7月6日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.411.433.457.78.27です。
礼拝説教 使徒16:35~40「安心して行きなさい」 2025.7.6
7月20日に参議院選挙があります。18才以上で、日本国籍を持つ者は、この選挙に参加することができるのです。選挙に行くのが当たり前になっていますが、選挙に行けるということはとても貴重なことなのです。日本人としての生きる権利というのでしょうか。その選挙を大切にして、私たちの生活に生かしていきたいと願うのです。
なぜ、選挙の話をしたかといいますと、パウロは、ローマ帝国の市民権を持っていました。その権利をパウロはどのように用いているのでしょうか。今日の聖書の箇所で、パウロは、自分はローマ帝国の市民権を持っていると話しています。今日の聖書の箇所は、パウロの第2回伝道旅行のフィリピでの出来事です。当時、フィリピはローマの植民都市でした。ローマではないのですが、ここに小ローマがあるという町でした。ローマ帝国の市民権とはどのようなものかといえば、37節に「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判もかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄した」とありますが、ローマ帝国の新民権を持っている人は、裁判をかけられず、公衆の面前で鞭打ちや投獄ということはないということです。
パウロの第2回伝道旅行は、イエス・キリストの福音がアジアからヨーロッパに伝えられてことになっていきます。フィリピは最初の伝道地でした。ここでティアティラ市出身の紫布の商いをしている人で、神をあがめるリディアと出会っています。リディアの家がフィリピの教会の基となっていくのです。このフィリピでは、占いの霊に取りつかれている女奴隷と出会いました。この女性は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていました。この女性は、パウロたちの後ろをついて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び続けるのです。こんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、女性に取りついている占いの霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女性から出て行け」と命じますと、霊は女性から出て行きました。この女性は、今まで取りついていた占いの霊が出て行きました。苦しみから解放されたのです。
この後の問題は、占いの霊が出て行った女性は、もう占いができないということになりました。それは、この女性を使って、金儲けしていた主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを意味します。それは、主人たちにとって大きな損失です。主人たちはパウロたちを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行き、高官たちに引き渡して「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させています。ローマ帝国の市民である私たちが受け入れることも、実行することもできない風習を宣伝しています」と訴えます。この女性の主人たちも、役人も、高官たちも、パウロたちがユダヤ人であることを知って低く見ている感じです。まさか、パウロたち彼らと同じくローマ帝国の市民権を持っているとは思わなかったのでしょう。
この時に、パウロたちは自分たちが、ローマ帝国の市民権を持っていると主張すれば、次に起って来る服をはぎ取られ、何度も鞭打ちを味わうことはないはずでした。そして投獄されることもありませんでした。どうして、ここでパウロは、自分が持っているローマ帝国の市民権を主張しなかったのかと思います。それは、次の流れがあるからです。看守たちの救いです。それにしても厳しい試練と会うことになっていきます。パウロたちは着ている服をはぎ取られ、鞭で何度も打たれ、牢に投げ込まれ、看守に厳重に見張るように命じるのです。この命令を受けた看守は、パウロたちを一番奥の牢に投げ込み、足には木の足枷をはめておいたのです。この看守たちの救いが、次に起るために、パウロたちは自分たちのローマ帝国の市民権を主張しなかったような感じです。民衆の前で、裸にされ、激しい鞭打ちを味わい、一番奥の牢の中で、足には木の足枷をはめられている、占いの霊に取りつかれていた女奴隷を助けたために、このような厳しい仕打ちを受けているのです。神のために働いているとしながらも、パウロたちは牢の中で、激しい痛みと苦しみと絶望の中にあるような感じだったと想像します。
