5月4日の礼拝の内容です。

body of water waves 礼拝
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5月4日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.200.451.458.78.88です。

礼拝説教      使徒15:30~35「励ましに満ちた決定」    2025.5.4

 5月の最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますように願います。礼拝では、使徒言行録を読んでいます。教会の初めの歩みが書かれてあります。イエス・キリストの福音は、ユダヤ人から異邦人に伝えられていきます。アンティオキアに初めての異邦人教会が誕生しました。その教会を拠点として、パウロとバルナバによる第1回伝道旅行が行われました。この伝道旅行の結果として、多くの異邦人が、イエス・キリストの福音を受け入れ、洗礼を受けて、教会に加わっていきました。

 そのアンティオキア教会で、大きな問題と混乱が起きてしまいました。それは、ファリサイ派から信者になった人々がユダヤからやって来て、「あなたがたが救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでなく、モーセの律法を守り、割礼を受けなければならない」といったのです。ここで問題になったことは、キリスト教の信仰にとってとても重要な内容です。いかにして、人は神によって救いを得ることができるかということです。イエス・キリストの十字架の死と復活はどのような意味を持つかということです。神によって救われるためには、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることと、モーセの律法を守ること、割礼を受けること、この3つが必要だというのです。この問題に対して、パウロとバルナバと、ファリサイ派から信者になった人々の間で、激しい意見の対立と論争が生じたのです。

 この救いの本質の問題に関して、使徒や長老たちと議論するために、パウロとバルナバ、その他数名の者がエルサレム教会に行って、協議することになったのです。それが、第1回エルサレム会議といわれるものです。エルサレムに到着すると、パウロとバルナバは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎されました。パウロたちは、神が自分たちと共にいて、異邦人に対して、多くの人々が救いを受け入れて、教会に加わっていったことをすべて報告していきます。また、ファリサイ派から信者になった人々は「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」といって、議論になっていきます。

 このエルサレム会議で重要な役割をしたのがペトロです。ペトロは、異邦人コルネリウスとの出会いから話していきます。地中海沿岸のカイサリアの町にコルネリウスという人がいました。イタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長でした。コルネリウスは信仰心があつく、一家そろって神を畏れ、人々に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。コルネリウスは異邦人でありながら、熱心なユダヤ教徒のようでした。そのコルネリウスを神は選ばれるのです。一方で神は、ペトロにも働きかけます。ペトロはこの時に、近くの町にいました。ペトロは祈るために、屋上に上がって行きます。昼との12時ごろでした。ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思ったのです。家の中では、人々が食事の準備を整えていました。ペトロはここで幻を見るのです。天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来ました。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。それは、旧約聖書で汚れた動物とされていたものです。そして、声があって、「ペトロよ、身を起して、屠って食べなさい」というのです。しかし、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。すると、また声があって、「神が清めた物を清くないなどと、あなたはいってはならない」というのです。このようなことが三度、ペトロに起りました。
 このペトロの見た幻の中で、神のご計画を知ることになります。それまでユダヤ人たちは、自分たちは清い存在で、異邦人は汚れていると考えていました。それが、その清いとか、汚れているとかの壁がなくなったことを知るのです。その清い者と汚れている者の壁は、イエス・キリストの十字架の血による贖いによって、清められてなくなってしまったのです。

 コルネリウスの所に、ペトロが行った時に、ペトロは「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられていました。けれども神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とかいってはならない、お示しになりました。それで、私は、あなたの招きを受けた時に、すぐに来たのです」と答えています。そして、コルネリウスらに、イエス・キリストの福音を語っていきます。「イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」と証していくのです。ペトロがコルネリウスらに福音を語っていると、御言葉を聞いているコルネリウスらに聖霊が降っていきます。この時に、割礼を受けている、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人に上にも注がれているのを見て、大いに驚いています。異邦人が異言を語り、また神を賛美しているのを聞いたからです。そこで、ペトロは「私たちと同じように聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」といって、コルネリウスらに、イエス・キリストの名によって、洗礼を受けるようにといっています。多くの異邦人が洗礼を受けることができました。

 このペトロのコルネリウスとの出会いが、次のようにいうことができたのです。「人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように、異邦人にも聖霊を与え、彼らも受け入れたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。私たちは、主イエスの恵みによって救われていると信じているのですが、これは異邦人も同じことです」といっています。このエルサレムの会議の結果は、イエス・キリスト信じる信仰によってのみ、人は救われるということになったのです。ここで大切なことは、エルサレム会議ですから、人の集まった会議で決まったように思いますが、そうではなくて、神がそのように導いておられるということです。

 エルサレム会議が終って、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキア教会に派遣することを決めます。選ばれたのが、ユダとシラスでした。彼らは兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちでした。使徒たちは、人を派遣することと、手紙を書いて彼らに持たせるのです。その手紙の内容は、イエス・キリストを信じるのみによって人は救われるというものです。使徒たちは、アンティオキア教会に対して、人と手紙を持たせて、よりエルサレム会議の決定をはっきりと伝えようとしています。

 さて、パウロとバルナバ、ユダとシラスは、見送りを受けて、出発し、アンティオキア教会に到着すると、教会員全体を集めて、手紙を渡します。アンティオキア教会の人々は、それを読み、励ましに満ちた決定を知って喜びました。この手紙の内容では、神によって救われるには、イエス・キリストの信仰と、モーセの律法を守ること、割礼を受けることに対する答えが書かれてあります。ファリサイ派から信者になった人々によって、混乱が生じた教会を建て直すために、開かれたエルサレム会議の決定の内容です。どうすれば、神の救いを得ることができるかという、信仰の基本的なことが書かれてあるのです。この内容は、今後の教会の歩みを決定的なものとしました。このエルサレム会議の決定は、後のキリスト教の歩みの大きな影響を与えたのです。この時から、キリスト教はユダヤ教を離れて、ユダヤ教は全く別の宗教となっていくのです。

 神の救いに預かるためには、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけでいいのです。それ以外は、何もありません。アンティオキア教会の人々の喜びはとても大きなものでした。エルサレム教会からの手紙は、励ましに満ちた決定が書かれてありました。その大きな喜びの中で、教会の歩みは進んで行きます。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして、アンティオキア教会の兄弟たちを励まし、血からづけ、しばらく滞在した後で、アンティオキア教会の兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、エルサレム教会に帰って行きました。しかし、パウロとバルナバはアンティオキア教会にとどまって教え、他の多くの人々と一緒に主の言葉を告げ知らせて行きました。

ローマ3:19~24
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 ここに神の救いの内容が書かれてあります。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、私たちは救われるのです。これが、神の救いのすべてです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。エルサレム会議の決定の内容を知ったアンティオキア教会の人々の大きな喜びを知りました。それは、神の救いの内容が改めて、示されたものでした。イエス・キリストの十字架の死と復活、それを信じることだけが、私たちの救いを完成させるものです。この基本に立って、神への信仰を持って、歩むことができますように、私たちを守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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