4月13日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.18.60.298.27です。
礼拝説教 使徒15:22~29「異邦人の教会員への手紙」 2025.4.13
今日の教会暦は棕梠の主日となります。イエス様がエルサレムに入られるのです。イエス様はろばの子に乗って入城されました。神の子が神の都であるエルサレムに入られるのです。人々は棕梠の枝を持って、イエス様の入城を歓迎しました。そこから棕梠の主日といわれています。この日から教会暦は受難週といわれています。イエス・キリストの十字架を巡るとても大切な1週間です。木曜日は洗足、最後の晩餐、金曜日は十字架となっていきます。そして、来週の日曜日は、イエス様の復活の時、イースターです。新たな思いで、イースターを祝いたいと思います。
礼拝で、使徒言行録を読んでいます。この使徒言行録は、使徒の言葉と行動の記録が書かれてあります。使徒15章は、第1回エルサレム会議のことが書かれてあります。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていきます。これは、イエス・キリストの福音がすべての人々に伝えられていくという大切な流れです。キリスト教はユダヤ教から生まれてきました。それは間違いのないことです。この第1回エルサレム会議は、キリスト教がユダヤ教の一派として留まるか、それともユダヤ教から離れて、世界宗教になっていくのかという大きな転換になっていくものです。
使徒11章では、最初の異邦人の教会であるアンティオキアの教会が誕生しました。このアンティオキア教会を拠点として、パウロによる第1回伝道旅行が行われました。その内容は、使徒13~14章に書かれてあります。この伝道旅行では、異邦人伝道が本格化していくものでした。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられる中で、大きな課題が出てきました。それが、15:1「ある人々がユダヤから下って来て、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われないと兄弟たちに教えていた」というものです。このユダヤ人というのは、ファリサイ派から信者になった人(15:4)です。彼らは、イエス・キリストの福音を信じることによって救われることは受け入れていました。ただ、それだけでは不十分で、信じることと割礼を受けること、モーセの律法を守ることが必要だと考えて、それをわざわざアンティオキア教会にまで行って、伝えて、混乱を起すのです。ただ、これはどうしても乗り越えることが必要な内容でした。
そのために、エルサレム会議が開かれたのです。割礼も受けなければならないといったユダヤ人とパウロたちとの間に、激しい意見の対立や論争が生じました。この後で、エルサレム教会の決定を伝える手紙と報告する人々が選ばれて、パウロたちと共にアンティオキア教会に戻って行き、報告していくことになります。その手紙の中で「聞くところによると、わたしたちにうちのある者がそちらに行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです」(15:24)とあります。異邦人が教会に加わるためには、信仰だけではなく、割礼を受けることも必要といったことで大きな騒ぎと動揺を招いていたことが分かります。
このような流れの中で、第1回エルサレム会議が開かれました。その会議では、パウロたちの伝道旅行の報告がなされていました。いかに多くの異邦人が救われたという内容でした。それと共に、使徒のリーダーであったペトロが、ローマの百人隊長であったコルネリウスとの出会いと伝道の様子をいっています。使徒10章に、ペトロのコルネリウスへの伝道の様子が書かれてあります。ここで、大切なことはペトロの働きも大切ですが、ペトロとコルネリウスを導かれる聖霊の働きです。最初、聖霊はペトロに働きかけていきます。幻で、汚れた食べ物が示され、それを食べるように促します。それは律法で汚れた物で食べてはならないとされていた動物です。もちろん、ペトロは「主よ、律法で汚れた物は食べてはならないとありますので、今迄食べたことはありません。ですから食べることはできません」と答えています。当然の答えです。その時に、幻は「主が新たに清めたものを汚れたものといってはならない」と示されます。ペトロの前に新しい教えが示されました。そのようなことが3回起ったのです。この幻は、ペトロのユダヤ人だけが清いのではなく、異邦人も清いものとされていくということを示すものでした。
そして、コルネリウスへの聖霊の働きかけが起ります。それは、ペトロを招いて、神の言葉を聞くというものでした。聖霊の導きに従って、コルネリウスはペトロを自宅に招き、神の言葉を、イエス・キリストの福音を聞こうとします。その前に、ペトロは、自分に示された幻で、神が異邦人も清いものとされていくことを受け止めて、初めて、コルネリウスと向き合うことができました。ペトロはコルネリウスたちに福音を語っていく時に、異邦人たちに聖霊が下ったことを目のあたりにするのです。そしてコルネリウスたちに、すぐに洗礼を受けるように促しています。ペトロはすでに聖霊によって、イエス・キリストの十字架の意味を受け取ることができていました。
