4月27日の礼拝の内容です。讃美歌は、17.493.327.333.26です。
礼拝説教 マタイ28:1~10「あなたが輝く時」(小椋実央牧師) 2025.4.27
悲しみの中で目を覚ましました。眠ったのか、眠らなかったのか、よくわかりません。最悪な朝でした。涙が涸れ果てていました。ちっとも気の休まらない安息日を過ごしました。いつもは礼拝をして、聖書の言葉に耳を傾けます。祈って、讃美歌を歌って、語り合って。食事をして、また祈って、讃美歌を歌う。どこにも出かけずに、何も働かずに、身も心もゆったりと過ごすのです。しかし、いつも聖書のお話をしてくれたイエスさまはもういません。ほんの数日前まで、毎日のようにイエスさまのお話を聞いていました。大勢で食事をして、病気の人や困っている人を助けました。充実した毎日でした。突然、おそろしいことがおこりました。イエスさまが捕らえられて、殺されてしまったのです。神さまを冒涜したという罪をなすりつけられたのです。あまりにも突然のことで、この数日に起きたことは現実のこととは思えませんでした。イエスさまに会いたい。イエスさまのおそばにいたい。ただその思いだけで、2人のマリアは夜が明ける前に目を覚ましました。安息日は終わりました。今日から新しい一週間が始まります。本当なら暗いうちから食事の支度をしたり、子どもの服を着替えさせたり、家の掃除をしたり、やることは山積みです。でもどうしても待ちきれなくて、家族の迷惑にならないようにうんと早起きをして、誰にも気づかれないようにこっそりと家を抜け出しました。今から2000年前、エルサレムでの出来事です。
2025年イースターを迎えました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書が記しているのは、安息日の次の日に、イエスさまをおさめたはずの墓に行ってみたらすでに空になっていた、という出来事です。福音書によって女性の数が二人だったり、三人だったり、12弟子が一緒だったり、少々の違いはありますが、共通しているのは女性たちです。女性たちはイエスさまをおさめたはずの墓で天使と出会い、またイエスさまと出会って、重要なメッセージをあずかります。イエスさまがすでに復活されてもうここにはいないということ。そして、ガリラヤでもう一度イエスさまとお会いできるということ。この二つのメッセージです。聖書をもう少し先まで読んでみると、実際に弟子たちがガリラヤへ行って、イエスさまとお会いしていることが分かります。元々ガリラヤは弟子たちの生まれ故郷ですから、戻っていてもおかしくはないのですが、文脈にそって読めば、女性たちから伝言を聞いてガリラヤへ出かけた、と受け取ることができます。
今日女性から伝言をたくされて何かをするというのは、伝言を語るのが女性だろうと男性だろうと、全く問題にはなりません。しかし、女性が男性と同じように対等には扱われない当時の社会においては、女性が大事な要件を伝える、ましてや男性に指図して何十キロも離れたガリラヤに行かせるなど、とんでもない話でした。聖書にはイエスさまの復活をなかなか受け入れることのできない、弟子たちの姿が記されていますけれども、それは復活が非科学的なことだから、という理由だけではなくて、女性たちがその出来事を伝えたがゆえに、信ぴょう性がないと思われていたのかもしれません。それほど、女性はとるにたりない存在と思われていたのです。そのような時代に、イエス・キリストが墓の中から復活をされたというニュースを伝え、弟子たちを動かし、弟子たちと復活されたイエスさまをガリラヤで出会わせることができた。思ってもみないような大きな役割を二人のマリアは果たすことができました。この女性たちの一体どこに、そんな大きな力が隠されていたのでしょうか。女性たちのどこにそんな秘密があったのでしょうか。もう少しだけ二人のマリアの後を追って、2000年前の出来事を一緒にのぞきこんでみましょう。
