4月20日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.280.325.326.81.91‣1です。
礼拝説教 ローマ6:3~11「キリストに結ばれて」 2025.4.20
イースターの日を迎えました。イエス・キリストが十字架にかけられて死なれ、墓に葬られました。そして、3日目の日曜日の朝に墓の中からよみがえられたのです。死から復活されたのです。イエス・キリストの十字架の死と復活は、わたしたちの希望そのものです。今日は、礼拝の中で1人の姉妹の洗礼式を行います。今までの神の導きに深く感謝すると共に、今後の新しい歩みのためにも神に導きを祈ります。
自分の洗礼のことを思い出します。今から約50年前です。私は高校1年生でした。キリスト教については何も知らないのでした。私が住んでいた場所は、田舎でしたから新しいことには興味があったと思います。中学を卒業して、少し離れた常陸太田市にある高校に入学しました。その常陸太田市に、たった1つのキリストの教会がありました。珍しいと思い、一度は行ってみないなあと考えて、高校1年生の冬、クリスマスの時に、生まれて初めて、キリストの教会に入って行きました。土日とクリスマスの集会が行われていて、2日間とも行きました。2日目の集会が終ろうとしていた時に、教会の牧師が、次のようにいうのです。「イエス様を信じていきたい者は手を挙げて前に出て来てください」と。そうすると、私は何の抵抗もなく、手を挙げて、前に出て行き、2人の姉妹と共に洗礼を受けました。あの時から、長い年月が過ぎ、今は、この瀬戸永泉教会の牧師をしています。あの日に、教会に行かなかったら、牧師の呼びかけで、前に出て行かなかったら、などと思いますが、不思議な導きがあって、今の私がいます。教会へ行って2日目の者が洗礼を受ける、これはどうなのでしょう。でも、神は私を導いてくださったのです。
私たちが洗礼を受ける意味について、改めて考えてみたいと思います。まず、神とは何でしょうか。よく、神はどのような方で、どこにおられるのですかと聞かれることがあります。聖書の一番初めに、「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)があります。聖書によれば、最初に神がいて、その神からすべてが始まっていくと書いています。だから、神は誰が造られたのかという話にはならないのです。まず、神がいて、その神によって、すべてが始まっていく。神が天と地を創造されたというのです。
次には、その天地創造された神が、天地創造の最後に、私たち人間を創造されたのです。その人間である私たちを神は特別な存在として創造されました。それは、次のような聖書の言葉があります。「神が御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世記1:27)神は御自身にかたどって、人間を創造されたのですが、それは、目に見える形のことではありません。神は、私たちの目には見ることができないお方です。これは、神の精神的な部分をいっています。それは、神は御自身で、いろいろなことを考えて実行されていきます。それと同じように、神は、人間にも自由意志を与えてくださり、1人1人与えられた自由意志によって行動するように創造されたということです。もっといえば、神は人に人格的な交わりを求めて、造られたのです。人は自分の自由意志で、神を愛することもできるし、神を愛さないこともできるということです。もちろん、神は人に、愛の交わりを求めておられます。
神は、人間に与えた自由意志を次のような形で実践していきます。神はエデンの園をつくり、そこに人間を住まわせるのです。そのエデンの園に、神は命の木と善悪の知識の木を置かれました。神は人間にいわれました。「園のすべての木から取って食べなさい。しかし、善悪の知識の木からは、決して食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16~17)人間が神に愛する道、善悪の知識の木を食べないこと、神を愛さない道、善悪の知識の木を食べてしまうこと、この2つのことを備えてくださったのです。よく、神が善悪の知識の木を置かなければ、人間は罪を犯すことはなかったということがありますが、それは、そうではなくて、人間の自由意志を与えたことを具体的に示すためでした。創世記3章では、その人間が蛇の誘惑によって、食べてしまう場面が書かれてあります。人間が神にいわれた善悪の知識の木を食べてはならないことを知っていながら、食べてしまう理由として、「それを食べることによって、目が開け、神のように善悪を知るものとなることができる」(創世記3:4)ということです。神のようになれるという蛇からの誘惑に負けて、食べてはならない善悪の知識の木を食べてしまいました。このことによって人間の罪が入り、人は死ぬ者となってしまったのです。