しかし、そうではありませんでした。真夜中ごろ、パウロたちは賛美の歌を歌っていたのです。神に祈っていたのです。他の囚人たちも賛美に聞き入っていました。突然に、大地震が起って、牢の土台が揺れ動きました。たちまち牢の戸が皆開き、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人が逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。当時の看守は、囚人を逃がしてしまったら、責任をとって死刑になることになっていたのです。考えてみると、厳しい仕事でした。その時に、パウロは大きな声で叫ぶのです。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」と。看守は明かりを持って来て、牢の中に飛び込み、パウロたちの前に震えながらひれ伏し、パウロたちは外に連れて行って、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」といいました。パウロたちは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答えます。そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語るのです。まだ、真夜中でしたが、看守はパウロたちを連れて行って、打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けるのです。この後で、パウロたちを家に案内して食事を出し、神を信じる者となったことを家族ともども喜んでいきました。このように看守とその家族の救いのために、神はパウロたちを用いられるのです。
そして、今日の聖書の箇所になりますが、朝になると、高官たちは下役を差し向けて「あの者どもを釈放せよ」と命じました。それで、看守はパウロのこの言葉を伝えています。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、いってよこしました。さあ、安心して行きなさい」と。しかし、そこでパウロは下役にいうのです。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つ私たちを、裁判をかけずに公衆の面前で鞭打って投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここに来て、私たちを連れ出すべきだ」といいます。パウロは自分たちが牢から釈放される時に、初めて、自分たちがローマ帝国の市民権を持っていることを主張しています。ここでローマ帝国の市民権を持つということは、裁判をかけずに公衆の面前で鞭打ってから牢獄するようなことはしてはいけないということです。
パウロの言葉を聞いた下役たちは高官たちに報告しました。高官たちは、パウロたちがローマの市民権を持つ者であることを聞いて恐れるのです。ローマ帝国の市民権を持つ者にしてはいけないことをしてしまった。その結果として、高官たちがその責任をローマ当局から問われることになり、辞任や裁きを受けることなど厳しい状況が考えられるのです。だから、高官たちは恐れたのです。高官たちはパウロたちの所に出向いて来て、詫びをいい、パウロたちを牢から連れ出し、町から出て行くように頼みました。これ以上、問題が大きくなって、自分たちの身が危なくなるのを避けたい思いがあるからです。どうして、パウロは自分たちの釈放の時に、ローマ帝国の市民権を持つ者であるということを高官たちにいったかといえば、新しいフィリピの教会のためでした。牢を出たパウロたちは、リディアの家に行って、兄弟たちに会い、彼らを励ましてから次の伝道地に出発して行きます。リディアの家、つまり後のフィリピの教会が、パウロたちのローマ帝国の市民権を持つ者が関係していると知らせば、フィリピの教会の人々は安心して伝道活動をすることができるというものです。
パウロは自分が持っているローマ帝国の市民権について、必要に応じて、使っているようです。当時は、ローマ帝国が全世界を支配していました。ローマ帝国の力によって、パウロたちは安心して伝道を続けることができていたのです。そして、必要に応じて、パウロはその自分が持っているローマ帝国の市民権を使っています。後に、パウロはエルサレムで、ユダヤ人に捕まってしまいます。その時に、助けてくれたのがローマ帝国の兵士たちでした。最後に、パウロはローマ帝国の新民権を利用して、ローマ皇帝に上訴することを選び、ローマ帝国の首都ローマにまで行くことができるようになるのです。
パウロは自分が持っている権利を十分に利用していますが、もっと大切なことがあります。それは、この地上で持っている市民権もありますが、神の国の市民権を持っているということです。パウロは次のような言葉をいっています。
ローマ7:38~39
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
この言葉から、パウロは神の国の市民権を持っていることを考えて、いっているのです。それは、パウロだけではなくて、私たち1人1人のキリスト者も神の国の市民権を持っているのです。私たちはその神の国の市民権を持っていることをどれほど考えているのでしょうか。確かに、私たちキリスト者は皆、神の国の市民権を持っているのです。やがて、この地上を離れて、神の国に行った時に、その市民権は生きて来るのです。
祈り 神よ。あなたのことを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロの働きから神の国の市民権について考えてみました。私たちはこの地上に生きる市民権を持っています。そして、もっと大きな神の国の市民権を持っているのです。キリスト者になった時に、神から与えられた神の国の市民権を与えられ、やがて行くべき神の国においてその市民権を生かすことができるのです。この恵みを感謝して、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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