6月29日の礼拝の内容です。

礼拝

6月29日の礼拝の内容です。讃美歌は、205.346.529.517.29です。

礼拝説教    エレミヤ1:1~10「わたしたちの召命」(小椋実央牧師) 2025.6.29

6月の最後の主日を迎えました。テレビから流れてくる中東の現状を伝える映像に、心を乱されながらこの一週間を過ごしておられた方も少なくないのではないかと思います。今私たちが開こうとしているエレミヤ書も、大国アッシリア、バビロニアに翻弄されながらやがて滅亡して悲惨な歴史を背負うことになるイスラエルの物語の一部分です。ここで登場する一人の若者、エレミヤの物語に耳を傾けながら、2025年、不穏な世界情勢の中を生きる私たちへのはげましの言葉を、明日への希望を見出したいと願っています。

本日お読みした箇所には「エレミヤの召命」という小見出しがついているので、今日はエレミヤの召命についての話なんだな、ということは想像がつくと思います。私の経験が標準的かどうかはよくわかりませんが、私自身は教会で何年か教会生活を送り、洗礼を受け、信徒としての生活を送り、やがて牧師としての志を与えられて、さぁ神学校を受験しようかどうしようか、という段階にいたるまで、召命という言葉を知ることがありませんでした。もしかすると日常生活のどこかで召命という言葉に出会っていて、もしかすると説教者が説教の中で繰り返し召命という言葉を使っていたのかもしれませんが、私自身が自覚的に召命という言葉と向き合う、召命の意味を自ら考えることになったのは、牧師という一つの人生の選択肢を考えるにようになってからのことでした。

結論から言うと、召命というのは神さまから招かれて、特別な働きを与えられることをこのキリスト教の世界では召命と呼んでいます。自らが牧師になりたいかどうかではなくて、これが神の招きによるものかどうか、それを自分に問い、神学校の試験でも召命を問われ、もっと言うと、神学校で学びながらも繰り返し召命を問い直し続けました。神学校で学んでいく中で一番召命が問われたのは、同じ志を抱いて門をくぐった仲間たちが学校を去って行く時です。正確な人数は覚えていませんが、神学校に入ってから在学中に同級生が7~8人は辞めていきました。神学校という独特な閉鎖的な環境の中で心身のバランスを崩してしまう人、人間関係に傷ついてしまった人、そしてわりと多かったのが女性限定ですけど結婚や出産によって、当初自分が思い描いていたライフプランとは変わってしまってそういう選択をせざるをえなかった同級生が何人かいました。一人辞めるたびに、自分自身の召命を改めて問われている気がしました。本当に自分が神学校に残っていていいのだろうか。もしかすると、本当は彼女のほうが牧師になるのにふさわしくて、自分が辞める側でもおかしくはなかったのではないだろうか。こんなことを繰り返し問い続けました。召命を問われるというのは苦しい作業でもありましたが、しかし今となってみれば繰り返し神に問い、神に助けをこいねがう、恵まれた時であったように思います。

聖書には何人かの召命の物語が記されています。例えばアブラハムは「私が示す地に行きなさい」と命じられてすぐに従っていきます。息子イサクをささげなさいと言われれば、これまたすぐに従うのです。これがアブラハムの召命です。一方出エジプトで活躍をするモーセはホレブの山で神と出会い、エジプトに引き返してイスラエルの民を導き出すよう命じられます。モーセはアブラハムと違ってすぐにはい、とは言わずに、なんだかんだと言い訳をならべて逃れようとするのですが結局は神に従います。これがモーセの召命です。

