2月23日の礼拝の内容です。讃美歌は、56.575.60.573.29です。
礼拝説教 マタイ27:11~14「神の熱意」(小椋実央牧師) 2025.2.23
2月の最後の主日を迎えました。新しい年を迎えて、思いのほか厳しい寒さや雪のために戸惑われた方もおられるかもしれません。同時に地震などの災害で、また戦争の空爆によって、住むところを奪われ、家族を失って、自らも傷ついている方がたくさんおられます。神さまがおひとりおひとりに目をとめて、必要な助けを、必要な癒しを与えてくださいますようにと心をあわせて祈りたいと思います。
教会の暦は、降誕節から、受難節へと歩みを進めています。今年は3月5日が灰の水曜日、この日からレントが始まります。そして4月13日から受難週、4月20日がイースターになります。年が明けて、新しい年が始まったと思ったらもう年度末が近づいてきて、新年度の準備、特に進級、進学、就職や引っ越しなどを控えている方は落ち着かない日々を過ごされていることと思います。今朝は少しフライング気味になってしまいますが、今日と、次回3月末の二回続けてキリストのご受難の出来事を取り上げます。教会でも少しずつ受難節への準備、そしてやがて来るイースター、主イエスのご復活に備えていきたいと思います。
金曜日の早朝、総督官邸は大勢の人であふれかえっていました。時は春の過越祭。ユダヤ教最大のお祭りです。かつて自分たちがエジプトから神によって救い出された、そのことを記念する行事です。各地にちらばっているユダヤ人がエルサレムに押し寄せます。この時ばかりはエルサレムの人口が2倍、3倍になる、といってもおかしくはありません。年に一度の大切な日に神殿でささげものをするために、万難を排してエルサレムに集まってくるのです。総督ピラトはローマ帝国からの監督責任として、なんとかこの過越祭を無事にやり過ごしたいところです。ユダヤ教のお祭りの日にエルサレムで暴動が起きようものなら、自らの出世に響きます。総督ピラトは無能な男だなどという噂を立てられないためにも、人口が膨れ上がる過越祭はピラトにとって1年で最大の山場だと言えます。お祭り気分で混雑した町の中をかきわけて、最高法院のメンバーたちがやってきました。大祭司を頭として、祭司と律法学者で構成された約70人のグループです。最高法院が、事実上ユダヤ教の心臓部、核になる部分です。神を畏れぬローマ人ピラトにしてみれば最も理解しがたく、厄介で御しがたい相手。しかし、ここさえ確実におさえておけば、ユダヤ全土の住民を掌握しているのも同然です。何が何でもイエスさまを死刑にしてしまいたいという最高法院のメンバーと、なんとしてでも自らの体面を保ちたい総督ピラトとのぶつかりあいは、イエスさまが9時頃十字架にかけられた、ということを考えると、相当朝早い時間だったのではないだろうか。27章の1節には、「夜が明けると」という文言がありますので、今日お読みした出来事は朝の7時、8時頃だったのではないかと思われます。
病人を癒したり、貧しい人と一緒に食事をしておられた優しいイエスさまが、何故十字架にかからなければならなかったのか。特にイエスさまの一行がエルサレムにやってきたあたりから、あれよあれよという間に十字架の場面となってしまうので、多くの初めて聖書を手に取る方は「イエスさまは一体どんな悪いことをしたの?」と戸惑ってしまうようです。一言で言ってしまうと、祭司や律法学者などの宗教指導者たちのねたみ、が根底にありました。これまでは自分たちが一番尊敬されていた。律法のことならなんでも知っている、聖書のことならなんでも知っているはずなのに、ナザレのイエスというわけのわからない男が出てきて、本当は働いてはいけないはずの安息日に病人を癒したり、律法に新しい解釈を加えたりして、そのせいで民衆からちやほやされている。最高法院というのはユダヤ教のトップの機関でして、もともとは大小様々な事例が律法に適っているかどうかを判断しなければならないところです。それを利用して、彼らはイエスさまを正しく抹殺しようとしました。自分を神や救い主などと自称する輩は神への冒涜行為だから厳しく罰しなければいけないという正義感を盾にして、イエスさまを亡き者にしようとしたのです。
