5月30日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は517(1)346(1)です。教会堂の増改築の工事が進んでいます。工事の安全をお祈りください。

礼拝説教    イザヤ49:14~16「神の手のひらに刻まれたもの」  2021.5.30

 5月最後の日曜日を迎えました。週の初めの日曜日に、礼拝を守ることができますことを心から神に感謝します。いろいろな場所で、神を礼拝することができること、感謝します。

 先週は、1人の兄弟を天に送りました。また、皆さんの近くにも、愛する人を天に送られた方もいるでしょう。1人の人が生きて、そして神のところに召されていく、このような時に、人の人生とは何かと考えてしまいます。そして、自分の人生を振り返るのです。自分は今、何をしているのであろうか。何を喜びとして生きているのだろうかなど、です。

 以前ですが、次のような絵本に出会ったことがあります。「生まれて来てありがとう」です。神奈川で、横浜市にある神奈川県立子ども医療センターで、重い障害を持っている子どもたちに、絵本の読み聞かせのボランティアをしていました。身体的に重い障害を持ちながら、子どもたちは入院生活をしています。私はA君と出会いました。A君とほとんどその時間を過ごしました。A君がいつも待っているのです。そして、私を見つけ、絵本を読んでもらうのを待っていました。A君とたくさんの絵本を読みました。同じ本も何度も読みました。その中に、その絵本があったのです。忘れられない絵本になりました。

 絵本「生まれて来てくれてありがとう」は、次のような内容でした。神様から生まれてもいいよと言われた、背中に羽のついた赤ちゃんはママを探しに出かけます。「ぼくのママ知らない」っとクマの子どもに尋ねてみますが、ママの居場所は知らない様子です。それからクマの子どもについて行くと、クマのママは生まれて来てくれてありがとうとクマの子どもを抱きしめるのです。次はゴリラの子どもに尋ねます。やっぱり、ママの居場所は分からない様子です。ゴリラの子どもについて行くと、ゴリラのママが生まれてきてくれてありがとうと抱きしめて言うのでした。ブタの子どもたちやフクロウの子どもたちにもママの居場所を尋ねますが、やっぱり誰も知らない様子です。一生懸命にママを探します。ママを探すことができるのでしょうか。最後は、ママを見つけ、赤ちゃんとして生まれます。「オギヤー、オギヤー」と泣いて、生まれてきます。ママはその子を抱きしめて、生まれて来てくれてありがとうと言って強く抱きしめます。赤ちゃんが生まれてくる、かけがえのない命の誕生を「生まれて来てくれてありがとう」の言葉と共に描かれて、生まれて来た時の喜びが満ちているものです。

 1人1人がこの世界に生まれてくる、これは本当に素晴らしいことだと思います。すべての人がこのように大切な存在として生まれてきているのです。神奈川にいた時、平和学園の宗教主任として歩んでいました。中学生や高校生と向き合って、聖書を学んでいました。生徒1人1人が、お母さんから「生まれて来てくれてありがとう」と言われていない。いや自分は生まれて来ない方がよかったと感じている生徒もいました。自己肯定感といいますか、それが持つことがとても難しい状況もありました。どうしたら、そのような生徒たちが、あなたは生まれてきてよかった、生まれて来てくれてありがとうと抱き締めてくれる存在を感じてほしいと心から祈りました。そして、次のような聖書の言葉に出会います。神からのみ言葉です。

イザヤ49:14

シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 このイザヤ書は、イスラエルの人々が本当に苦難の時に書かれたものです。バビロン捕囚というものです。イスラエルの人々は、約束の地に住んでいました。神はイスラエルの人々と契約を結ばれました。神はイスラエルの神となり、イスラエルの人々は、神の民となると言うものでした。イスラエルの人々は神の民として、約束の地に永遠に住むと考えていました。神から見捨てられるとは思っていませんでした。それが、約束の地を失い、エルサレムにあった神殿も破壊され、多くの人々が、敵の都バビロンに奴隷として連れていかれたのでした。イスラエルの人々は言います。神は、わたしを見捨てられた。わたしの神はわたしを忘れられたと言っています。

イザヤ49:15

女が自分の乳飲み子を忘れるであろか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。

 私は男ですので、この母親の気持ちを本当の意味では知ることはできません。自分にも娘がいるのですが、娘が幼い時、結構なついてくれました。パパ、パパと言ってくれて自己満足していました。ところが具合が悪い時、決して私のところには来ません。ママ、ママと言って、離れないのです。無理にでも離そうとしますと、大泣きをします。そして、元気になると自分のところにも来てくれました。やはり、ママ、母親なのだろうと思いました。母親が自分の子を虐待してしまうケースがニュースになっていますが、自分の勝手な思いですが、きっと母親は自分の子を虐待している以上に、自分のことを苦しめているのではないかと思います。でも、私たちは人間ですから、母親が自分の子を忘れてしまう状況も起ってきます。それでも、神はあなたを忘れることは決してないと言われるのです。

イザヤ49:16

見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。

 神は言われるのです。わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつけると。イスラエルの人々は、神が自分たちを見捨てた、忘れたと感じていました。バビロン捕囚と言う状況の中で、そのように感じていたのです。しかし、神は、イザヤを通して、バビロンに奴隷として歩んでいるイスラエルの人々に言います。母親が自分の産んだ子を忘れるであろうか、母親が自分の産んだ子を憐れまないことがあるだろうか、たとえ、母親が自分の産んだ子を忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見なさい。わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつけるとまで、言ってくださっています。神が、自分の手のひらに刻みつけると言うことは、何を意味するのでしょうか。何を、神はここで、イスラエルの人々に何を語ろうとしているのでしょうか。

ヨハネ3:16

神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ20:24~28

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 神が自分の手のひらに刻みつけると言うのは、神の子イエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは十字架につけられた時、両手の手のひらに大きな釘が打たれたのでした。大きな釘、それは私たち1人1人の存在、すべての罪そのものです。神はイエス・キリストの十字架によって、神の手のひらに、私たち1人1人を刻みつけてくださったのです。神の愛を知ることによって、「生まれて来てくれてありがとう」と神が私たちに言ってくださっているのです。

祈り 神よ、礼拝する時を与えてくださり、感謝します。あなたのみ言葉によって、私たちがいかにあなたに愛されているのかを知ることができました。あなたのみ言葉を支えにして、新しい1週間を希望と喜びをもって過ごすことができますように、守り導いてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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