本日お読みしたのがエレミヤの召命です。神の言葉がエレミヤに臨みます。エレミヤは若すぎるから、という理由で断ろうとするのですが、若者にすぎないと言ってはいけない、と神に押し切られてしまいます。エレミヤはモーセほど往生際が悪くはありませんが、アブラハムほどすんなりと神に従ったわけではありません。しかしどちらがいい、とか悪い、というわけではなく、エレミヤにはエレミヤらしさがあっていいのだと思います。このように召命と言いますと、牧師とか、預言者とか、聖書の有名な人物に関係のあるもので、私には関係がない、と誤解されてしまうことが多いのですが、決してそうではありません。神に招かれて信仰者となった私たちは、すべて神からの召命を受けているのです。ですから本日のエレミヤの召命の物語が、自分には関係のない、一部の特別な人間の話だとは思っていただきたくない。自分とは関係のない、昔の預言者の話だ、と思った時点で、今聞いている言葉は全く無意味な言葉になりますし、この時間が全く無駄な時間になってしまいます。この私を招き、教会へと導いて、イエス・キリストの名において神の子とならしめてくださった神が、同じようにエレミヤを招き、預言者として立てようとしている。エレミヤも私たちも同じ方に招かれている、同じ神の言葉を聞いている。そのように聞いていただきたいと思うのです。

預言者エレミヤの物語をご一緒に紐解こうとしています。少し時代背景をおさらいしておきますと、サウル・ダビデ・ソロモンと続いた王国はやがて分裂をし、北王国が先に滅びます。この北王国を滅ぼしたのがアッシリアという大国です。アッシリアはしばらく権力をふるっていますが、やがてバビロンが力をつけてアッシリアから独立してアッシリアを圧倒していきます。アッシリアとバビロンの力関係が逆転していきます。エレミヤはちょうどこの時代に、預言者として立てられます。国内の状況としては、南王国は完全にアッシリアの支配下にありました。アッシリアに税をおさめ、アッシリアの神々を受け入れていました。イスラエル王国は四国ぐらいの広さしかありませんから、南王国はさらにその半分、という小さな国です。アッシリアの軍事力を頼りにしてエジプトなどの近隣諸国におびやかされながらかろうじて、細々と存続している小さな国でした。そのイスラエルにとって頼みの綱であるアッシリアに陰りが見えてきたのです。ほころびが見えてきたのです。バビロンが日に日に力をつけてきているのです。この不安定な政治状況の中でエレミヤは預言者として立てられます。不安定だからこそ、エレミヤが召し出されたと言ってもいいかもしれません。

この時、エレミヤは20歳ぐらいだった、と言われています。今日日本で20歳と言えば成人ではあるものの、責任ある仕事につくにはまだ早い、という感じが否めませんが、聖書の時代は寿命が短く、成人も12歳とか13歳とか早いのです。20歳が若すぎる、若者に過ぎない、ということはありません。ではなぜエレミヤが「わたしは若者にすぎませんから」と言っているか、と言えば、1節を見ていただくとわかります。「エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。」エレミヤは祭司の子であった。つまりエレミヤは祭司の家系に生まれて、祭司になる予定でした。民数記の4章によりますと、祭司として正式に務めにあずかるのは30歳からでした。おそらくエレミヤは祭司として準備をしている段階で、まだ30歳にはいたってはいなかった。そのため祭司としてまだ準備が整っておらず、十分な働きができそうにないために「若者にすぎませんから」と答えているのです。エレミヤには祭司としてのイメージを持っていたと思います。おそらく彼の父親がそうであったのでしょう。堂々として人々が納得する言葉を語り、人々を慰め、励ます言葉を語る。それに比べると自分は流ちょうに語ることができるわけでもないし、預言者なんて滅相もない、とエレミヤは思っている。しかしエレミヤの心配は杞憂に終わります。エレミヤは自分の言葉で語るのではない。神の言葉を語るのです。神はエレミヤの口に手を触れて、神ご自身の言葉を授けるのです。エレミヤに何を語らせるか、主導権はエレミヤではなくて神が持っておられるのです。

