10月26日の礼拝の内容です。讃美歌は、6.411.529.573.46です。
礼拝説教 エレミヤ書20:7~13「嘆くことは賛美のはじめ」(小椋実央牧師) 2025.10.26
「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。」冒頭から、少し心をざわつかせる言葉です。神が人を惑わす。神がエレミヤを惑わして、エレミヤを捕らえてしまった。神が人を惑わすということがあってもよいのでしょうか。実はこれでもかなりオブラートにくるんだ表現になっています。直訳をするともっと生々しい性的な表現で、男性が女性に強引に関係を迫った。今日はそうとばかり言えなくて、女性から男性に強引に迫るということもありうるのでしょうけれども、聖書の時代背景を考えると、今から2500年ぐらい前のことなのでそのあたりはおゆるしいただきたいと思います。本文に戻りますが、男性が女性に関係を迫って、男性が女性を自分の思うままにした。性的同意などという言葉のない時代です。男性からの性的な誘惑に、拒むことのできない女性が言いなりになってしまった。エレミヤは神と自分との関係をそのようにたとえています。
このエレミヤの言葉は預言者としての召命を、神の招きをよくあらわしています。預言者になることを希望してなる者は一人もいません。常に神の側からの一方的な招き、一本釣りなのです。有無も言わさずに強引に連れ去る、とは言わないものの、神のよびかけに対してお断りする余地というのはほとんどありません。そのことはアブラハムが息子イサクをささげた時、或いはモーセが出エジプトの指導者として招かれた時、そしてパウロが伝道者として召される時のことを思い起こしていただければ一目瞭然です。そしてもし神の招きを無視したりお断りしようものなら、とんでもない出来事が待ち受けています。ヨナは嵐の海に放り込まれ、祭司ザカリアは口がきけなくされ、パウロは目が見えなくされてしまいます。一応対話形式で神から話しかけられるものの、こちらの人間の側にはほとんど選択の余地はありません。エレミヤは神と自分との関係を、無理やり関係をせまられてしぶしぶ言いなりになってしまった男女のようだととらえています。それゆえに、つまり、すっかり神のものとして従属してしまっているがゆえに、私は笑いものにされ、あざけりを受けている。
今日お読みした前のページ、20章の冒頭にはこんな出来事が記されています。「主の神殿の最高監督者・・・恐怖が四方から迫ると呼ばれる。」エレミヤが預言者として活動するようになってから、20年近くの歳月が流れていました。エレミヤ以外の預言者は「平和だ、平和だ」とお気楽なことばかり語っていました。一方エレミヤは北から、すなわちバビロンに滅ぼされる、という暗いメッセージを繰り返し語りました。おかげで民衆からはずいぶんと嫌われて、エレミヤはいやがらせを受けていたようです。エレミヤは、ただ神に語れと言われたことを語っているだけなのに、聞いているほうにとっては耳の痛い話ばかりですから、面白くないのです。
この日は神殿のおそらく大祭司である、つまりユダヤ教の指導者のトップであるパシュフルという人物が、エレミヤを捕らえて鞭で打ち、足枷でつなぎました。一人だけおかしなことばかり語るエレミヤを災いの元だと思い、罰を与えたのです。次の日、つまり足枷が解かれた日、エレミヤは負け惜しみのようにこう言います。「お前の名はパシュフルではなく、恐怖が四方から迫ると呼ばれる。」事実、後にエルサレムはバビロンに包囲されてしまうので、これも預言と言えばそうなのかもしれません。しかし肝心のパシュフルは、こんなことを言われても痛くもかゆくもありません。ただ、エレミヤの存在が煩わしいだけです。しかし罰する場合には、例えばむち打ちは40回、というように律法で定められていますから、これ以上エレミヤを罰するわけにはいきません。おそらくエレミヤとパシュフルは喧嘩別れのように、お互いに足早に立ち去っていったのだと思います。ユダヤ教の最高指導者から、公衆の面前で鞭打たれ、鎖につながれて、その後に続くのが今朝のみ言葉です。エレミヤの深い嘆きです。「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。」もう少し先に進んで10節を見てみると、味方だった者もエレミヤがつまづくのを待ち構えていると記されています。エレミヤの親族、親や兄弟だったのではないか、と言われています。エレミヤは神に結婚することと、子どもをもうけることを禁じられていました。聖書をお開きにならずにそのままお聞きいただきたいのですが、エレミヤ書の16章にはこのように記されています。「あなたはこのところで妻をめとってはならない。息子や娘を得てはならない。」