今日お読みした1ページ前には、ゲツセマネでイエスさまが逮捕された後に大祭司の屋敷に連れていかれて、あれこれと尋問された、という場面が描かれています。太字で最高法院で裁判を受ける、という題もついています。厳密に言うと55ページに長々と記される尋問は裁判というよりは、裁判前の予備的な審問のようでして、正しくは27章冒頭に記されるほんの3行部分、ここが最高法院の正式な裁判にあたるようです。何故なら、この3行で死刑、という判決内容が出てくるからです。しかし、そのような細かいことを言ってもらちが明かないので、逮捕されて大祭司の屋敷に連れていかれた、そこで最高法院のメンバーが集まって裁判らしきことをやった、という認識でいいかと思います。裁判らしきこと、と申し上げましたが、それはおそらくこれが予備的な審問である、というだけではなくて、様々なタブーを犯しているために通常だったらこれを裁判と呼ぶことができないからです。例えば過越祭のお祭り期間中は裁判は開かれないことになっていました。これが1点目のタブーです。そして、裁判は日のあるうちから始まって日のあるうちに終わらなければならないのだそうです。まして夜中に始めるのは論外です。これがタブーの2点目。そして不利の偽証、嘘の証言を言わせようとするのですけれども、これは十戒の「隣人に関して偽証してはならない」に反するものです。これがタブーの3点目。などと挙げればきりがないのですが、最も権威ある機関である最高法院が自らタブーを犯して、どうにかしてイエスさまを死刑にしようと必死にあがいている様子がお分かりいただけるのではないかと思います。それほどまでに、祭司長や律法学者たちのイエスさまに対するねたみが深かったのだ、ということも分かります。
自分たちが大事にしてきた十戒に逆らってまでもイエスさまを殺したかった最高法院の人たちですが、自らが手を下す、ということはできませんでした。当時はローマ帝国の支配下にあったために、自分たちで勝手に死刑を執行することはできなかったのです。もしこの時ローマ帝国の支配下になかったら、つまり最高法院で死刑を執行していたとしたら、イエスさまはローマ式の十字架刑ではなくて、律法に従って石打ちの刑で殺されていました。イエスさまがユダヤ式の石打ち刑ではなくてローマ式の十字架刑で殺されたということは、イエスさまの十字架の死がユダヤ人のためだけのものではなくて、全世界、勿論私たちも含まれていますが、世界のすべての人のための死であったことをあらわしています。従って面倒ではあったけれども、最高法院で死刑を決めた後に、ローマ帝国の代理人である総督ピラトに委ねる他ありませんでした。しかしこれは最高法院の人たちにしてみれば好都合なことでした。何故なら死体を扱うことや血に触ることなど、特にファリサイ派は汚れを極端に嫌いますので、それを自分たちでやらなくていい、ということ。また、ユダヤ人にとって、異邦人であるローマ人に殺される、ローマ式に十字架にかけられるというのはユダヤ人に石打ち刑で殺されるよりも何十倍も侮辱的な死であったので、彼らが心底嫌っていたイエスさまを殺す方法として、これ以上の方法はないとほくそえんでいたと思うのです。
しかし、ここでひとつだけ問題がありました。イエスさまが自分のことを神の子と自称している、救い主だと言っている、ということは、ユダヤ教の人たちにとってみれば神を侮辱している冒涜行為ですけれども、ローマ帝国側にしてみれば、そんなことはどうでもいい問題なのです。神だとか、神を冒涜だとか、ローマ帝国には関係のないことです。そもそもユダヤに自治権を与えて、ヘロデ王がいて、宗教も自由にゆるしているのです。そこでどんな神を信じようが、どんな宗教行為をしようが、ローマ帝国には全く関係がないのです。ですから大祭司の屋敷で、「お前はメシアなのか、どうなのか」とあれだけ一晩中大騒ぎをして死刑判決に決めたのですけれども、「この男は自分のことをメシアと言っています。」などとピラトに訴えてみたところで、「それなら、自分たちの宗教裁判でどうにかしなさい。」と差し戻されてしまうだけです。ピラトにしてみれば、イエスさまを死刑にする理由がひとつもないのです。そこで大祭司たちは問題をすりかえて、タブーにさらにタブーを重ねます。はじめはイエスさまが「自分は神の子だと自称している」ことを問題にしていたのに、そのことはいったんひっこめます。そうではなくて、「この男は自分が王などと偽って皇帝の座を狙っている、危ないテロリストだ」と訴えるのです。宗教問題ではなく、政治問題にしてしまえば、総督ピラトはイエスさまを無視することができない。政治問題であるならばピラトが裁かざるをえなくなるからです。