女性たちが墓についてみると、とんでもない結果が用意されていました。墓をふさいでいたはずの大きな石が転がされて、墓の中が丸見えになっていました。墓の中は空っぽです。そこにあるはずの、金曜日におさめたはずのイエスさまのご遺体がありません。そのかわりに、これまで見たこともないぐらい真っ白に輝く天使があらわれて言ったのです。「恐れることはない・・・確かにあなたがたに伝えました。」(5~7節)天使の言っていることはまるで理解できませんでした。そもそも、天使、という存在そのものが理解不能でした。それでも体は動き出したのです。怖いような、うれしいような、ごちゃまぜの気持ちのまま、墓を後にして道をくだり、仲間たちの元へと急ぎました。服の裾が両方の足にまとわりつきます。髪の毛が目に入り、口にも入ってきます。足の裏がすりむけそうになるぐらい、走って、走って、走りぬきました。お互いに一言も口をきくことができませんでした。
ふと見上げると、前方に懐かしいお方のお姿が見えてきました。イエスさまです。大好きな、大好きなイエスさまです。まるで二人のマリアがこの道をとおるのを待っていてくださるかのようでした。「おはよう」大好きなイエスさまの言葉です。いつもの挨拶です。この数日の恐ろしい出来事がまるでなかったかのように、さわやかな朝のあいさつの言葉です。2人のマリアは息をととのえることもなく、洋服も髪の毛もぐしゃぐしゃのまま、慌ててイエスさまの前にひざまずきました。イエスさまが復活された後、最初に行われた礼拝です。そこにはすばらしい音楽も、おごそかな雰囲気も、何もありません。空には鳥がさえずり、あたたかな日差しを受けて土の香りが立ち上っていました。そこにあるのはいつものイエスさまと、そして2人のマリアでした。
いつもだったら、2人はもう少しおめかしをしていたかもしれません。きれいに髪を束ねて、質素な飾りを身にまとっていたかもしれません。今日は全速力で走ってきたので、身なりもめちゃくちゃで、汗だくです。でもイエスさまに会えたことがうれしくて、いつものようにひざまずきました。いつものように身を低くして、いつものようにひれ伏しました。なんともいえない幸せな気持ちが、じわじわと心のうちに広がっていきました。いつものイエスさまの声が響いてきました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
「久しぶり」とか「元気だった?」とか、挨拶の言葉はありません。いきなりイエスさまのご命令です。「ここで何をしていたんですか?」「いつからここにいらしたんですか?」聞きたいことは色々ありました。けれども二人のマリアはすっくと立ちあがって、再び走り出したと思います。イエスさまの言葉を忘れないように、忘れないうちに、すぐに伝えないといけない。2人のマリアは慌ただしくイエスさまの元を立ち去りました。「あのことを聞いておけばよかった。」「こんなこともお話したかったな。」後から思い返すことはあったでしょうけれども、この時不思議と残念な気持ちにはなりませんでした。嬉しさが少しずつ押し寄せてきて、ほんの数時間前に悲しんでいたことなどすっかり忘れてしまいました。2人は力強く、走り出したのです。イエスさまにお会いできたことがうれしくて、イエスさまのご命令に従うことができるのがうれしくて、走らずにはいられなかったのです。
女性たちははじめ、お墓参りに行く予定でした。お墓にイエスさまのご遺体を探しに行ったのです。そこで慰めを得たいと、悲しみを癒したいと思ってでかけたのです。ところが、墓には肝心のイエスさまのご遺体がありませんでした。心のよりどころにしようと思っていたものがなかったのです。残されていたのは、天使の言葉です。ここにはイエスさまのご遺体がもうない、という言葉です。2人のマリアはあてがはずれました。少しあっけに取られて、しかし事の重大さをひしひしと感じて、とても無視はできないと思いました。
