6月20日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、58(1)452(1)です。教会堂の窓枠のアンケートをしています。

礼拝説教   マタイ17:14~20「あなたがたにはできないことは何もない」 2021.6.20

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、神を礼拝することができることを感謝します。この1週間も神の言葉を受けて、希望と感謝に満ちたものになりますように祈ります。

 イエス様と3人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、ヘルモン山に行き、大切な時を過していました。そのふもとでは、残りの弟子たちが、ある試練にぶつかっていました。それはてんかんの子を癒すことができなかったのです。マタイ10:8「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあるように、イエス様は弟子たちに、病人を癒す力を与えていたのです。それなのに癒すことができないでいました。その時に、イエス様たちが、ヘルモン山から帰って来たのです。

 ヘルモン山では、イエス様の本当のお姿、神の栄光を見ることができました。3人の弟子たちは、そのイエス様の神の子としての姿を見ることができたのです。そして、モーセ、エリヤ、神から、イエス様は本当の自分の働きについて確認をすることができました。そして、地上に戻っていくのです。地上では、いろいろな人間の苦しみや悩みが満ちていました。イエス様たちが、群衆のところへ行くと、ある人がイエス様に近寄り、ひざまずいて言います。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度度火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」と。

 ある人とは、このてんかんで苦しんでいる子の父親であることが分かります。この父親は、イエス様を見て、近寄り、ひざまずいて、息子の病気の苦しみからの癒しを願っています。父親はイエス様に「息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度度、火の中や水の中に倒れるのです。」と、訴えています。どれほど、この父親は自分の息子の病気で苦しんでいたのでしょう。この父親の訴えに、その苦しみの深さを感じます。

 実は、すでに、この父親は、イエス様の弟子たちのところに来て、息子の病気の癒しを求めました。しかし、それができませんでした。きっと大きな失望だったと思います。でも、イエス様本人なら、きっと息子の病気を癒してくれると待ち望んでいたのでしょう。やっと、イエス様が現れて、この父親は必至で、息子の病気の癒しを求めています。

 イエス様は、この父親の願いを聞きました。弟子たちが、このてんかんの子を癒すことができなかったことを聞き、イエス様は怒っているようです。イエス様は答えます。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまでわたしはあなたがたに我慢しなければならないのか。」と。どうして、これほどイエス様は弟子たちに対して、怒っているのでしょうか。弟子として、ふさわしい働きができない者たちに深く失望しているのでしょうか。そのように見ることができます。逆に、イエス様は弟子たちに、期待をしていたと考えることもできます。それができなかったので、残念な気持ちが強い拒否反応として出ているのでしょう。

 そして、イエス様は「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」と言います。そして、イエス様がお叱りになると、悪霊は出て行き、その時に、子どもは癒されたのです。イエス様の力はすごいものです。てんかんの子が癒された父親は喜んで帰って行ったでしょう。子どもも苦しみから解放されて、希望を持って、新しい歩みをすることができたのです。

 てんかんの子を癒すことができなった弟子たちはどのような思いだったのでしょうか。弟子たちはひそかにイエス様のところに来て「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか」と尋ねています。ひそかにという言葉が弟子たちの思いを表現しているように思います。

 イエス様は答えます。信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって「ここからあそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もないと。今日の聖書の箇所で問題になっているのは、イエス様の弟子たちが、イエス様がいない時に、てんかんの子を癒すことができなったということです。前に確認しましたが、イエス様はすでに、弟子たちに、病気などを癒す力を与えています。それが、いざという時に発揮することができなかったのです。その理由は、弟子たちに、イエス様に対する信仰が足りなかったということです。信仰が薄かったから、癒すことができなかったのです。信仰の薄さとからし種一粒の信仰が比較されています。神への信仰が試されています。

 どうして、弟子たちはてんかんの子を癒すことができなったのでしょうか。それは、自分たちの力で癒すことができると思っていたからだと思います。イエス様がいない状態で、てんかんの子を前にして、父親の必死の願いがあり、弟子たちは何とか、癒してあげたいと願い、そのように努力したはずです。それができなかった。失望した父親以上に、弟子たちのショックは大きかったと思います。どうして、自分たちはできなかったのか、後で、イエス様から、信仰が薄いからだと言われたことで何を考えたのでしょうか。自分たちだけの力で、てんかんを癒そうとしたからです。それが大きな原因でした。神への信仰とは何でしょうか。とても難しい問題です。

 旧約聖書に次のような内容があります。士師記7章です。ギデオンの物語です。この時、イスラエルはミディアン人と戦っていました。圧倒的な敵の数です。弱小のイスラエルがどのように戦い勝利することができるのでしょう。そのような状況でした。ギデオンのもとには3万2千人が集まりました。ギデオンにしてみれば、もっと多くの仲間が戦いに加わってほしいと願ったはずです。ところが、神は、ギデオンに数を減らすように命じるのです。

士師記7:2

主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」

 そして、イスラエルの数は、ギデオンの呼びかけで、300人のみが残りました。そして、イスラエルはミディアンに勝利するのです。神の力によって、イスラエルは勝利することができました。神の力のみに頼る、これが神への信仰ということなのです。イエス様の弟子のように、私たちもできれば、自分たちの力でなしていきたいと考えるはずです。それではいけないとイエス様は言われるのです。自分の力ではなく、イエス様の力によって、それが成し遂げられること、それを求めることが信仰ということになります。

 イエス様は、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここからあそこに移れと命じても、その通りになる、あなたがたにはできないことは何もないとまで言われます。その通りです。自分たちの力ではなく、イエス様の力です。イエス様の十字架の力によって、私たちのすべての罪や赦され、復活の命、永遠の命が与えられているのです。これ以上の奇跡はありません。山が移る以上の奇跡です。私たちは瀬戸永泉教会で信仰生活を送っています。私たちが自分の力に頼るのではなく、神の力、イエス様の力のみに頼って、歩むことができるように祈ります。

祈り 神さま、あなたのみ言葉をありがとうございます。あなたへの信仰とは何かを教えられました。私たちはすぐに自分の力を誇ってしまう傾向があります。そうではなく、自分の弱さに気づき、あなたの力のみを信じて、歩んで行くことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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