「お前がユダヤ人の王なのか。」ピラトは大祭司たちの訴えどおりに、イエスさまに問いかけます。しかしイエスさまからかんばしい答えはもらうことができません。ピラトがイエスさまを尋問している間、祭司長や律法学者たちは総督官邸の外で待っていました。異邦人である総督官邸の中に入ってしまうと自らが汚れてしまうために、官邸の外から、騒ぎ立てていたのです。目の前に立つイエスさまは何もお語りにならず、建物の外で遠くにいるはずなのに祭司長や律法学者たちはわぁわぁと大声でわめきたてました。最高法院のでたらめの訴えに対してイエスさまは一つも弁明なさらずに、静かに立ち続けたのです。ピラトは仕事柄何人もの政治犯を見てきたことでしょう。それに比べたらずいぶん貧相なテロリストだと思ったに違いありません。また捕まった人は普通無実を主張するのです。そんなつもりじゃなかったとか、だまされていたんだとか、あれこれと言い訳を並べ立てるのです。しかしイエスさまは何一つ言い訳をしないのです。今日お読みした少し後になりますが、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」とあります。18節です。おそらくピラトはすぐに気付いたのではないでしょうか。あまりにもおとなしい、あまりのもそぐわない被告人の姿に、この訴えは誤りである、ということに早く気付いていたのではないかと思われます。
この日が過越祭でなかったら。総督官邸前にたくさんの群衆が集まっている状況でなかったら。ピラトの判決内容はもう少し違ったものになったことでしょう。ローマ帝国の権威を振りかざして、早々に最高法院のメンバーを追い返したに違いありません。こんな裁判は無駄だ。取るに足らない、私が扱う内容ではない。宗教問題は自分たちでどうにかしなさい、と言って差し戻しになったことでしょう。しかしピラトは群衆を恐れ、誤った裁判であると認識しながら、最高法院のメンバーの言いなりになっていきます。罪がないと知りながら、死刑判決を下した。法の番人であるピラトの罪は重いのです。でっちあげの裁判を仕組んだ最高法院も悪いのですが、しかし死刑判決の最終責任はピラトにあります。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という使徒信条の文言は、ピラトだけがイエスさまを十字架にかけた、と言っているのではなくて、死刑の責任者として名前が挙げられているにすぎません。ピラミッドの頂点にたまたまピラトの名前があるだけで、ピラミッドの中枢部や底辺には祭司長、律法学者、弟子たちや名もなき群衆がいるのです。勿論私たちもそこに含まれています。イエスさまを十字架刑にした代表者として、ピラトの名前が挙げられているということに他なりません。
本日の説教題は「神の熱意」とさせていただきました。週報の予告をごらんになって、また、本日の説教に耳を傾けながら、今日の説教題と内容はあまり、かみあってないなと思われた方もおられるかもしれません。どちらかと言うと、今日お読みした箇所はあまり神さまの熱意が感じられない箇所かもしれません。それどころか、イエスさまはゲツセマネで逮捕されて、無抵抗で最高法院にひきずりだされた。一晩中ひきまわされた後にピラトのところででたらめに告訴されて、この数時間後には十字架にかけられてしまうのです。あまりにもイエスさまがされるがままになっています。せめて十字架の場面だけでも、天使があらわれてイエスさまが助かるとか、天変地異が起きてイエスさまを十字架にかけた祭司長や律法学者たちが懲らしめられるとか、そのような結末を一度でも期待した方は少なくないのではないかと思うのです。そういう私も、どうしてイエスさまは十字架の上で何もなさらないのだろうか。これまで散々他人の病気を癒したり、嵐を静めたりしたのに、どうしてここでは何も奇跡をなさらないのだろうか、と不思議に思ったものです。わたしたち罪人のために、何も罪のない、神のひとり子であるイエスさまが十字架にかからなければいけなかった、ということは、理屈では分かるのですけれども、どうにもすっきりしない。どうしてここまでイエスさまが無抵抗でなければならないのだろうか、と聖書を読み始めの頃はよく思ったものです。では一体、神の熱意はどこにあるのか。神の熱意どころか、神さまにほったらかしにされている、神さまに無視されているとしか思えないような本日の聖書箇所から、神の熱意を読み取ることができるのかどうか。「神の熱意」という説教題のヒントになったのは、さきほどから何度かふれていますが、本日の箇所の続きの部分の18節です。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」この「ねたみ」という言葉です。
