11月2日の礼拝の内容です。

礼拝

11月2日の礼拝の内容です。讃美歌は、194.197.385.493.27です。

礼拝説教     ヘブライ11:13~16「天の故郷を求めて」   2025.11.2

 今日の教会のカレンダーは聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝です。私たちの教会堂の周りに、先に天の召された方々の写真が飾られています。ここに集まりの皆様にはとても懐かしい顔写真だと思います。1人1人に、この地上に生きた歩みがあり、私たちと関係のある方々です。最近に亡くなられた中島姉妹を思います。施設に入られ、次に病院に入られて、地上での最後の日々を過ごされていました。ある日の月曜日の夕方に病院へ訪ねて行きました。まだまだ大丈夫と思っていましたら、次の日に召されて行きました。人の命のはかなさを痛感しました。次に大内姉妹です。しばらく自宅で過ごされていました。体調を壊し、病院に入院されました。入院されてから厳しい状況が続いていました。ある日の昼に家族の方から連絡があり、病院に向かいました。安らかなお顔でした。教会堂に飾られているお写真お1人お1人、いろいろな人生の歩みがあり、様々な最期の日々がありました。今では懐かしくあの時を思い出しています。

 私は、この聖徒の日(永眠者記念日)が来る度に、人の歩みには限りがあることを思い知らされます。それは、ここにいる私、またが皆様もいつの日かは、それぞれの死を迎える時が必ずやって来るということです。私は、いつか来る自分の死の時をしっかりと受け止めて生きることが大切だと思います。自分の死を受け止めることは、自分自身の生き方をより大切に考えていくことになります。限られた時間、限られた人生があり、どう豊かに生きていくことができるのだろうかと日々、問うていくことになります。

 今日の聖書の箇所は、ヘブライ書11章です。ここには旧約時代の信仰者の歩みが書かれてあります。アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセなどです。旧約聖書の最初の頃に出て来る信仰者の名前です。それらの信仰者の歩みを実際に取り上げて、私たちがどう生きるべきかを教えてくださっているのです。

ヘブライ11:1

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 ここには、信仰とは何かを教えています。そのことがより具体的に書いてあるのが、今日の聖書の箇所であるヘブライ11:13~16です。何が書かれてあるのでしょうか。

ヘブライ11:13

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

 ここにいる信仰の先輩方は、約束されたものを目にせず、死んでいったのです。この人たちは皆、信仰を抱いて死んでいきました。約束されたものを手に入れることができなかったのです。信仰とは何でしょうか。私たちは生きているといろいろな困難に出会います。いろいろな苦しみに出会い、解決を願います。突然に病気になってしまう。突然に大きな事故にあってしまう。いろいろな人間トラブルで困ってしまう。本当にいろいろなことが人生には起って来るのです。できれば、そのようなトラブルからは避けて生きていきたいと願いながらも、避けることができないことが多いのです。そのような問題に対して、神への信仰によって、問題が解決していく。問題のために神に祈って解決してもらう。そのようなことが起るのが私たちの人生です。問題が解決した。祈りが聞かれたということもあるでしょう。

 ところが、この信仰の先輩方は、約束されたものを手に入れなかったと書いてあります。自分の問題のために、神に祈ったのが解決できなかった。祈りが聞かれなかったということです。私たちの人生には、いろいろな困難な問題が起るといいました。それが解決できない、これが神への信仰の結果ということを、私たちはいったいどのように受け止めたらいいのでしょうか。私たちはここで、私たちがどんなに神に自分の問題の解決のために祈っても適えられないことがあることを知る必要があります。それが神を信じて生きていく信仰者の現実なのです。

 先の聖書の箇所に、約束されたものを手に入れませんでしたと書いてあります。この約束されたものとは何でしょうか。更に、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上でよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのですとあります。生きている者はいつか必ず死を迎える時が来る。そういう意味では、この地上ではよそ者であり、仮住まいの者であるということができるでしょう。私たちの人生は限られたものです。それぞれに与えられた時間というものがあります。もちろん、詳細は誰も知ることはできません。結果として知ることになります。

 約束されたものとは、14節には「自分が故郷を探し求めていることを明らかに表している」と書いてあります。約束されて手に入れることのできなかったものとは、自分たちの故郷をいうことになります。15節では「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るにもよい機会もあったかもしれません」とあります。これは、アブラハムのことを指していると考えられます。

ヘブライ11:8~10

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

 ここに書いているように、アブラハムはそれまで住んでいたカルデアのウル出て、新しい土地に出て行くように神に命じられています。アブラハムが75歳の時でした。アブラハムは行き先も知らずに出発したのです。アブラハムは、神が設計者であり、建築者である堅固な土台を持つ都を待望していたとあります。それが、ヘブライ11:16では「天の故郷を熱望していたのです」とあります。天の故郷とは、神の国です。

 ここまで読んで来ましたが、ヘブライ書11章は、旧約聖書に出て来る信仰者の名前が出てきました。彼らが望んでいた約束されていたものとは、天の故郷のことです。この地上のものではなく、後に神が新しく造ってくださる神の国ということです。

ヨハネの黙示録21:1~4

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 ここ書いてある新しい天と新しい地のことです。最初の天と最初の地は去って行きます。これは、今、私たちが住んでいる世界のことです。旧約聖書の信仰者も、今生きている私たちも、この地上ではなく、神が用意してくださる天の故郷である神の国を待望して生きていくのです。ヘブライ書はいいます。「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたのです」と。神は私の神になってくださるのです。神は私たちの神となってくださるのです。神は私たちのために、天の故郷である都を準備してくださっています。

 私たちは日常生活を送っていますと、目の前のことで精一杯です。それしか見えていません。目の前にはいろいろな困難や悩みが起って来ます。でも、それは一時的なものなのです。本来、私たちが目指すべきは天の故郷である神の国です。そのような神への信仰を持って、今の時を歩んで生きたいと願います。ここに飾ってある信仰の先輩たちも、そのような天の故郷を求めて歩んでいたのです。私たちも天の故郷を求めて歩んで生きましょう。

祈り 神よ、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を、先に天に召された方々、その家族の方々と共に守ることができましたことを心から感謝します。目の前に起っていることを対処することも大切ですが、本当に行くべき先を見上げて歩むことができますように、天の故郷である神の国を待ち望みながら、歩んでいくことはできますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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