3月9日の礼拝の内容です。

aerial view of clouds 礼拝
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3月9日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.194.297.300.91‣1です。

礼拝説教      使徒14:21~28「主の御手に委ねて」    2025.3.9

 3月5日(水)、教会暦は灰の水曜日でした。この日から教会暦はイエス・キリストの受難を意味する受難節に入ります。今年のイースターは4月20日になります。私たちに罪の救うために、イエス・キリストが受難の道、十字架を目指して歩んでいきます。イエス様の受難を思いながら、この時を過していきたいと願います。

 使徒言行録13~14章には、パウロによる第1回伝道著効の様子が書かれてあります。今日の聖書の箇所は、そのまとめになっていきます。パウロの第1回伝道旅行を振り返りながら、パウロの困難の部分を取り上げていきます。アンティオキア教会が誕生しました。この教会は初めての異邦人の教会でした。このアンティオキア教会から、押し出されてパウロたちは、第1回伝道旅行に出発したのです。最初に、バルナバの故郷であるキプロス島から始まっていきます。ここでは偽預言者のバルイエスに出会いました。次に、ピシディア州のアンティオキアに行きます。パウロの伝道旅行を見ると、いつも最初に、その町のユダヤ人の会堂に行ってから伝道を始めていきます。これはパウロが特別に大切にしている伝道方法でした。ここで、初めて、パウロの説教が語られています。このパウロの説教を聞いた多くの人々が、神を信じるようになりました。次の時は、ほとんど町中の人々がパウロの言葉を聞くために会堂に集まって来ます。しかし、ユダヤ人は、多くの人々がパウロの言葉を聞くために集まって来るのを見て、ひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの言葉に反対していきます。このユダヤ人の反対は激しいものとなっていきます。そのために、パウロは、次の町であるイコニオンに行きます。

 イコニオンでも、パウロはユダヤ人の会堂に入って話をしていきます。その結果として、大勢のユダヤ人とギリシャ人が信仰に入っていきます。ところが、信じようとしないユダヤ人は異邦人を扇動し、パウロたちに対して悪意を抱かせます。その伝道の結果として、町は、信じる人々と信じない人々に分裂してしまったのです。反対するユダヤ人たちは、パウロに乱暴を働き、石を投げようとした時に、気づいて、別の町に行こうとします。次の町がリストラでした。リストラでは、生まれながらの足の不自由な男との出会いがあり、パウロは、その足の不自由な男の足を癒し、その人は躍り上がって歩き出します。そのパウロの奇跡を目撃したリストラの人々は、パウロを神々が人間の姿をとって、私たちの所にお降りなったといって、牛数数頭と花輪を持って来て、いけにえをささげようとしました。その時に、パウロは服を裂いて、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで「皆さん、どうして、このようなことをするのですか。私たちはあなたがたと同じ人間です。あなた方に本当の神を教えます。真の神は天と地と海を造られた方です。また、自然の中で、恵みをくださり、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と与えてくださいます。そして、私たちの心を喜びで満たしてくださるお方です」と紹介していきます。このようにして、やっと町の人々に、自分たちにいけにえをささげるのを止めさせることができました。

 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外に引きずり出します。しかし、弟子たちがパウロの周りを取り囲んで、パウロを助けます。パウロは起き上がることができました。次の日に、デルベに行き、この町で福音を告げ知らせ、多くの人々を弟子にすることができました。このデルベではユダヤ人の迫害のことが書いていないので、スムーズに伝道することができたのだと思います。多くの人々を弟子にすることができたのです。聖書地図を見ると、このまま出発地のアンティオキア教会に戻った方がいいと私は思います。それまでのユダヤ人の激しい迫害があって、元の町に行くと、今度こそ、パウロは自分の命を落とす危険性があるからです。パウロの身の安全のためにも、そのままアンティオキア教会に行った方がいいと考えます。
 
 しかし、パウロは、リストラ、イコニオン、アンティオキアと引き返していくのです。それには理由がありました。パウロが伝道していったそれぞれの町には、小さな教会が誕生していったようです。やっと誕生した小さな教会をそのままにしていけば、すぐにユダヤ人の反対や、いろいろな理由で、教会はなくなってしまう危険性があったのでしょう。そのために、小さな教会のために、その教会の今後の発展のために、もう一度、行く必要性を深く感じて、引き返していくのです。そのパウロの行動は、ユダヤ人から石で殺されそうになったこともあって、再び同じような危険にあうかもしれません。それでも、パウロは小さな教会のために、引き返していきます。教会に加わった弟子たちを力づけます。その時に、パウロは弟子たちに「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」といって、信仰に留まるように励ましていきます。