神から離れてしまった人間、罪人となり、死ぬ存在となってしまった人間、その人間を神は何とか救おうと働かれるのです。神は、イスラエルの人々と選んで、その救いを始められました。神はイスラエルの人々に神の民として選び、律法を与え、幕屋を与え、神の民としてどのように生きるのかを示されました。神がイスラエルの人々の示された神の律法ですが、最初、その神の律法を守ることによって、人間の努力によって、神の救いを勝ち取るように道が示されました。その一方で、神の律法を守ることができない場合、どのようにして神の救いを得ることができるかという道も示されました。本来なら、神の前に人間自身が裁かれることになるべきでした。神は、人間の代わりに、家畜を用意して、その家畜に人間の罪を負わせて罪の贖う道を示されたのです。この家畜による人間の罪の贖いが、新約聖書では、神の子であるイエス・キリストの十字架による贖いに通じていくこととなっていきます。
旧約聖書でいわれることは、人間は神の律法を守ることができない。また、神が与えてくださった律法によって、人間の罪が明らかにされていくことが示されていくのです。人間は自分たちの努力では、神の救いに預かることができないことが分かりました。でも、そのままでは人間の罪は完成されることなないのです。そして、新約聖書に入っていきます。4つの福音書によって、神の子イエス・キリストの誕生と、その生涯、特に受難と十字架の道が示されました。
私たちの救いですが、イエス・キリストの十字架の死と復活による私たちに完全な罪の贖いが完成していること、ただ、そのことを信じることによってのみ神の救いを得ることができることを示されています。その時に、私たちは洗礼を教会で受けます。その洗礼を受けることの意味が、今日の聖書の箇所に示されています。
ローマ6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
この後で1人の姉妹に対する洗礼式が行われます。水によって洗い清められます。洗礼式にある水を頭にかけれる時、わたしたちの死を意味します。イエス・キリストは十字架におつきになり、死なれて、墓に葬られます。そのキリストが十字架で死んだように、私たちもその水によって、死ぬのです。私たちは、この洗礼の時に、今迄の自分は死んでしまうのです。そして、3日目にイエス・キリストが墓の中からよみがえられたように、私たちも復活し、新しい命を与えられています。
私たちの見た目は、洗礼を受ける前と受けた後で、まったく変っていないように見えます。しかし、それは大きな違いがあります。洗礼を受ける前の私たちは罪人であり、死ぬべき者として歩んでいました。神の裁きの受ける者として歩んでいたのです。ところが、洗礼を受けた時には、今迄の私たちは完全に死んでしまったのです。そして、イエス・キリストの復活によって、その復活の命を与えられて、新しく生きる者となっていくのです。洗礼を受けた私たちは、すでに罪人ではないのです。すでにイエス・キリストの十字架の血によって、私たちにすべての罪が清められているのです。そして、新しい命が与えられて、私たちは死ぬべきものではなくて、全く新しい命、復活の命、永遠の命を持っているのです。洗礼を受けるということは、そのような深い意味を持っていることになっています。洗礼の意味をもう一度、受け止め、そのような大いなる神の恵みの中に、私たちはいることを確認していきたいと思います。
今日は、イエス・キリストが復活されたイースターです。このイースターにはこのような新しい命の中にあることを示してくださっています。私たちはすでに新しい命の中にあります。復活の命、永遠の命を持っているのです。洗礼によって、私たちは今までの自分は死んで、イエス・キリストによって、全く新しい命の中にあります。
祈り 神よ、イエス・キリストの復活の日に、イースターを共に祝うことができましたことを心から感謝します。1人の姉妹の洗礼式を行います。どうか、この洗礼式を清め導いてください。この姉妹の新しい歩みの上に、あなたの豊かな守りと導きがありますように、そして、その生涯を通して、あなたに従っていく歩みをすることができますように、心から願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
コメント