親や兄弟とは敵対している。新しく家族を持つこともゆるされない。誰も自分のかたわらに立って共に嘆き、労苦してくれる人がいないのです。元はと言えば、世間知らずのうら若き青年の日に神に強引に招かれ、他に誰も家族を持ってはならないと束縛をされて、純粋に神さまにお仕えしてきたにも関わらずこのありさまです。このすべての原因は、あなたが私を惑わしたからではありませんか。神が人を惑わす、という言葉は、およそ今日の信仰者である私たちが日常的に使う言葉ではないかもしれません。しかしこの状況のエレミヤであれば。神に召され、神に囲われて、すなわちエレミヤの人間関係を全て断ち切られて、人々からは辱めを受け、打ちひしがれて、誰の慰めを受けることもなくただ神にのみ心のうちを打ち明けるしかないという状況であれば、私は神に惑わされた、と言ってもゆるされるような気がします。エレミヤは決意します。それならば。もう2度と神の言葉は語るまい。もう2度と神の名を口にすまい。そうすれば私は2度と鞭うたれることもなく、鎖につながれることもなく、人々から笑いものにされることも仲間外れにされることもなく、穏やかな日々を送ることができるに違いない。しかし語るまい、語るまい、と繰り返し思うのに、主の言葉は繰り返し火のように燃えあがるのです。今語ってはいけない。神のことについて語ったところで、誰も喜びもしない。だから語りたくもないのに、主の言葉はエレミヤ自身の中からあふれてしまうのです。
「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」エレミヤの深い嘆き中で、神への信仰の言葉が響きます。「押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」弱弱しいのに、力強い、なんとも印象的な言葉です。このみ言葉に後押しされて、信仰の道を歩み、牧師としての道を歩むことを決断した、少なくとも二人以上の信仰者を私は知っています。私達の中にも、この箇所を愛唱聖句として選んでおられる方もいるかもしれません。「押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」私達もあえて言葉にはしないものの、神さまの前で自らの敗北を宣言するような苦しい体験を日々積み重ねているのかもしれません。エレミヤの苦しい告白は、11節以降の「しかし」という言葉から力強い言葉へと変わります。「しかし主は~甚だしく辱めを受ける。」今はエレミヤ自身が辱めを受け、パシュフルをはじめとするユダヤ教の指導者、民衆がわたしを迫害しているが、やがて彼らが辱めを受けることになる。立場が逆転する、と言うのです。これはエレミヤの負け惜しみでもなんでもなく、れっきとした根拠があります。ヒントは12節の「万軍の主よ」という言葉です。万軍の主よ、という呼びかけは、礼拝での神の呼び名の一つです。つまりこれまでご一緒に読んできたエレミヤの深い嘆きの言葉、エレミヤの一人語りのようでもありますけれども、これは礼拝の中で語られた言葉。礼拝で神に打ち明けた言葉です。誰もエレミヤを応援するものはなく、誰もエレミヤを理解することはなかったかもしれないが、エレミヤと共に礼拝にあずかる仲間がいたことをあらわしています。
エレミヤの深い嘆きが神に聞かれた時、嘆きから希望が生まれます。私の嘆きが神に聞かれている、と実感できた時、感謝が生まれ、賛美となります。「万軍の主よ・・・助け出される。」神への感謝を失わない生活を送りたいと思います。賛美を忘れない信仰者でありたいと思います。そのためには、正しく神の前で嘆くことから始めないといけないのかもしれません。信仰者として生きるのならば、もっともっと嘆くことに専念したいのです。エレミヤ書の次には、哀歌という書物があります。あまり説教でとりあげることはない、と言いますか、私の記憶にある限り哀歌の説教をこれまで一度も聞いたことがないかもしれません。この書物のタイトルからして、あまり楽しそうではない書物であることが想像されます。事実、ここにおさめられているのはエルサレム神殿の崩壊を嘆く歌がえんえんと続くのですけれども、時代と文体が近いことから、エレミヤの作ではないか、とも言われています。