 このパウロの言葉は、私たちすべてのキリスト者に関わってくるものです。私たちは人生の中で、いろいろな苦しみや悲しみや悩みを抱えて生きています。その苦しみからの救いを求めて、教会に来ることがあります。教会に来て、イエス・キリストの福音に触れて、信じて洗礼を受けて、教会員として生きていく。そうすると、今までの苦しみはなくなるかといえば、なくなることもあります。しかし、なくならないことも多いのです。更に、多くの苦しみを抱えてしまうこともあります。パウロがここでいっているように、私たち信仰者は、神の国に入るためには、多くの苦しみを経なければならないのです。本当にパウロのいう通りです。その私たちが負う多くの苦しみは、イエス・キリストも共に負ってくださっています。私たちの歩みは1人ではありません。神の子イエス・キリストが共に歩んでくださるのです。

 パウロは、また弟子たちのために。教会ごとに長老を任命し、断食して祈り、弟子たちをその信じる主に任せたとなっています。パウロは、第1回伝道旅行にいった町々で、イエス・キリストを宣べ伝え、多くの人々が信じて、洗礼を受けて、教会が誕生していきました。誕生したばかりの教会、指導できる人はいなかったのかもしれません。そのために、パウロは、教会ごとに長老を任命し、断食して祈りました。教会ごとに長老を任命する、教会を整えていく努力をしています。理想なら、パウロがその教会に残って、教会のために指導者として活躍することがいいのでしょう。でも、パウロには、世界伝道という使命が与えられていました。そのために、1つの教会に留まることはできませんでした。そのために、教会の人々が信じる主に任せたというのです。この主に任せたという視点は非常に大切なものだと改めて認識するのです。

 教会には、信徒、長老、牧師がいます。教会がこの世にあって歩み続けていきます。当然のことですが、時の流れと共に、人は変っていきます。牧師の交代もあります。毎年、この時期になりますと、愛知西地区でも牧師の交代があります。代っていく牧師、隠退される牧師など、その時によっていろいろな動きがあります。私は、地区の教師部の係をしていますので、3月11日の地区の教師会で、代られる牧師たちに、お別れの時を持っています。そして、4月になりますと、新しい牧師がやって来られます。そのまま新しい牧師が来ない教会も増えています。ちょうど今、今年度のまとめと新年度の計画を考える時期です。私たちが属します日本基督教団は、多くの教会で、高齢化による礼拝主席の減少、教会予算の減少と苦難を迎えています。私たちの瀬戸永泉教会もその流れにあり、教会の将来に対する大きな不安があります。どうすれば、そのような現象から明るい未来へと移っていくことができるのだろうかと悩む日々です。私たちは冷静に、今の状況について、深く理解する必要性を感じる必要があると思います。ただ、それだけではなくて、未来への希望をどのように持てばいいのだろうかという視点が欠けているように、私自身、反省しています。このパウロのいう、信じる主に任せるということです。

使徒20:31~32
だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。

 この聖書の箇所は、パウロとエフェソの長老たちとの別れのシーンです。パウロは第3回伝道旅行を終えようとします。ミレトスから人をやって、エフェソの教会の長老たちを呼び寄せるのです。パウロはこれからエルサレムに行こうとします。エルサレムに行くことはパウロにとってとても危険なことでした。パウロは、ここで長老たちにもう二度と私の顔を見ることはできないことが分かっているといった後で、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねますといい、この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるといいます。主と主のみ言葉に委ねること、私たちの教会の主は、私たちではなくて、イエス・キリストご自身です。私たちも、信じる主とその御言葉に委ねていきましょう。神への信仰を大きくもっていこうではありませんか。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。教会暦は受難節に入っていきました。私たちも、イエス・キリストの受難と共に味わい、歩むことができますように。また、教会の主が神ご自身であること、イエス・キリストが主であることを確認することができました。人間的な目では、私たちの教会は多くの困難を抱えています。その現実を見ることができますように、また。それだけでなく、神に委ねる信仰を改めて持つことができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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