現在私たちが礼拝で用いているのは新共同訳聖書、という聖書です。聖書には色々な翻訳があって、この新共同訳聖書の次に2018年、7年前ですが聖書協会共同訳というのも出版されたのですけれども、どの翻訳を使うのか、というのは私たちが属する日本キリスト教団の教会では特に決まりがなくて、各教会が各々に判断をしてよい、ということになっています。統計をとったわけではありませんが、おそらく大半の8割ぐらいの教会が、私たちと同じ新共同訳を使い続けているのではないか。先日交換講壇がありましたけれども、私が伺った赤池教会も新共同訳でした。この西地区で新共同訳でない訳の聖書を使っている、という教会は、私が知らないだけかもしれませんが、私が知る限りではありません。ただ、みなさんにお馴染みのところで言えば、名古屋学院の中学・高校・大学は早々に共同訳聖書に切り替えています。年に一度ほど、私は名古屋学院に説教で呼ばれることがあるのですが、この時には注意が必要です。説教を新共同訳聖書で準備をしていったら、どうも司式者が読んでいる聖書の言葉が違う、ということに礼拝の途中で気付きまして、冷や汗をかきながら、何食わぬ顔で説教をした、ということがあります。話が横道にそれましたが、この私たちにお馴染みの新共同訳のひとつ前に、口語訳聖書というものがありました。ここにいらっしゃる方のほとんどが、口語訳聖書で育ったのではないか。私自身も教会生活を始めた時には新共同訳聖書だったのですが、初めて聖書に触れた時、キリスト教学校に入学をして、初めてみ言葉を聞いたのが口語訳だったものですから、いまだに暗唱聖句は口語訳で覚えています。その口語訳聖書の中に、ねたみの神、神さまがねたむという表現があったことを覚えておられるでしょうか。有名なところでは、出エジプトでモーセが十戒を授かる場面です。十戒の二番目、いかなる像も造ってはならない、のところです。
現在の新共同訳では「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。」となっていますが、以前の口語訳では「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である。」となっていました。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である。」中学生、高校生の頃に、さほどまじめに礼拝も聖書の授業も聞いていた記憶はないのですが、どこかでこの「ねたむ神」という文言を聖書の中にみつけてぎょっとしたその感触だけを覚えています。本日何度も繰り返している祭司長たちの「ねたみ」という言葉は、熱情、熱意とも訳すことのできる、同じ言葉です。ねたみと熱意は相反するようですけれども、実は表裏一体である。ヤコブの手紙の4章5節には、神さまがねたむほどに深く愛される、という表現も出てきます。神さまの並々ならぬ深い愛が、罪人を決してそのままにはしておかれないという神の熱意が祭司長や律法学者にねたみを起こしている。彼らのねたみを、ねたみさえも神の御手のうちに置かれている。最高法院のメンバーたちのねたみの炎に焼かれるがままのような、一見すると弱々しい無力なイエスさまの姿ですけれども、その背後にはとても人の手に負うことのできない嵐のように激しい神さまの愛が燃えているのです。この神さまの愛の炎に燃えつくされない限り、罪人である私たちが生きる道はありません。燃え盛る炎の道を、イエスさまは一言も余計なことを言わずに、一歩ずつ踏みしめて、私たちを十字架の元へと招いてくださる。私たちの罪のためにおかかりくださる十字架の元へと、イエスさまは確実に歩みを進めておられるのです。
本日は礼拝後に臨時総会を予定しています。次年度の予算にかかわること、そして長老選挙を行う予定です。教会が大事にしているのは聖書、祈ること、神さまをほめたたえることであって、そういうことは楽しくできる。でも総会とか長老会とか、事務的なことになると小さな字を読まなければいけないし、長い時間座っていないといけないし、やや気持ちが億劫になるというのは分からないでもありません。しかし表立って見えないこの部分にさえも、事務的な無機質な部分であっても、罪人を救うという神さまの熱意がそこかしこにあふれている。教会にかかわる事柄で、神さまの熱意がない部分はひとつもないのだということを信じたいですし、神さまの熱意を読み取ることができる、しっかりと受け止めて神さまにお応えする、そのような教会であり続けたいと思います。教会がそして私たちの信仰が大きく前進するチャンスが本日の臨時総会でも新たに与えられていると信じて、こころをひとつにして臨時総会に臨みたいと思います。
<祈り>ご在天の父なる神さま。あなたのあふれる熱意に圧倒されています。私のようなものさえも、そのままにはしておかれずに、御子イエス・キリストの元へと私たち1人1人を招いてくださいました。あなたの熱意に支えられて、自分のためにではなく、あなたのために生きるものとさせてください。あなたの御栄を心から喜び、願うものとさせてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
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