「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」

抜く、壊す、滅ぼす、破壊、建てる、植える。印象に残る繰り返しの言葉です。6つの動詞が並べられています。最初の4つ、抜く、壊す、滅ぼす、破壊する、は終わりを予感させる言葉です。一方で残りの二つ、建てる、植えるは将来への希望を感じられる言葉です。この6つの単語に、エレミヤがこれから語る預言が凝縮されています。エレミヤが語るのは、これから国が滅びていく、という時です。しかも国が滅亡するだけでなくて、神殿という礼拝の場所も失ってしまう。イスラエルの民は二重の喪失を味わうのです。その中でエレミヤが語るのは、「これから国が滅びますよ」という暗いニュースだけではありません。その先に「囚われの身から解放されて帰ってくることができる」という明るいニュースも含まれているのです。

エレミヤはイスラエルの人々がこれから味わう苦難を示し、しかしその中にある希望を指し示し、悲劇の中で人々が信仰を強めていくことができるようにはげますのがエレミヤに与えられた役目です。少なめに見積もったとしても、簡単そうな仕事には思えません。エレミヤははっきりとはいとは答えませんが、いいえ、とも答えません。しいて言えば神に圧倒されて預言者としての道を歩みだした、と言ってもいいかもしれません。もっと言うと、すでに預言者としての道がしかれていて、そのことに今気づかされた、というのが正しいのかもしれません。何故ならエレミヤが生まれる前どころか、エレミヤの姿形が存在するさらに前から、神はエレミヤを知っていた、というのです。話が前後してしまいますが、5節をご覧ください。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」これと似たような表現で私たちは「生まれる前から」という言葉を使います。例えば自分が母親のお腹の中にいる時に母親が教会に来ていれば「自分はお腹の中にいる時から教会に来ていた」という言い方をします。だからといってその時期を礼拝出席の数に数えるか、という話にはならないのですが、生まれる前にこういうことをした、実際には母親がしているのですけれども、自分は生まれる前にこういうことがあった、ということを話題にすることがあります。だれもそのことを、「いや、実際にあなたが教会に出席しているわけではないからその言い方は正しくない」などと否定することはあまりないと思います。

今朝のエレミヤに対する神の言葉は、エレミヤが生まれる前の話をしているのですけれども、厳密に言うと2つの異なる時期について語っています。一つはエレミヤが母の胎内に形作られる前のことであり、もう一つは胎から出てくる、すなわち出産前の時期のことです。はじめはまだ母親の胎内にエレミヤの姿形がない時点での話。いわゆる受精卵が子宮内に着床して「妊娠おめでとうございます」と言う段階よりも以前の話で、神はその時点のエレミヤを知っている、ということ。このことは私たちの命の始まりに、神が無知ではおられない、ということをあらわしています。神さまが知らない間に発生した命はひとつもない。ひとつひとつの命の始まりは、すべて神さまの御手のうちにおかれている。命の始まりも、命も終わりも、きちんと神さまはご存じでいてくださる。

そしてエレミヤがこの世に生まれてくるその前に、神はエレミヤを聖別した。聖別というのはわける、という意味です。預言者にふさわしい特別な才能を与えるという意味はなくて、こちらにわけておく、こちらのグループに入れておくという意味の言葉です。この二つの時間軸について、つまりエレミヤの姿形が見えない時点で神がエレミヤを知っておられたことと、エレミヤが生まれる前にエレミヤを聖別したこと、この二つにどのような意味があるのか。つまり一度ではなくて少なくともエレミヤが生まれるまでに少なくとも2回は神さまの接触があったということはどういう意味なのか。今回は時間の関係でそこまで深く掘り下げることができなかったのですが、私たちの生涯において神さまからの接触は1回限りではない、と言うことができます。神さまは必要に応じて何度でも私たちをたずねてくださり、私たちを呼び出し、必要な役目を与えようとなさっている。エレミヤは今回が神さまとの初めての接触だと思っていたけれども、実は3度目の神さまからのコンタクトだったと知らされて、驚きつつしかし感謝のうちに受け止めたのではないかと思います。

