3月16日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.298.303.452.29です。
礼拝説教 使徒15:1~5「救いの意味」 2025.3.16
私たちは今、教会暦の中で受難節を歩んでいます。イエス・キリストが私たちの世界に来てくださり、人間としてその生涯を歩んでくださり、やがて十字架についてくださるのです。このイエス・キリストの受難と十字架の死と復活は、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、私たちの救いのことに深く関わっています。どのように私たちは救われるかです。救いの意味を確認していきます。
私はこの礼拝で、使徒言行録を読んでいます。初代教会の歩みを通して、私たちの教会の歩みを重ねて考えることによって、私たちの教会にとって何が大切なことを知ることになるからです。使徒13~14章にかけて、パウロによる第1回伝道旅行が終りました。この伝道旅行は、それまで、イエス・キリストの福音伝道の中心はユダヤ人が対象だったのですが、この時からユダヤ人以外の人々、異邦人が対象となったのです。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていく、それは使徒言行録の中心的なメッセージです。
使徒1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
この言葉のように、イエス・キリストの福音は、地の果てに至るまで伝えていくのです。その第一歩ということになっていきます。この時に、教会は大きな課題を抱えていました。それが、今日の聖書の内容です。パウロは、第1回伝道旅行が終って、伝道の出発地であったアンティオキア教会に戻って来ました。戻って来て、パウロはすぐに教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのこと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告しています。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごしています。
その時に、ある人々がユダヤからやって来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていました。それで、パウロたちとその人たちの間で、激しい意見の対立や論争が生じたのです。異邦人がキリスト者になって、モーセの慣習や割礼のことをどのように考えるのかを、使徒や長老たちと協議するために、パウロたちがエルサレムに上ることが決まりました。その頃は、エルサレムの教会が中心だったのです。パウロたちはアンティオキア教会から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、教会の兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせるのです。エルサレムに到着すると、パウロたちは、エルサレムの教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎されて、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告しています。
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」といっています。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題を協議するために集まりました。それが、第1回エルサレム会議といわれるものです。
聖書の初めに、神はこの世界を創造されました。その天地創造の最後に、私たち人間を創造されたのです。人間の創造にあたっては、神は特別なものとして造ってくださったのです。それは、神は御自身に似せて、かたどって、人間を創造されたことです。その意味は、人間に自由意志を与えてくださったということです。神の天地創造は完全なものでした。人間の創造も完全なものでした。神が人間に自由意志を与えてくださったということです。神が与えてくださった自由意志によって、私たちは神を愛する自由と愛さない自由を与えられました。その結果として、人間は神を愛さない自由を選んだのです。そこから人間の罪と死が入って来ました。神から離れた人間をどうしても救いたいと神は願い、行動するようになっていきます。
旧約聖書において、神は人間の救いの初めに、ユダヤ人を選ばれたのです。その選びの理由は、ユダヤ人が最も数の少ないものであるからです。そのユダヤ人を通して、神は人間の救いの業を行います。最初に、モーセの律法や割礼を与えました。モーセの律法というのは十戒を始めとする神の教えです。人間として守るべき基本的なことが教えられています。このモーセの律法を守ることは、ユダヤ人が平和で幸福に生きることができるという意味を持っていました。また、割礼は、ユダヤ人がその身に割礼を受けることによって、神の民であるという証しにもなっていました。ユダヤ人がモーセの律法を守ることができれば、それで神の救いの計画は完成したはずでした。しかし、ユダヤ人は、神によって与えられたモーセの律法を守ることができなかったのです。神は預言者を送って、ユダヤ人にモーセの律法を守るように命じて来ました。しかし、ユダヤ人は神が送った預言者の声を聞かず、律法を破り続けるのです。神は、ユダヤ人が律法を守ることができないことを考えて、罪の贖う方法を、一緒に教えていました。
ユダヤ人が自分の罪を贖う方法として、身代わりの家畜を選び、その家畜を神にささげることによって、罪の贖うことになるのです。自分の犯した罪を、本来ならば、自分自身で負わなければならないのですが、その罪を家畜に負わせるのです。その家畜の負った罪を贖うことに、自分の罪の赦し、贖いになっていくのです。このことが繰り返し繰り返し行われてきました。この罪の贖う行為、家畜を神にささげることが旧約聖書の神への礼拝行為となっていくのです。
やがて、新約聖書に入って、イエス・キリストの誕生となっていきます。イエス・キリストの十字架によって、それまで家畜によって行われていた罪の贖いが、家畜ではなく、完全な罪の贖いとして、神の子イエス・キリストの十字架の死によって、すべての人間の罪の贖いが完成していくことになります。パウロの言葉を引用すると、次のように理解するようになっていきます。
ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
律法の役割は、人間に罪の自覚を生じさせるためでした。律法があることによって、私たち人間は、ユダヤ人も、自分が神の前で罪人であることが分かるということです。それが、モーセの律法の役割だとパウロはいうのです。
ローマ3:21~24
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ここに、イエス・キリストによる完全な罪の贖いであることがいわれています。キリスト教はユダヤ教から始まったということができます。旧約聖書を土台としているからです。この使徒15章から、キリスト教はユダヤ教から完全に離れて、新しい宗教として歩み始めていくことになります。旧約聖書を通して、ユダヤ人が考えていた救い、モーセの律法を守り、割礼を受けること、その考えから全く新しい考えになっていくのです。モーセの律法は守ることはできない、律法の役割は、人間に自分が神の前で罪人であるという自覚を生じさせるためにあるのです。
ただ、教会は、このパウロが語る神の救いの意味について、理解していくためには時間が必要でした。ここで登場するファリサイ派から信者になった人々がいたことは驚きです。彼らも、イエス・キリストの十字架の救いを信じて、キリスト者になっていったのでしょう。しかし、今までの経験といいますか、慣習を乗り越えることが非常に困難だったと想像します。そのために、彼らは、イエス・キリストの十字架を信じるだけでなく、今までの慣習としてのモーセの律法を守り、割礼を受けるべきだといったのです。その考えを乗り越えるために、時間と論争が必要でした。でも、この神の救いのことは、人間が話し合って決めるというのではなく、聖霊によって示されていくものなのです。このエルサレム会議の中での話し合いもありますが、その会議を支えている、導いている聖霊の働きをしっかりとみていきたいと思います。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちがどのようにして神の救いを得ることができるかをみてきました。ユダヤ人によって示された律法と割礼、その上で、イエス・キリストによって、その十字架の贖いによって、いかに私たちに罪が赦されるのか、神に救いに預かることができるのかをみてきました。神の救いは、一方的な神の恵みによって与えられているものです。私たちは、その神の恵みを感謝して受け取るだけでいいのです。神の救いの意味を、私たち1人1人がしっかりと受け止めることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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