それまで、ペトロは、自分たちは神の律法を守ることはできないこと、割礼も意味のないことを知っていました。そのためにこそ、神の子イエス・キリストが十字架についてくださり、その十字架の死によって、すべての人々の罪が赦されたこと、罪が贖われたことを受け止めていたのです。そして、ペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(15:11)と答えています。
それから、エルサレムの教会に指導者ヤコブが、最後のまとめをしています。このまとめは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に歩むために、共に食事を行うことができるために最低限に守るべきことでした。偶像にささげられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けるということです。偶像にささげられた肉ですが、偶像にささげられた肉が、やがて一般の店で売られていることがよくありました。ユダヤ人にとって、偶像にささげられた肉を食べることには大きな抵抗があったのです。血と、絞め殺した動物の肉とありますが、ユダヤ人にとって、血は命そのものでした。動物を殺した場合、すべての血を取り除いて食べていたのです。肉に血が残っていることが、命そのものを食べるということで、許されないことでした。また、みだらな行いですが、当時の社会では偶像礼拝と、そのみだらな行いということが同時になされていました。ユダヤ人は律法の中で、そのようなみだらな行いをしないようにしていました。これらの3つの内容は、異邦人キリスト者が、ユダヤ人キリスト者に対して守るべき最低限の行為でした。この3つを守ることによって、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者が共に交わることができることになっていくのです。
キリストの教会がユダヤ人と異邦人が何の抵抗もなく交わっていくことができるようになっていこうとしています。教会に加わるためには、イエス・キリストを信じるだけでいいのです。神の恵みによってのみ人は救われていくことができるのです。神の恵みによってのみ、救われるのです。他は何もありません。モーセの律法を守ることも割礼を受ける必要もないのです。人はそもそも律法を守ることはできません。そして、教会の中で、異邦人とユダヤ人が共に、信仰生活を守っていくために、必要な3つのことがありました。異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者のために配慮すべきことでした。この第1回エルサレム会議の決定がされて、この決定の内容が、アンティオキア教会に告知されていくのです。エルサレム会議に集まった人々、使徒たちと長老たちは、教会全体で、自分たちの中から人を選んで、パウロたちと共に、アンティオキア教会に派遣することを決めていきます。
選ばれたのが、バルサバと呼ばれるユダとシラスです。彼らはエルサレム教会の中で、指導的な立場にいた人たちでした。彼らは手紙を彼らに託するのです。手紙の最初には、「使徒と長老たち、が兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします」と書いてあります。そして、エルサレム会議の流れとその決定を書いていきます。ここでは、この決定が、満場一致の決定であることを強調しています。そして、パウロたちだけでなく、中立な立場であるユダとシラスから、その決定の内容を直接、口で説明していきます。手紙だけでなく、直哲、責任があって中立な立場の人を送って、話してもらうのです。やがて、その手紙と人が送られて、エルサレム会議の決定を知ったアンティオキア教会の人々は、励ましに満ちた決定を知って喜んでいます。
このような流れで、イエス・キリストの福音は、すべての人々に伝えられていくのです。キリストの教会は、その歴史の歩みの中で、様々な困難と出会いました。その困難を乗り越えて、2000年以上の歩みを続けているのです。イエス・キリストの福音も日本に伝えられ、宣教師によって、各地に福音が伝えられ、教会が誕生していきました。私たちの教会もその流れにあります。私たちの教会も様々な課題や困難を抱えています。しかし、それに恐れることなく、神を信じ、聖霊を信じて、信仰と希望と愛を持って歩んでいきたいと思います。
祈り 神よ、棕梠の主日の礼拝を守ることができました。感謝します。神は人を愛し、そのために、多くの準備を成し、最後は、御子イエス・キリストを十字架につけることによって、人の救いを完成してくだしあました。私たちが救われるためには、その神の愛を信じて、受け入れるだけでいいのです。あなたを見上げ、イエス・キリストの十字架のもとで、神を信じて、従って歩んで行くことができますように、私たちに弱い足を守り、導いてくださいますように心から願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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