そして今日、最も覚えて帰っていただきたい、今日の礼拝のお土産として持って帰っていただきたいと思うのは次の言葉です。5節の最後です。「わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」先ほど速足で歴史をおさらいしました。アッシリアに支配されている小さな南王国。そのアッシリアからバビロンへと強い国が移り変わろうとしている、とても不安定な時代。イスラエルにとっても、アッシリアにとっても、バビロンにとっても、近隣諸国にとっても、安定して平和な国、というのは一つもないのです。その時にエレミヤは諸国民の預言者として立てられた。イスラエルの預言者ではありません。諸々の国の民のために神の言葉を語るために、神に召し出されたのです。敵であるアッシリアやバビロンのためにも、エレミヤは語らなければならないのです。イスラエルだけが建て、植えるのではなくて、アッシリアやバビロンもまた抜き、壊され、滅ぼされ、破壊され、そして建て、植えられなければならないからです。神の言葉は身内だけで味わうものではありません。敵対する相手にさえ、神の言葉は届かなければならないのです。長い歴史の中で見れば、ちっぽけなイスラエル、南王国の末期に誕生したエレミヤという預言者ではありますが、エレミヤの言葉はイスラエルのためだけのものではありません。現に、時を経て、アジアのはじっこである日本の私たちにも届けられているのです。神の言葉はその場限りの問題解決の言葉ではなくて、世界的な広がりを持ち、時間に拘束されることなく、今日の私たちを生かす言葉でもあるのです。となると、諸国民の預言者として立てられたエレミヤの言葉は、今の私たちにも語られている言葉。イスラエルの南王国であろうとも、バビロニアであろうとも、日本であろうとも、戦いの真っ最中の国であろうとも、そうでなくとも、私たちはこのエレミヤの言葉から繰り返し神の言葉を聞き、歩むべき道を見出すことができるのです。

冒頭で、エレミヤの召命の物語は私たちとは無関係ではないということを申し上げました。何故なら私たちもまた、それぞれ神から呼ばれ、大切な働きを与えられているからです。エレミヤの召命の出来事に耳を傾けた今、改めて私たち一人ひとりがキリスト者として召されたことを思い起こしたいと思います。神は諸国民の預言者としてエレミヤを立てましたが、私たちのこともまた神は特別の目的のために私たちを選び出し、ここへと招いておられます。それは他でもなく、神を礼拝することです。聖書の学びも大事、隣人のために祈り、働くことも大事、社会のことに関心を持って新聞を読み、ニュースを見ることも大事。しかしすべてに先立つのは神を礼拝することです。罪ある私たちを、神さまは選び取ってご自分の子供としてくださいました。洗礼を受けて救われるというのは、自分の罪が帳消しになって、あぁよかったとこの私が安心して暮らすためではありません。あぁよかった、と安心するのは私ではなくて、神さまなのです。この罪深い迷える子羊だった私たちが、イエス・キリストを信じて洗礼を受けて罪赦されて、教会に連なるものになった。あぁよかった、と喜んでいるのは神さまの側であって、神の側に目的があって私たちは召されてキリスト者とされたのです。私たちは自分が安心するために洗礼を受けたのではなくて、神さまが安心するために神さまが私たちを選んで洗礼をさずけてくださったのです。

エレミヤは諸国民の預言者として神に召されました。私たちは2025年というこの時に、この場所で礼拝するために神さまに召されています。エレミヤの言葉にイスラエルの将来が、近隣諸国の将来がかかっていたように、私たちの礼拝が私たちだけではなくて、家族、隣人、この世界のすべての人の、これから生まれるであろう人々の救いがかかっている。私は洗礼を受けて安心したかもしれないけれども、神さまはまだまだ安心してはおられないのです。洗礼を授けなければならない、迷い出た子羊は数えきれないほど大勢いるからです。神が救いの手をのばし続ける限り、私たちはその働きの一部を担うためにこの礼拝を決してとめるわけにはいきません。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」エレミヤが召されたようにわたしたちもまた召されている。そのことを覚えて新しい一週間の旅路を初めて参りたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま、礼拝の恵みを感謝します。今朝わたしたちは、あなたからの選びを、召命を改めて確認することができました。ありがとうございます。エレミヤと共にあなたの言葉に聞き、エレミヤと共に大胆にみ言葉を語ることができるよう、私たちを励まし、支えてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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