5月11日の礼拝の内容です。

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5月11日の礼拝の内容です。讃美歌は、351.403.405.412.26です。

礼拝説教     使徒15:36~41「主の恵みに導かれて」   2025.5.11

 私は、この礼拝の中で使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は、キリスト教の教会の最初の様子を記しています。ここから私たちの教会の歩みの参考になると信じているからです。今日の聖書の箇所は、第2回伝道旅行の準備の様子が記されています。ここに悲しい現実が起っています。それはパウロとバルナバの対立です。使徒言行録は「そこで、意見が激しく衝突し、彼らは別行動をとるようになって」と、あります。このパウロとバルナバの対立の意味を考えていきたいと思います。

 その前に、話が急に変わることを許してください。旧約聖書の創世記の後半にヨセフ物語というのがあります。ヨセフ物語は創世記37章から50章にかけて書かれてあります。ヨセフは12人兄弟でした。これがイスラエルの12部族のもとになっていきます。ヨセフは父ヤコブにとって年寄り子でした。また愛するラケルの子どもでもあります。ヤコブはどの息子よりも可愛がり、特別な服を作ってあげました。他の兄弟たちは父ヤコブがどの兄弟よりもヨセフを可愛がるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すことはできなかったのです。ある日、兄弟たちはヨセフを殺そうとしました。しかし、結果的にヨセフをエジプトへ奴隷として売ることになったのです。父ヤコブのヨセフに対する溺愛から、そのような悲しい事件が起ってしまったのです。エジプトに奴隷として売られていったヨセフは、エジプトの宮廷の役人の者となっていきました。奴隷としての日々、またはある事件によって、牢獄に入れられて囚人として苦しい日々を過ごすことになりました。

 ヨセフにはある力がありました。それは夢を解く力です。ある時に、エジプト王が2つの夢を見ました。その王の夢の意味を誰も解くことができませんでした。しかし、ヨセフが王の夢を解き明かすことができたのです。牢獄に閉じ込められていたヨセフは、牢獄から出され、王の前に立たされて、王の見た2つの夢の意味を解き明かします。それは、これからエジプトには7年間、豊作が続く。その後、7年間、大飢饉が起るというものでした。ヨセフは王の前で、夢の意味を解き明かすだけでなく、その解決方法を具体的に指示したのです。そのために、エジプト王はヨセフをエジプトの大臣に任命して、エジプトに今後起る危機を乗り越えるために、その役割を与えられたのです。7年間の大豊作が始まりました。その間にヨセフはできるだけ食べ物を倉庫に備蓄するように指示するのです。大豊作が終ると、今度は、7年間の大飢饉が始まっていきました。大飢饉はエジプトだけではなく、世界中に広がっていきます。カナンに住んでいたヤコブとその家族たちもその影響を受けることになりました。食べ物がなくなっていくのです。人の命に関わることです。父ヤコブは息子たちにエジプトに行って、食べ物を買ってくるように命じるのです。

 食べ物を買うために、ヨセフの兄弟たちは、エジプトに行くのです。そこでエジプトで大臣をなったヨセフと再会することになります。結果的に、ヨセフの働きによって、エジプト人は大飢饉から命をつなぐことができました。また、世界中の人々も、ヤコブとその家族も、命をつなぐことができたのです。ヨセフがエジプトに行かなければ、大飢饉から人々を救うことができなかったのかもしれません。この時にヨセフは次のようにいっています。

創世記50:20

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

 ここに書かれてありますように、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフに対して、奴隷としてエジプトに売ってしまうということをしましたが、そのことによって、世界中の人々の命を大飢饉から救うことができたのです。神は悪を善にも変えることができることをいっています。