結局、お墓とは反対方向の、お墓からの帰り道にイエスさまと出会うことができました。思いがけない時に、思いがけない場所で復活の主と出会い、2人は慌ててひざまずき、礼拝へと導かれます。復活の主と出会ったことにより、イエスさまの復活は女性たちの中でより確かなものとなりました。イエスさまから直接言葉を頂いて、自信をもって弟子たちの元へと帰っていきました。弟子たちはいつもとは違う、自信に満ちた2人のマリアの姿に驚いたに違いありません。いつもは男性の後ろで、目立たないように歩いていた二人のマリアが、男性ばかりの弟子たちの前で背筋をのばして堂々と語ったのです。イエスさまは復活されました。ガリラヤへ行きなさいと、イエスさまが言っておられます。あなた達はガリラヤでイエスさまと会うことができるのです。初めは驚きながら、しかしやがて弟子たちは二人のマリアの言葉を受け入れました。旅支度をはじめ、ガリラヤへと向かいます。そして2人の言葉どおり、ガリラヤでイエスさまと会うことができたのです。
墓から帰る途中、ほんの短い一時ではありましたけれども、イエスさまに礼拝をおささげする時間がありました。これが2人のマリアの力になりました。この短い礼拝が2人を動かし、2人に語らせて、そしてついには11人の弟子たちをガリラヤへと旅立たせたのです。当時の男性中心の慣習から言えば、11人の男たちを動かすというのは並大抵のことではなかったはずです。しかし2人のマリアの言葉には、それぐらいの力がありました。それほどの力がイエスさまから与えられたのです。2人のマリアはこれまで見たことがないぐらい、輝いていました。
過ぐる聖日、イースター礼拝を守って、一週間が過ぎました。イエスさまが墓の中から復活をされた。2000年前の喜びのニュースを共に分かち合い、新しい命の輝きの中を私たちは歩んでいます。とは言っても、たったの7日間しかたっていないのに、この7日間が世界一周旅行をするほど遠い道のりのように感じた方もおられるかもしれません。体に不調を覚えた方もおられるでしょう。仕事でミスをして、また家族とつまらないけんかをして、嫌な気分になったかもしれません。勉強が難しくて、やる気がそがれてしまったかもしれません。私たちの心のうちをながめても、私たちはどこにも輝くものを持ってはいません。何一つ、自分から輝くものはないのです。しかしだからこそ私たちは日曜日ごとに、イエスさまがご復活された日の朝に呼び集められ、礼拝へと招かれています。復活の主イエスと出会い、主イエスのみ言葉をいただくから、私たちは輝くことができます。私たちの中には、この礼拝を一週間待ち焦がれていた人もいれば、ただなんとなくここに座っている人もいるかもしれません。しかし、私たちの側の事情はさほど問題ではないのです。2人のマリアが墓からの帰り道に思いがけずに主イエスを礼拝したように。思いがけない場所で、思いがけない時に礼拝したように。服装も、髪型も整えていない、できれば今日じゃなくて昨日のほうがよかったと思っていたとしても、そんなことはさほど問題ではありません。大事なのは私たちがいつ礼拝するか、ということではなくて、神が今、この時、この場所に私たちを招いていてくださっているという事実。神が私たちに復活の主イエスと出会わせ、復活の主イエスのみ言葉にあずかるようにと、私たちがこの場に集められているという事実。この神の現実があるからこそ、この神の情熱に燃やされて、私たちは自分から輝くのではなくて、神に輝かされて、神に輝きを頂いて新しい一週間を始めることができるのです。
あなたが輝く時、それは今この時から始まっています。何一つ輝くものを持たない私たちが、神に招かれて、礼拝の中でみ言葉を頂いて、私たちは初めて輝くことができるのです。この輝きをたずさえて、私たちそれぞれに備えられた場所へ出かけていきます。私たちそれぞれにまかされた務めを果たすために、2人のマリアと一緒に、復活の主イエスと共に、一週間の旅路へとでかけていきましょう。
<祈り>ご在天の父なる神さま。主イエスのご復活を祝う、イースターの輝きの中を歩んでいます。
年齢も考え方も異なる私たちが、しかし今ひとつに集められて復活の主イエスのみ言葉に耳をかたむける奇跡のようなひとときを心から感謝します。私ではなく、あなたの力で私たちを輝かせてください。
あなたの愛を届け、隣人を元気にすることができるようにわたしたちを用いてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
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