、いつの間にか川のほとりに立っています。エリヤは外套を丸めて水を打ちます。かつて農作業に従事していたエリシャに投げた外套です。すると水が分かれて乾いた大地が現れます。モーセの出来事を思い出します。エジプト軍が迫ってきた時、モーセが海を二つに分けてイスラエルの人たちはそこを通って難を逃れるのです。それと同じように、エリヤとエリシャも水が分かれてできた道を通って行きます。モーセの時と違うのは、敵が追ってきているわけではない、ということです。別に川を渡らなくても、命を狙われているわけではありません。あるとすれば、エリヤの終わりの時が迫っている、というだけです。この出来事は50人の預言者仲間が見ていました。50人もヨルダン川までついてきていたのです。しかし川を渡るのは、エリヤとエリシャだけです。こうも考えることができるかもしれません。エリヤとエリシャはあえて川を渡る必要はなかった。しかし二人だけで話し合うために、その時と場所を提供するために、あえてエリヤは川を二つに割って向こう岸に渡ったのではないでしょうか。2人きりになった時に、ようやくエリヤはエリシャの願いを聞きます。「わたしがあなたの元から取り去られる前に、あなたのために何をしようか。なんなりと願いなさい。」エリシャは「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください。」と答えます。当時、一家の長である父親が亡くなった時には、長男は他の子どもたちの二倍を受け継ぐという決まりがありました。つまりエリシャの願いは、わたしをあなたの長男にしてください、というものでした。
エリヤには子どもがいなかったようではありますけれども、ヨルダン川のほとりで50人をあちら側に置いてエリシャを連れてきた、という時点で、すでにエリシャのことを特別扱いしているように見えます。ちょうどイエスさまが12弟子の中でペトロとヤコブとヨハネを重要な場面に、例えば幼い子どもをよみがえらせるような場面に立ち会わせているのと似ています。しかしエリシャはこの程度では満足しませんでした。とてもしつこいのです。エリヤから言葉ではっきりと、あるいは形ではっきりと受け継がないと、満足することができない。エリヤはその願いについて神に委ねます。エリシャをエリヤの後継者にするかどうかは神さまがお決めになることです。「わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければかなえられない。」エリヤの答えは無責任のようではありますが、神への信頼から出た言葉です。エリシャがエリヤと共に神の出来事に立ち会うことができるなら、あなたは私の後継者に、イスラエルの預言者として立つことができるだろう、という言葉です。エリヤが話し終わってそれほど時間もたたないうちに、その時がやってきます。火の戦車と火の馬が現れて、瞬く間にエリヤは連れ去られてしまうのです。エリシャは叫びます。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」奇しくもこの言葉は、エリシャ自身が召される時も同じ言葉で呼びかけられます。(列王記下13:14 p600)全く同じということは、当時、1人の人間が召される時にわりとよく使われる言葉だったのかもしれません。馬でひく戦車は、当時最大の軍事力でした。さきほどのモーセに率いられたイスラエルの人たちがカナンに入っていった時には歩兵部隊しかなかったのです。やがて王国時代を経て、イスラエルの人たちは戦車を持つようになりました。戦車は国の強さと豊かさの象徴です。その戦車に例えられるということは、預言者は国を守る防衛の要だということです。1人の預言者が一つの国の将来を左右するほどの力がありました。
突然にエリヤを取り去られたエリシャは自らの衣を引き裂きます。時折聖書に出てくる衣を引き裂くという行為は、強い悲しみや怒り、悔い改めや喪に服することの表現です。今日よりも衣服の価値が高い時代です。破れたからといってすぐに次の服が手に入るわけではありません。だからこそ、衣を裂くというのは、強烈な感情のあらわれです。そのエリシャのもとに、一張羅の衣を傷づけてしまったエリシャのもとに、エリヤの外套が落ちてきます。エリシャはそれを拾い上げます。エリシャはさきほどエリヤがやったのと同じようにその外套で水を打ちます。「エリヤの神、主はどこにおられますか。」これまで、あんなにしつこくエリヤにすがってきた1人の若者でした。わたしはあなたを離れません、と言ってエリヤについてきたエリシャです。しかし、もはやエリシャはエリヤには頼りません。「エリヤはどこにおられますか」とは言わないのです。「エリヤの神、主はどこにおられますか。」と言うのです。さきほどエリヤと二人で渡ってきた川を、エリヤの外套を片手に歩きます。主はエリヤの時と同じように川を二つに分けることで、エリシャの問いに応えます。主が共にいてくださることを確信して、エリシャの預言者としての歩みがここから始まります。エリヤからエリシャへ、美しい交代劇です。
本日の説教題は「エリヤの外套」としました。そもそも「外套」という言葉が死語になりつつある。直訳をするとマント、になるようですが、今日で言うところのコートとか、上着のようなものとして想像をしながら、本日の箇所を読みました。聖書の中で親から子へ、或いは新しい王から次の王へ、変わる時に、何か物が引き渡されるのは珍しいのではないかと思います。アブラハムからイサクへ、ヤコブへと祝福が取り次がれるのは「言葉」が大事になってきます。サウル王からダビデ王、ソロモン王へという時にも、何か王さまらしい、これさえあれば王たることを宣言できるというものが継承されるわけではありません。となると、エリヤからエリシャにエリヤの外套が引き継がれるというのは聖書の中では比較的珍しいことかと思います。本日の箇所を調べていく中で、出典をたどることはできなかったのですが、外套でくるむ、マントでくるむことで、子どもを自分の養子とする意味がある、ということも見かけました。もしかするとエリヤの外套をエリシャが引き継ぐことで、エリヤの養子となった、エリヤの後継者となった、ということを表していたのかもしれません。単なる偶然ではあるでしょうけれども、エリヤとの別れに際して悲しみのあまりに引きちぎった自分の衣のかわりにエリヤの外套が与えられた、と読むこともできます。エリシャの悲しみが、結果としてエリヤの力を受け継ぐ備えとなった。絶望の中に、エリシャが最も望んでいた喜びが備えられていた、と言うこともできます。残念ながら私たちにはエリヤの外套という目に見える上着はありませんが、イエス・キリストという新しい衣を、目に見えない外套をいただいています。古い自分を切り裂いて、過去を断ち切って新しく着せていただく衣です。別れの悲しみを乗り越えて、しがらみや執着を手放して、イエスさまに着せていただく、新しい命が輝いている衣です。私たちはこの新しい衣を着せられているから、「主はどこにおられますか」と日曜日ごとに繰り返し問うことができるのです。神さまはエリシャに応えたのと同じように、「私はここにいる」と応えてくださいます。主イエスが命をかけて着せて下さった衣をまとっているから、私たちは神さまと共に、どんな困難な道も歩んでいくことができるのです。1月の終わり、2月を迎えようとするこの時に、私たちはイエス・キリストという新しい衣のボタンをしっかりとしめて、2025年の旅路を共に歩んで参りましょう。
<祈り>ご在天の父なる神さま。列王記、エリヤの物語をあなたに導かれて、愛する兄弟姉妹と共にひも解くことがゆるされましたことを感謝いたします。あなたに選ばれ、ここに召し出されている私たちが、いつもみ言葉に堅く立って、あなたが共にいてくださることを信頼して2025年の旅路を歩んでいくことができますように。あなたからの尽きない恵みに感謝して、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
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