2月16日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.197.431.517.26です。
礼拝説教 申命記8:1~8 ルカ4:1~12「誘惑を受ける主」説教要旨 2025.2.16
イスラエルの民はモーセを指導者としてエジプトを脱出し、シナイの荒れ野で40年の間、旅を続けました。その間、食料や水が不足したことで「なぜ自分たちを荒れ野に連れ出したのか。エジプトで奴隷状態にあった時のほうが食べ物にも飲むものにも不自由はしなかったのに」と不満の声をあげる者も多くあったと言います。
私たちも「昔のほうが良かった」と後ろ向きの姿勢になってしまうことがしばしばあります。それは現状が自分にとって生きづらく、それに較べると昔のほうが良かったと過去を懐かしむからであります。たとえば、若い時には今よりもっと何でも出来た、あれもこれも何にでも積極的に取り組むことが出来たという思いで今の自分を見ると、何と出来なくなっていることが多いのかと失望し、自分がダメになってしまったと嘆息をつくようになることも年を取ったものの常でしょう。
しかし、そのような後ろ向きの姿勢になっている時、私たちは過去を美化しているのです。確かに若い時は元気で健康で何でも出来るという活力に溢れていたとしても、その頃は若さに任せてやっていたことが、かならずしも周りの人にとって良かったかどうかといえば、むしろ迷惑をかけたり人を傷つけたりしたことが多くあったのではないか、しかも、それに気づかずに過ごしてきたのではないでしょうか。年を取って、若い時のように出来ない自分に失望することも、かえって、そういう若い時に気づかなかった自分の過ち多い欠けや弱さに満ちた姿が分かってきた証拠だともいえるのではないでしょうか。
申命記の言葉に「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」とあります。パンがない、水がないと不満を漏らす民に、神様は毎朝マナという不思議な食べ物を天から降らせたのでした。そのマナは民が一日を過ごすのに十分な量与えられ、また毎日その1日分しか与えられなかったと言うことです。毎日、マナは昨日と違う新鮮なマナとして与えられたということなのです。
聖書の言葉も、このマナのように、若い時に読んだ印象と、年を重ねてから読む受け取り方が、その時代、その状況の違いによって全く異なっていることが多い、そのように若い時と年齢を重ねてからの味わい方が違うのではないでしょうか。40年の試練の旅を通し、毎日毎日マナを与え、神様は不忠実で愚かな人間を神様の恵みを受けるに相応しい信仰者へと成長させてくださったのです。試練は厳しい辛いものというイメージがありますが、ルカ福音書でイエス様が受けたのは誘惑という「甘い言葉」でありました。イエス様は40日間断食という厳しい試練を経験された後、悪魔に「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と囁かれたと言うのです。悪魔はイエス様が神の子であり、どんな奇跡も起こせることを知っていたのです。しかしイエス様は「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」という申命記の言葉を引用し悪魔の誘惑を退けられたのです。イエス様は神の子として奇跡を起こす力を持つ方としてではなく、ただ神様から与えられたマナを食べ、旅を続けた民のように「愚かな弱い」人間の一人として生きるべきことを、この申命記の言葉から示されたのでしょう。
私たちは普段は自分の弱さや愚かさを受け入れたくはない、やはり強く賢いほうが良いと思いがちですが、信仰においては幼子のように、何も知らない何も分からず、ただ、神様のみ言葉によって導かれることこそが最も幸いな生き方なのではないでしょうか。確かに、私たちの人生はしばしば辛く悲しい暗い経験をも重ね続けなければならない、どうしてこんなことがと思う時も多いでしょうが、そのような時にも私たちを支え導くイエス様のみ言葉がマナのように毎日与えられていることを信じ、神様の口から出る一つ一つの言葉を生きる希望の糧として歩み続けたいと願います。(広路教会牧師 長田康志)
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