10月5日の礼拝の内容です。

10月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、351.394.412.452.81.88です。

礼拝説教     使徒19:1~10「主イエスの名による洗礼」    2025.10.5

 今日は、洗礼について考えていきたいと思います。私たちの教会では4月のイースターの時に1人の若い姉妹が洗礼を受けられました。1人の人が、イエス・キリストの十字架による死と復活を通しての救いを信じて洗礼を受けていくこと、これは人の力でできることではありません。まさしく神の御業であり、聖霊の力そのものです。私は、この洗礼式の時に、日本基督教団の口語式文から「あわれみ深い神、どうか御前に立つ姉妹の信仰と告白を受け入れ、すべての罪をゆるし、水と霊とによって新しく生まれさせて下さい。また恵みをもって姉妹を強め、信仰により信仰に進ませ、み国の世嗣としてとこしえのいのちに至らせて下さい。アーメン。」と祈り、名前を呼んで、「父と子と洗礼の名によって、バプテスマを授ける。アーメン」といって、洗礼を授けました。聖霊の働きをみることができたのです。

 聖書は使徒言行録を読んでいます。使徒言行録はキリスト教の最初の歩みが書かれてあります。イエス・キリストの福音はエルサレムから始まって、当時の世界の中心であったローマにまで及んでいきます。今日の聖書の箇所は、パウロによる第3回伝道旅行のエフェソでの出来事が書かれてあります。パウロの第2回伝道旅行の中でコリントでの伝道は約1年半、行われたとあります。(使徒18:11)そして、エフェソでの伝道は約3年行われたというのですから、何か特別なことがあったと考えてしまいます。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下ったとあります。そこで何人かの弟子たちと出会ったとなっています。ここでパウロは、エフェソであった弟子たちに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と聞きます。そうすると弟子たちは、驚くべきことに「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたことがありません」と答えています。

 そして、パウロが弟子たちに「それなら、どのような洗礼を受けたのですか」と聞きますと、弟子たちは「ヨハネの洗礼です」と答えています。今日、私たちは、教会で洗礼を受ける時に、イエス・キリストの名による洗礼を受けるのが当たり前で、その他はないと考えています。実は、教会が始まって最初の頃は、2つの洗礼が存在していたということができるのです。1つが、洗礼者ヨハネの洗礼、2つが、イエス・キリストの名による洗礼です。教会の歩みが始まったばかりですので、いろいろな混乱も抱えながら、歩み続けていたのです。

 実は、使徒19:1「アポロがコリントにいたときのことである」とあります。その前の使徒18:24~28では、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家がエフェソに来たと書いています。このアポロは、主の道を受け入れており、イエスのことを正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかったとあります。このアポロが会堂で大胆に教え始めていくのです。これを聞いたパウロの協力者だったプリスキラとアキラが、アポロを招き、もっと正確に神の道を説明しています。そして、アポロはイエス・キリストの救いの意味を正確に知ることができるようになっていくのです。

 パウロがエフェソに行った時に、弟子たちと呼ばれる人々がいて、洗礼を受けた時に、聖霊のことは何も知りませんでした。どんな洗礼を受けたのかと聞いた時に、ヨハネの洗礼だということでした。洗礼者ヨハネの洗礼は、新約聖書の中で、特別に大切なものです。

マルコ1:1~8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 このマルコによる記事が分かりやすいと思います。洗礼者ヨハネの働きは、イエス様の働きの前に、必要なこととしていわれています。それは、罪の赦しを得させるために悔い改めるの洗礼を行うことでした。罪の赦しを得ること、悔い改めることとは何を意味するでしょうか。旧約聖書では、まず神の教えである律法を守ることが求められています。律法を2つにまとめると、1は、神を愛すること、2は、隣人を自分のように愛することです。教会学校では、この夏に、人形劇「よいサマリア人」に挑戦しました。内容は、皆さんが良く知っているものです。あるユダヤ人がエルサレムからエリコに旅をしていきます。旅の途中で強盗に襲われて、持ち物をすべて取られて裸にされてケガを負ってしまうのです。そのままでは死んでしまいます。そこに祭司やレビ人が現れますが、助けることなく行ってしまいます。そこに、当時、ユダヤ人と敵対していたサマリア人がろばを連れて現れます。サマリア人は傷つき倒れているユダヤ人を介抱して助けて、エリコまでろばに乗せて行き、宿屋に連れて、助けるというものです。ここでは隣人を愛することとはどのようなことかという問いに答えて、イエス様がたとえたものです。助けたサマリア人は、神の教えを守ったことになり、祭司やレビ人は神の教えを守らなかったということです。

 洗礼者ヨハネがいったことは、すべての人々は神の教えを守ることができないから、そのことを認めることが大切だということです。自分が罪人だと認めて、神に悔い改めることです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に変えるということです。これだけだと生きることが辛くなっていくと思います。もう一度、神の教えを守ろうとします。でも、できない。このままだと希望や生きる意欲がなくなってしまいます。洗礼者ヨハネの宣教は多くの人々に共鳴を与えました。多くの人々が洗礼者ヨハネのもとに来て、洗礼を受けていったのです。その流れで、洗礼者ヨハネの弟子となり、活動していった人々が多くいたということです。エフェソでパウロが出会った弟子たちとは、そのような洗礼者ヨハネの洗礼を受けた人々ということです。

 パウロは、この洗礼者ヨハネの弟子たちに「ヨハネは、自分の後から来る方、つまり、イエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と答えます。弟子たちは、これを聞いて、主イエスの名による洗礼を受けるのです。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言などをしたのです。弟子たちは皆で12人だったとあります。パウロの働きによって、洗礼者ヨハネの弟子たちは、主イエスの名による洗礼を受けることができました。その時に、使徒2章で起った聖霊降臨が起きたのです。主イエスの名による洗礼は、聖霊が働いているのです。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味を理解することができるようになるということです。パウロは、最も大切なこととして、わたしがあなたがたに伝えたことして、キリストが聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んでくださったこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと、そして、復活された主イエスが、自分に現れたことをいっています。

 振り返ってみると、当時は、洗礼者ヨハネの洗礼を受けた者と、主イエスの名による洗礼を受けた者がいたのです。キリスト教の最初の頃は、そのような2つの流れが混在していたのでしょう。それも、パウロなどの働きによって、正しい主イエスの名による洗礼だけが1つになっていったのです。私たちはキリスト教を信じています。教会に来て、イエス・キリストの福音を信じています。それは、聖霊の働きによるのだということを改めて知るのです。自分たちの力によって得ることができるものではなく、神の憐れみによって、聖霊が注がれて、主イエスの名による洗礼を受けて、今日に至っています。これから、洗礼を受ける者も、主イエスの名による洗礼を受けるのです。ただ、神による導きに深く感謝していきたいと思います。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。洗礼者ヨハネの働きがありました。その後に、あなたの御子イエス・キリストの十字架がありました。すべて、あなたの導きによって、神からの罪の赦しと救いを得ることができました。私たちはいつも、イエス様の十字架を仰いで生きることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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