一人で哀歌を読んでいますと、だんだん心が病んでしまいそうな、暗い気持ちになってくるのですけれども、しかしこのような書物が聖書におさめられている、という意義を心にとめておきたいと思います。イスラエルの人々が、神の前で嘆く、礼拝において嘆くということをとても大事にしてきたということ。そしてユダヤ教の弟分であるキリスト者である私たちも、兄弟子をみならって、神の前で正しく嘆く、その作法を身に着けたいと思うのです。独り言でもなく、愚痴を言うのでもなく、礼拝の中で神と人との前で正々堂々と嘆く。一人で嘆いてもそれはただのボヤキにしかなりませんが、神に聞いていただくならば、それは嘆きのままでは終わりません。嘆きつつも、しかし私はこの道で生きるより他ないのだ。あなたに従って生きるより、他の道はないのだ、という信仰告白の言葉へと変わります。
あなたが私を選んだのだから、あなたが私の人生をどうにかしてください、という破れ被れの言葉になるかもしれません。しかし神に聞いていただくことに意味があります。神が聞いていてくださる、そのことが力の源となり、賛美の力がむくむくと生まれてくるのです。もしちっとも希望が湧いてこないし、ちっとも賛美をする気にもならない、というのであれば、わたしたちは礼拝の姿勢を見直す必要があるかもしれません。礼拝という名の単なる週に一度の生活習慣に陥ってはいないだろうか。礼拝という名の自己表現の道具になってはいないだろうか。礼拝とは、生ける神と会衆の交わりです。神を信頼するからこそ、心を注ぎだして嘆きます。聖書をそらんじるほどに読み倒して、聖書の言葉を自分のものにしてすらすらと神の前で心のうちを嘆くことができるようになった時、エレミヤをはじめとする古の信仰者たちと共に礼拝にあずかる恵みをいただけるのです。瀬戸永泉教会が、この世の教会であるだけでなく、聖なる公同の教会の交わりに生きる教会となるのです。
10月に入ってから、少しフライング気味ではありますが、子どもたちと一緒にページェントの練習をはじめました。昨年は一人一人がたくさんセリフを覚えて、マリアやヨセフ、羊飼いの役を演じてもらいましたけれども、今年は少しセリフを減らして、その代わりに歌を多めにして、歌でお話をつなげていく形にしたいと思っています。毎回子どもたちと確認をしているのは、ページェントはただの劇ではない、ということ。ページェントのセリフや歌はすべて聖書、神さまの言葉です。それを演じている私たちと、それを見ている人が、一緒に神さまを見上げることができる。ページェントは礼拝と同じことなんだよ、と伝えています。そんなページェントができるということ、ページェントをさせていただけるということは、とても素晴らしいことです。神さまが私たちを選んで教会へ招いてくださって、私たちがページェントを演じることを神さまがとても喜んでくださっている、ということ。だから神さまに感謝して、ページェントをさせていただこう、という話をしています。
みなさんには少しお詫びをしなければならないほど、やかましく、騒々しくページェントの練習をしているのですけれども、やがて子供たちが自覚的に礼拝に連なって、ここから二人目、三人目の受洗者が与えられることを祈りつつページェントの準備をしています。子どもだからと言って、いつも朗らかに楽しく教会に来ているわけではありません。子どもであっても、やはり時には嘆きたいという気持ちになることもあるでしょう。どうして親は同じことばかり言うのか。どうして昨日まで仲良しだった友達が急に冷たくするのか。どうして勉強をしなければならないのか。私達ですら上手に神さまの前で嘆くことができませんから、子どもであれば尚のことです。しかし礼拝者として大人も子どもの関係ありませんから、大人も子どもも一緒に正々堂々と嘆き、その嘆きが神さまに聞かれている、神さまが聞いてくださっているという喜びを共に味わいたいと思います。そして私たちの嘆きに耳を傾けてくださる神が、私たちのイエス・キリストを与えてくださった。御子のご降誕の喜びをかみしめて。大人も子どもも精一杯神さまをほめたたえる、そのようなクリスマスを迎えたいと願っています。
<祈り>ご在天の父なる神さま。暗くて、深くて、冷たい海を、一週間かけて泳ぎ切って、ようやく浜辺にたどり着いたような思いで私たちはここに集っています。怒りに燃える日もあれば、言葉も出ないほど落ち込む日もありました。私たちの心のうちをどうぞご覧ください。そしてどうぞ祈りの言葉を、ほめたたえの言葉を私たちにさずけてください。あなたが私たちのことを知ってみておられる、そして立たせ、新しく生かしてくださる。そのことを心から信じ、あなたをほめたたえる群れへと作り変えてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン


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