3月2日の礼拝の内容です。

礼拝

3月2日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.210.297.394.78.27です。

礼拝説教   使徒14:16~20「心を喜びで満たしてくださる主」  2025.3.2

 3月の第1の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように皆様と共に神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと願います。

 先週の日曜日、礼拝後の臨時教会総会を行い、2025年度予算の承認と長老選挙を行い、8名の長老で長老会を開催することができるようになりました。深く感謝しています。長老を担って下さる1人1人の長老のために支えとお祈りをお願いします。

 3月5日(水)、この日は、教会暦で灰の水曜日です。この日から受難節に入っていきます。イエス様の十字架の歩みのことを覚えながら過していきたいと思います。

 礼拝では使徒言行録を読んでいます。今日の聖書の箇所は、パウロの第1回伝道旅行の中で、リストラでの出来事が書かれてあります。この箇所は、パウロが初めて、異邦人で対しての説教が書かれてあります。異邦人へ、どのように福音を伝えていったかということです。この点は、非常に大切なことだと認識しています。その点を注目して、今日の聖書の箇所をみていきたいと思います。

 ルストラに、足の不自由な男が座っていました。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかったというのです。この人がパウロの語るイエス・キリストの福音を聞いていました。パウロは、この人を見つめて、いやされるのにふさわしい信仰があることを認めています。パウロは、その人に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声でいいます。すると、その人は躍り上がって歩き出すのです。そのパウロによる生まれた時から歩くことができなかった人が、急に躍り上がって歩き出すという奇跡を見た群衆は、声を張り上げて「神々が人間の姿をとって、私たちにところにお降りになった」といいます。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、また主に話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んでいます。また、町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって2人にいけにえをささげようとするのです。

 バルナバとパウロは、ルストラの人々が自分たちを神々だと思い込み、いけにえをささげることを知って、服を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んで「皆さん、なぜ、このようなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間にすぎません。あなた方がこのような偶像から離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、その中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられた訳ではありません。恵みをくださり、天からの雨を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たしてくださっているのです」といいます。こういって、2人は、群衆が自分たちにいけにえをささげようとするのを、やっとやめさせることができたとあります。

 イエス・キリストの福音を語るにあたって、ユダヤ人に語る場合には、今までの流れがあって、その流れに沿って語る必要がありました。それは、旧約聖書の流れです。神のこと、イスラエルのこと、律法や祭司のことなどです。しかし、異邦人はその流れを知りません。異邦人は、ここでパウロが語っているように、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました」と、いっているように、自分たちで偶像を造り、歩んでいました。人間が神になるということは、しばしば起っていたことだと思います。リストラの人々は「ゼウス」などの神々を拝んでいました。目の前に起った奇跡、生まれながらに足の不自由だった男が、パウロの言葉で、急に躍り上がって歩き出したことに、驚き、パウロたちに対して、「神々が人間の姿をとって、私たちにところにお降りになった」と思ってしまったのです。それはリストラの人々にとって仕方がないことだと思います。

 そこで、パウロは、この奇跡を通して、本当の神について、リストラの人々に語るのです。そのパウロの語り方ですが、最初は、「私たちはあなた方と同じ人間です」ということを強調し、「あなたがたがこのような偶像から離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです」といっています。そして、本当の神について、「この神こそ、天と地と海を、そしてその中にあるすべての造られた方です」といいます。このパウロの説明は、創世記1:1「初めに、神は天地を創造された」から来ています。神は、初めから存在していて、その神によって、私たちが住んでいる世界である天地を創造された方なのだ」というのです。すべては、この聖書の神から始まっているということを語っています。

 私たちにとって、私という存在は、どこから来て、どこに向かおうとしているのだろうと疑問を持ちます。それに対して、神があって、その神によって、私があるということになります。天地創造の神によって、私たち1人1人が創造されたということをいうことになります。神に対して、基本的な聖書の教えになります。聖書は、その神を語り、神によって、すべてが始まっていくことを語ります。

 日本に住む私たちは、このような自然の動きに敏感になっています。春夏秋冬という四季の変化があり、時の流れ、人々の誕生や成長、また人々の生活、人が生まれてくるということ、人が人と共に生きていくということ、関りの中で人は生きて、喜び、笑い、泣き、悲しみなどの感情を持ちながら生きています。そして、人の生きる苦しみがあり、憎しみがあり、戦争が起り、そのことが歴史の中で繰り返されていること、いろいろな人間の営みが見えてきます。

 四季の移り変わりの中で、雨が降って、雪が降って、植物が成長し、大きくなっていく。やがて、枯れて倒れてしまう。神は、私たちが生きるために必要なものを、天から恵みを与えてくださいます。天から雨を降らせ、実りの季節を与えてくださいます。その恵みによって、その実りを食べて生きていくことができています。多くの食物を施してくだっています。その天からの恵みによって、私たちに心を喜びで満たしてくださっています。しかし、一方で様々な災害が起って来ます。地震、大雨、火災など、私たちは自然災害に苦しみこともしばしばです。この災害を神との関りで、どのようにとらえていくのか難しい課題です。

 このようにパウロは、異邦人であるリストラの人々に、聖書の神を説明する時に、自然の中で働かれる神を話していきます。このことは分かりやすいと思われます。後に、パウロの第2回伝道旅行でギリシャのアテネに行き、そこでアテネの人々に福音を語っているものがあります。使徒17:16~33に書かれてあります。そこでパウロは、アテネにある多くの偶像を見て、そこから天地創造の神を語っていきます。

使徒17:24~25
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

 このように、本当の神とは何かと伝えています。最後に、死者の復活を語っていますが、そうすると、それまで聞いていたアテネの人々が、ある者は嘲笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらおう」といって立ち去っていくのです。このアテネでの伝道について、パウロは後に失敗だったと告白しています。

1コリント2:1~3
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。

 このアテネでの失敗からパウロが学んだことは、イエス・キリストの福音を語る時には、十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたといっています。パウロの伝道を見ていきますと、いろいろな困難や苦悩があったことが分かります。異邦人への伝道者と呼ばれていたパウロですが、伝道していきながら、そのような思いになったことは、大切なことだと私は思います。私たちが初めての人に、キリストの救いを語る時に、天地創造の神から入っていくことは必要なことですが、その先に、イエス・キリストの十字架があるということです。十字架につけられたキリストを語っていく、それは、私たちの教会の伝道の基本的なことです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロの伝道旅行で、リストラでの場面をみてきました。初めて、パウロが異邦人に、イエス・キリストの福音を語っていく場面です。すべての人々が知っている自然の営みを通して、天地創造の神を伝えていきました。目の前にいる異邦人の立場をよく考えて伝道していっています。その後に、いろいろな苦難の中で、パウロは十字架につけられたキリスト以外は語らないといっています。伝道者パウロの歩みから、私たちは多くのことを学ぶことができています。私たちが近隣の方々にどのように伝道していくのか、良き知恵が与えられますようにと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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