 さて、話は戻って、使徒言行録にいきます。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと伝えられていきました。パウロとバルナバによって第1回伝道旅行が行われて、ますます異邦人への伝道が進んでいきました。その時に、教会は大きな問題を抱えるようになりました。それは、人が神によって救われるためには、イエス・キリストを信じること、モーセの律法を守ること、割礼を受けることなどが条件として入って来ました。その結論を得るために、エルサレムでの教会会議が行われて、人が神によって救われるためには、イエス・キリストを信じることにのみ、救われることが確認されました。このエルサレム会議の決定をパウロとバルナバはすべての教会に向けて発信するのです。ここまでパウロとバルナバは一緒になって、神のために、教会のために働いて来ました。どちらが欠けていてもダメだったと思います。

 そして、パウロによって、第2回伝道旅行の計画がバルナバに伝えられます。その内容は、第1回伝道旅行で行った先の教会の様子をもう一度見て来るというものでした。一度、行ったからいいではないかということではなくて、もう一度訪問して、教会の様子を見てくる、サポートして行こうということで大切な旅行になるはずでした。ここで大きな問題が起って来ます。マルコを連れて行くかどうかで、パウロとバルナバの間で激しい衝突が起ってしまうのです。使徒13:13「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネ(マルコ)は一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」とあるように、第1回伝道旅行の時に、マルコは途中でエルサレムに帰ってしまったのです。どのような理由で帰ったのかははっきりとは分かりませんが、伝道旅行の困難に耐え切れずに、帰ってしまったのだろうと想像できます。バルナバは、マルコをもう一度連れて行きたいと思ったのです。一度失敗しても、やり直すチャンスを与えてたいと思ったのでしょう。バルナバ、慰めの人といわれる意味も分かります。

 しかし、パウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は連れて行くべきではないと考えたのです。バルナバの意見とパウロの意見とどちらが間違って、どちらが正解ということができるのでしょうか。どちらも正解ということができるでしょう。そこで、意見が激しく衝突してしまうのです。あのバルナバならパウロに折れるのではないかと思いますが、ここで全く妥協の様子は出て来ません。マルコの未来を考えての思いだったのでしょう。悲しいことに、このような意見の対立が起っていることを、しっかりと受け止める必要があると思います。教会の中に、いろいろな意見の対立が起って来ることはあることなのです。

 悲しいかな、とうとうパウロとバルナバは別行動をとることになってしまいます。バルナバはマルコを連れて、キプロス島へ向かって船出しました。一方、パウロはシラスを選び、教会の兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発します。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけて行きます。パウロとバルナバが別行動とることになってしまったこと、これは悲しい現実だと思います。できれば、このようなことにならない方がよかったと私は思います。しかし、大きな視点で見ると、第2回伝道旅行が1つではなくて、2つになったと考えることもできます。全世界に、イエス・キリストの福音を広めていくということからすれば、素晴らしいこととなっていきます。人間的な対立も、神は大きな視点で、それを良き方向と変えてくださるということにつながっていきます。パウロの言葉に次のようなものがあります。

ローマ8:28

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 パウロは、バルナバとの対立の結果として、このような言葉を語ったのでしょうか。人と人との間にも対立は起ってしまいます。教会の中でも対立は避けることができません。そのような人間の対立も神は用いて、素晴らしい御業と変えてくださるのです。パウロとバルナバの対立、そしてヨセフとその兄弟たちに対立を見てきました。そのような対立を神はすべて良い方法へと導いてくださったのです。ここで人の対立はいいといっているのではありません。人の対立は起ってしまいます。それで、悲しむのではなくて、それでも神はその対立をも良き方向へと導いてくださる信仰が大切だと思います。私たちの教会もいろいろな意見があると思います。それをも神は良き方法へと導いてくださると信じることが大切なのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。聖書からパウロとバルナバの激しい衝突の場面を見てきました。そのことで二人は別行動を取ることになってしました。でも、それは伝道活動がより活発になるように、神は導いてくださったのです。私たちは人間的な視点だけではなく、神への大きな視点を持って、信仰生活を送ることができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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